煌炎 5

 フロア全体を回り、少年は買い物を終えて安堵の息を漏らした。特に、在庫が少なくなっていた緋色の染料を売り切れ前に買うことができたのは行幸だ。月一の常連となっているその店の緋色は発色が良く、日頃から幸運とは言い難い少年が店に辿り着く頃には、売り切れてしまっているということも少なくなかった。

 今日の買い物は比較的上手くいった。足りないものは最低限買い足せたし、何よりも、一角獣の染料という稀少品まで購入できたのだ。おかげで、多少は残ると思っていた財布の中身がすっからかんだが、少年の心は満足感で溢れていた。

 もうほとんど何を買うこともできないけれど、折角の市場である。美しいものがたくさん置いてあるこの場を、残金がないのを理由に去るのは少し勿体ない。少年はまだ染料のフロアしか見ていないが、他のフロアには色とりどりの反物や加工前の宝石、珍しい薬草の類や魔術道具に適した金属のほか、滅多に手に入ることのない食材などなど、あらゆるものが売りに出されているのだから。

 人混みは気分の良いものではないけれど、綺麗なものに見惚れていればそこまで気にかかることでもないだろう。

 帰宅しようと思える時間まで、明るい気分のまま市場を眺めて回ることができれば――そこまで考えて、ふと意識にひとりの男の姿が割り込んだ。姿といっても、その見た目は思い出そうにも曖昧で、どんな特徴であったかを口にすることもできないのだけれど。

 そうだ、そういえば、あの男を連れてきているのだった。その事実を思い出して、少年は口元をマフラーに埋もれさせたまま、少しだけ口をへの字に曲げた。

 あの、よく判らない男。何を考えているのかも一体何者なのかも、何が目的で付きまとってくるのかもさっぱりと判らず、また判りたくもないあの男は、別行動をしているとはいえ、現在一応仮にも少年の連れ添いなのだ。

 中央の噴水で合流、だとか言っていただろうか。その時はさっさと買い物に行きたくて話半分にしか聞いていなかったが、よく考えてみれば場所は決めていても時間を決めていない気がする。集合するにしても、一体いつ噴水に向かえばあの男はいるのだろう。

 今更気付いた落ち度に少年は考える。と言っても、この場合は果たして男と少年のどちらに落ち度があったのかは悩ましいところだ。それもあってか、少しの間考えて、けれど彼は、取り敢えず己の都合を優先させることにした。つまり、この夜市をもう少し回ってみよう、という結論に落ち着いたのだ。

 万一男が既に噴水の所にいて少年のことを待っていようとも、それはそれで致し方のない話だ。荷物持ちをすると言っていた以上、少年に付き合うつもりがあったのだろうから、少年と一緒に市場を回るか、その場で少年を待っているかの違いだけで、少年のために時間を使うことに変わりはない。それならば、どちらだって構わないではないか。それに、なるべく噴水から近い店を回るようにすれば、男が探せば自分を見つけることができるだろう。

 薄情かもしれないが、基本的に少年は他人に対して興味がない性質だ。まだ存命の相手に限れば、少年が身内と認識している存在は(本人に言ったら恐らく彼女は顔を聾めるだろうが)自分に刺青を教えてくれた己の師ひとりである。生きる術を与えてくれたその師匠に対しては素直に感謝し、大切な人だという認識はあるものの、それ以外の存在、例えば顧客だとかは、店に利益をもたらしてくれる存在として大事だとは思っていても、個人としてはほとんど認識していない。必要があるから覚えてはいるが、人というよりも客というモノを覚えているようなものだ。これで腕が半端ならば顰蹙のひとつも買うことがあるかもしれないが、幸いにも少年の腕は師匠が独り立ちを許し、放り出した程度には上等で、呼吸をするように表面を繕う少年は、そこまでの内面を客に悟らせることはなかった。

 客商売として重要な相手ですらそうだというのに、件の男は客ですらないどころか半分邪魔をしに来ているようなものだ。まともな情があるわけもない。いっそ客にでもなってくれれば記号として薄っぺらに認識できるのだが、残念ながらそうはあってくれないあの男は、店にいるだけで異物感があって落ち着かない。そうかといって客になられたらそれはそれで、あのこちらを見透かしているような男と長く関わりを持つ羽目になるのは憂鬱なのだが……。

 沈み込んできた気分を和らげようと、ため息を飲み込んだ少年は袋から小瓶を取り出した。中身は勿論、一角獣の粉が揺れる真珠色の染料である。

 ああ、なんて綺麗だろう。

 少年の冷めた目が、とろりととろける。彼にとって美しいものは素晴らしいものであり、それを見るだけで視界が狭まって、周囲の音が小さくなってしまう。虹のような真珠色は、そのまま使っても良いが、他の色に混ぜて使用しても見事に輝いてくれることだろう。

 光りの加減で色を変える真珠をもっと楽しみたくて、少年は天井のライトへと小瓶を掲げる。煌めく色合いはきっと、このような人工の光ではなく太陽の下での方が、もっとずっと美しいに違いない。

 そうやって心を癒していた少年は、ふと、小瓶の奥、高みにある天井に目が行った。何かが意識に引っかかったのだ。疑問を抱いたまま天井に視線をやり、眩しさをこらえるように左目を細めて見れば、白い天井に何か黒い線のようなものがあるのを見つけた。

(あれ、なんだろう……?)

