煌炎 3

 少年が残りの買い物を済ませている頃、のんびりと夜市の賑わいを楽しんでいた男は、ふと、異変に気づいた。

 夜風が、ある。

 周囲の人間たちは買い物に夢中で気づいていないようだったが、確かに、夜の風が肌を撫でたのを感じた。

 それは明らかな異常事態だった。何故なら、貿易祭の会場は例外なく屋根の下だ。そして、錬金錬成によって生み出された装置を内包する屋根に覆われている空間では、その空間特有の空調設定がされており、外部の気候の一切が影響しない環境になっているはずである。だというのに、男の頬を撫でた夜気は、確かに外のものであった。

「……風霊。屋根の様子を見ることはできるか?」

 小さく抑えた声で風の精霊を呼べば、風がふわりと男の髪を揺らした。

「空調機に何かしらの異常があったのやもしれん。だが、ギルガルドの、それも貿易祭の会場の装置が故障する可能性は限りなく低い。この交易の場は貿易国にとっての要だからな。ギルガルド王ならば、常に万全の整備を行っているはずだろう」

 言外に、非常事態の前触れかもしれないと匂わせた男の言葉に、風霊がふわりと駆ける。そのまま天井へとその身を滑らせようとした、その時だった。

 バキ、と大きな音を立てて、天井に亀裂が走った。同時に、会場を照らしていたライトが端から弾け、砕け散って行く。たちまち夜闇に包まれた会場に、今度は凄まじい悲鳴が響き渡った。急に暗くなったせいで闇に慣れない目では明確な判断はできないが、恐らくは、砕けたライトの破片が降って来たのだろう。至る所で次々に上がる悲鳴に、男の判断は早かった。

「風霊!」

 強く呼ぶ声に、風の精霊が奔った。そこに詠唱などはなく、しかし精霊は男の思う通り、降り注ぐ硝子の破片の数々を風で包みこみ、会場の外へと運んで行く。だが、阿鼻叫喚は止まない。いや、それどころか、今度はまた種類の違う悲鳴が男の鼓膜を震わせた。そこに乗せられた恐怖と苦痛の色を男が察するよりも早く、群衆がわっと動き出す。まるで何かから逃れるように駆け出す人波に押されながらも、男は現状の把握に努めた。

 半狂乱になって駆ける人の群れは、どうやら出口を目指しているらしい。長身を生かし、群衆が進むのとは逆の方まで視線を投げたところで、新しい悲鳴が耳に刺さった。比較的近くで聞こえた声に男が振り返れば、先程まで人々が向かっていた先に、巨大な何かが居る。

 悲鳴が生まれた場所に居たのは、リアンジュナイル各地を旅してまわった男すらも見たことがない、何かだった。

 黒い、影のような人型。だが、一見すると確かに巨大な人にも見えるそれは、肩から伸びる腕とは別に、脇腹のあたりから生えるもう一対の腕を持っていた。四本の手それぞれに人間を掴んでいるそれは、何がおかしいのか、巨体を揺らして笑っている。そして次の瞬間、ゆうに男の三倍はあろう巨体からは想像できない速さで跳躍した。高く跳んだ先で、掴んでいた人間を人混みに向かって投げつける。化け物の力で握られた脆い身体は、既にいたるところがおかしな方向に捻じ曲がっており、それをぶつけられた人々は、更に狂ったような金切り声をあげた。

 人々の悲鳴に、化け物はことさら嬉しそうに、耳障りな酷い笑い声を上げた。そのまま落下の勢いを利用して人混みの中心に着地し、店と数人を巻き込んで踏み潰す。骨が折れ、肉が潰される音と、喧騒。それに混じり、生臭い鉄錆の臭いが、むっと男の鼻をついた。

 これはまずい。会場は既に大混乱に陥っており、これでは落ち着いて状況を把握することすらできない。耳に届く悲鳴の発生源はここだけではなく、男が予想するに、会場の各地で化け物が出現しているのだろう。

 いや、それよりも、衛兵は何をしているのだろうか。大きな交易の場である以上、警備もことさら厳重にしいているはずだ。実際、会場内には何人もの衛兵が控えていた。だが、少なくともこの場所には衛兵の姿が見えない。

 これはつまり、会場に置いている衛兵だけでは処理しきれないほどに化け物の数が多い、という可能性を示唆していた。

 男はさっと近くの店に目を走らせた。そして、少し離れた店に華美な装飾が施された剣が飾られているのを見つけ、駆け寄る。店の中にはまだ商人が残っていたが、男は気にせずに剣を引っ掴んだ。