 少年が思うのと、何かが割れるような大きな音が響いたのが、同時だった。

 あまりにも耳にうるさい音に少年の肩が跳ね上がり、そこからはあっという間だった。天井に亀裂が走り、今にも割れそうになる様子を見ていた少年にすら、何が起きているのかすぐに理解できなかったのだ。頭上になど一切気を配っていなかった他の人間たちは、よりこの状況に混乱しているようだった。

 少年が現状把握に努めようとした、その時。

 突如、形容しがたい耳障りな鳴き声のようなものが四方から響いた後、少し離れた場所で、魔物だ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声を皮切りに、騒ぎは爆発的に膨れ上がり、ほんの僅かの内に、気づけば夜市全域がパニックに陥っていた。

 ある者は手に取っていた商品を放り投げ、またある者は店を放置して飛び出し、人々は誰もが安全な場所を求めて逃げ惑い出した。

 少年は爆音のように耳を叩いた騒ぎに数瞬忘我に陥ったが、邪魔だと誰かから突き飛ばされた衝撃に、はっと我に返る。ぶつかってきた相手は既にどこにもいない。誰一人、その場に留まろうなどと考えている者などいはしなかった。

 留まっていればいずれ死ぬ。

 その明確な事実をようやく受けとめた少年は、小瓶を袋に戻ししっかりと抱え、周囲から数拍送れて、走り行く人々の群れへと飛び込んだ。

(ここにいたら駄目だ)

 だが、衛兵を呼ぶ声や魔物の凶悪な鳴き声、それに混じって所々に上がる悲鳴に、恐怖に呑まれる群れは、各々の生存本能に従うばかりで周囲など欠片も見てはいない。我こそが先にこの場を抜け出すのだと押し合い圧し合い、統率の取れない動きは余計に互いの移動を阻害する。それは、命の危機に瀕しているという人々の恐れをさらに煽った。

 屋根と共に天井のライトが壊れたため、明かりらしい明かりは、店舗独自に置いてあった、それもまだ破壊されず無事であるライトくらいだ。夜の闇が侵食する空間では、例えこのような状況でなくとも動きにくいだろうに、こうあっては少年がまともに動けるわけもない。

 各地から人が集まる貿易祭は、ともすれば町ひとつ分ほどの人口がある。その量が混乱の下一度に動けば、それはもはや一種の暴動に近いものがあった。人の多さや場の広さも相まって、実際にどこが危険なのか、魔物はどこにいて何匹いるのかも判らない。起きていることの全容を誰もが理解できないことも、人々の恐怖心に拍車を掛けているのだろう。

 押し潰されてしまいそうだ、と不安になるくらいの人混みの中、掬われそうな脚をなんとか地につけて進もうとするものの、歳のわりに小柄な少年の身体は容易く埋もれてしまう。何度も人にぶつかって、夜市の戦利品を落としそうになっては庇うように抱えなおすのを、何回繰り返しただろう。

 怒号に近い叫び声が遠くからも近くからも聞こえてくる度に、少年の脚は疎みそうになってしまう。腹の奥底から冷える心地がして、心臓を締め付けるような感覚が脚の動きを鈍らせようとする。ただでさえ他者と接触するのが苦手で今の状況など悪夢以外の何物でもないというのに、そこに大声まで重なってしまっては、手足に冷たい汗が噴き出てくる。

 大きな声は好きではない。特に、怒りが混じった声は母親を想起させ、自分に向けられたものでなくとも心臓に針が突き刺さるような気持ちがする。ましてや声の主が女性であれば、なおのこと息苦しくなってしまうのだ。

 少年は早くここから抜け出たいと、その一心でひたすら足を動かす。下手に流れに逆らうよりも、流されてしまったほうが群集の動きに乗じて場を抜けられるだろうと、押し出されるように進んだ。

 一体何がどうなっているのか、それが少年にはさっぱりわからずとも、ここは仮にもギルガルド王の膝元である。その上この貿易祭はリアンジュナイル一の大市場なのだから、警備兵は多く駐在している筈だ。

(取り敢えず、この市場から抜け出さえすれば、きっと大丈夫)

 半ば自身に言い聞かせるようにそう思って、またなんとか前に一歩踏み出した足で地面を捉える。時折他人の腕やら足やらが無遠慮に身体を打つが、それは致し方ない。昔を思い出す衝撃が頭を打ったときは流石にびくりと目を瞑ったが、現状においては、幼い頃の恐怖よりも魔物への恐怖の方が勝った。

 そう、頭を打たれた衝撃に閉じた目を、再び開くまでは。

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