「貰うぞ!」

 懐から適当に出した金貨数枚を店に投げ、男は人々の隙間を縫うようにして駆け出した。まるで人々の動きを予測しているかのように、人混みの中を器用に進んで行く。向かう先に居る化け物に目をやれば、どうやら獲物を踏み潰す行為が気に入ったらしく、軽快に跳んでは人々を潰して遊んでいるようだった。

(とにかく、人々の逃げる道を作ってやらねば)

 ようやく近くまで辿り着いた男の目の前で、化け物が再び跳躍しようと身を屈めた。だが、巨体が地を離れるより速く、男は前方を目指して強く地面を蹴った。化け物の胴を一閃のうちに斬り捨てようと、剣が振るわれる。しかし、

 狙い通り化け物の腹に当たった剣は、だが、その皮膚を切り裂くことができなかった。硬いゴムのような感触が剣を通して手に伝わり、男はすぐさま戦術を切り替えた。本当は斬り捨てるつもりだったが、どうやら今この瞬間にそれをするのは難しいようだ。それならばと、剣を押し当てた勢いのまま力任せに腕を振りぬく。

 男の膂力に押された巨体が、ぐらりと傾いた。が、それまでである。さすがの男も己の数倍の体重を転がすことはできなかったようだ。だが化け物がたたらを踏んだ隙に、彼は体勢を整えるべく、一度巨体から距離を取った。

 ちらりと視線を巡らせれば、周囲には震える人々。そして、化け物に一人向かう男に対する、明らかな期待の目。

 困ったことに、これは割と最悪の状況である。これだけ注目を浴びてしまうと、折角かけ直してもらった目くらましも余り役に立たないかもしれない。だがしかし、残念ながら、だからといって何もしない訳にもいかなかった。

「致し方あるまい。居るな? 火霊」

 小声で語りかければ、男の意図を察した炎の精霊が、握った剣の刀身に僅かに纏わりつく。

 いくら装飾が美しかろうと、所詮は客寄せ展示用の剣だ。化け物の類を斬れないのも仕方がないだろう。リアンジュナイルに住む魔物でも、退魔の効果などを付与した武器でなければ傷一つつけられないものが少なくはない。恐らくは、眼前のこの化け物も、その類の防御特性を持った生き物なのだろう。この場に男の剣があれば事足りる話だったのだが、残念ながらあれは宿に置いて来てしまった。

 だが、刀身に魔法を付与するならば、疑似的に退魔の作用を発揮することも可能だろう。この剣は魔法付与に適したエンチャントウェポンではないようだから、そこまで長持ちはしないだろうが、それでもないよりは良い。

 淡い炎色の光を纏った剣を構え、男が再び駆ける。化け物の方も次の獲物を男に定めたようで、二対の腕を振りかざして向かって来た。男が敵の懐に入るよりも早く、固められた一対の拳が頭上から襲う。だが、男はそれを剣の柄で右殴りに弾いて、軌道をずらした。すかさず残りの二本の腕が男を掴もうと伸びるが、拳を弾いたときの力を利用して左に跳んで避ける。そのまま上手く化け物の脇腹に潜った男は、柄を両手で握り直し、がら空きの胴に刃を叩きこんだ。

 じゅう、というゴムの焦げるような音と悪臭を放ち、刀身が化け物の肉に埋もれる。やはり、今度は刃が通るようだ。それをしかと確認した後の男の動きは速かった。前に大きく脚を踏み込み、化け物の手が己に襲い掛かる前に、前方へと両腕を振りぬく。炎の精霊の加護を受けた刀身は、まるで最初から戦場で躍ることを目的に作られた武具のごとく、分厚い肉と骨を断ち、巨体の胴を両断した。

 切り口からは黒々としたおびただしい血が噴き上がり、辺りに激しく跳び散った。当然周囲の人間にも降り注いだそれに、しかし群衆は気にする余裕もなく、我先にと駆け出す。恐慌状態となった人々から男に対する礼はなく、寧ろ開けた道の真ん中に立つ男をまるで邪魔者であるかのように押しのけながら、群れは出口を目指した。

 窮地を救った人間に対するものとは思えない仕打ちだったが、男に気にした様子はなかった。寧ろ、自分を注視しないでくれるのは好都合だった。

 ちらりと目に入った自身の長髪の先は、既にどことなく赤みを帯びてきてしまっている。やはり戦闘は特によろしくない。どうしても気分が高まってしまい、目くらましが解けるきっかけになってしまうのだ。

 さすがにまだ顔の造形までは晒されていないとは思うが、髪が腰に届くくらい長いことだとか、くせ毛なことだとか、そこら辺の情報は見て取れてしまうだろう。

 取り敢えず、このまま人に揉まれていても仕方がない。そう思った彼は、近場にある店の布張りの屋根に跳び乗った。男の体重を支えるには若干心許ないが、少しの間であれば耐えてくれるだろう。

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