煌炎 1

 耳に障る高い声と全身に無数に走る鈍い痛み。そのどれもを、少年は幕を一枚隔てたところで見ていた。より近い感覚で言うならば、少年はその舞台をすぐそこの客席から見ているのだ。

 けれど少年は知っている。投げられる言葉の怨嗟が、ぶつけられる呪詛が。振り上げられた手がもたらす恐怖が。押し付けられる熱の苦痛が。どれほどまでに、その身体と心を傷つけ、凍てつかせていくのかを。

 そして、それでもなお、想うのを、こいねがい続けるのを、やめられなどしないのだ。

 少年は知っている。何故なら、少年は観客であると同時に、舞台上で悲鳴を上げる『彼』でもあるからだ。

 世界とは苦痛である。物心ついたときから、世界というものは、ただ自身を脅かすものに過ぎず、『彼』はただ虫のように縮こまって、暴風が過ぎていくのを待つことしかできなかった。

 伸ばした手が取られることはないと、知っていた。発する悲鳴は余計に嵐を呼ぶと悟り、喉を潰さんばかりに押さえつけていた。涙は零すだけ、貴重な水分と体力を失うだけで、いつの間にか瞳は常に乾いていた。

 死んでしまえたなら、どれだけ楽だっただろうか。狭い世界で、恐らくはただそれだけが真の救いで、それでも『彼』は救いを選ばず、矮小な命にしがみつき続けた。

 信じているのだ。いや、信じないではいられないのだ。少年には判る。疑いようもなく舞台の上の『彼』と同じ少年には、ただ真実として、それが理解できる。そして同時に、自分と同じだけれど違う声が、頭の奥の方で囁く。

――ああ、なんて無駄なことだろう。

 何も変わらない。何も変えられない。それは事実だ。これは事実だ。

 彼女の憎悪の籠る嘆きは、不思議と悲鳴じみて聞こえた。大人の膂力で思い切り頬を殴られたのは舞台の『彼』であるというのに、悲壮な声はいつもよりも胸と耳につんざいて響く。

 ああ、この人も苦しいのだ。

 判っていることだった。『彼』が存在することそのものが、ただただ苦痛で仕方ないのだ。呪わなければ気が済まない。排除しなければ立ちいかない。そうでなくては、この美しい人はいきてはゆかれない。

 衝撃にぐらぐらと揺れる頭。脳と身体の動きを鈍くする痛み。手足を凍らせようとする恐怖。それらを引き摺りながら逃げて、けれど『彼』は逃げきれない。

 色んなものを巻き込んで床に叩き伏せられた『彼』の首に、大きなふたつの手が伸びる。

 ごめんなさい。謝ったところで、何ひとつとして通じることはない。長い黒髪を振り乱す女の世界は『彼』を含まずに完結しているはずで、故に異物である『彼』の言葉など、ただの忌々しい騒音に過ぎないのだ。

 少年の眺める先、『彼』の目の前、見上げた美しい顔はいっとう醜く歪んでいる。青白い炎が見えそうな口と吊り上がった目尻は、きっと話に聞く鬼はこんな顔をしているのだろうと、少年に、『彼』に、思わせた。

――ああ、僕が悪いから。

 それは、どちらの言葉だっただろうか。




 ぱちり、と目を開けて、視界に飛び込んできた白い天井に、少年は混乱した。記憶にある限り、幼い頃から見ていた天井は、暗く薄汚れた茶色であったはずであり、周囲が薄暗い中では黒といっても差し支えないはずである。瞬きもせず天井を凝視して、己の鼓動を十数回聞いたあたりで、ああそうだ、と思い至った。

 ここはリアンジュナイル大陸。金の国と呼ばれるギルガルドの、自宅兼店舗の自室であり、あの場所ではない。

 小さく息を吐き出し、止めていた呼吸を少しずつ再開して、少年は額を拭った。手汗も酷いが額にも、もっと言うなら全身汗みずくで、布団の中は嫌な湿り気がある。服の張りつく感覚が不快で、少年は少し眉根を寄せた。

 カーテンを開けていないのを差し引いても薄暗い室内は、今の時刻が、明らかに少年が普段起床する時間よりも早いと告げている。とは言え、もう一度寝直すという考えは浮かぶ前から却下され、彼は身体を起こしてひとつ溜息をついた。

 幼き頃を綴る悪夢は、昨夜のように不定期に少年の眠りを妨げた。起きたときにはもうほとんどが曖昧になっているけれど、夢の中の母の顔が醜く歪み、呪いの言葉と暴力が降り注いだことだけは覚えている。それはとうの昔に終わりを告げた過去だ。今はもう失われてしまったものだ。けれど、まるで忘れることを許さないかのように繰り返されるその夢は、きっと母の遺した呪いで、今も、そして永遠に、解かれないままなのだろう。

 ベッドサイドの眼帯を手に取り、手に持ったまま服と下着をタンスから取り出して風呂場へ向かう。傷や火傷やらで醜く引き攣った身体を晒していると、どうしようもなく不安になってくるので、基本的にいつもカラスの行水だ。シャワーを頭から浴びて簡単に汗を流し、すぐに上がる。身に着けるのはいつもの服装。汚い身体を晒すことを厭う少年にとって、風呂上がりというのは薄着をする理由にはならない。

 どうしてだか、風呂の間も右眼を終始前髪で隠していた少年は、やはり右眼だけを瞑ったまま、ざっくり髪を拭いて眼帯を着ける。そこまでして、ようやく少年はひとここちついた。

(……どうしようかな)

 ひとここちついたは良いが、暗澹たる気分が回復するわけでもない。

 少年がいつも活動を開始し始めるのは早くてももう少し日が昇った頃合いからで、逆を言えばイレギュラーなことがない限り、もっと遅くでも事足りるのだ。娯楽らしい娯楽に明るいわけではないし、そもそも気分が沈んでいて、普段以上に積極性を持てない少年は、当然のように時間を持て余した。

 洗面所を出た廊下で棒立ちすること暫く。のろのろと動き出した彼の足は、店舗として使っている方へ動き出した。玄関がそのまま店舗の出入り口であるため、外に出るには店の中を通らないとならないのだ。

 取り敢えず外の空気を吸って、もう少し落ち着いてから何をするか考えよう。そう思った少年が玄関の鍵を開け、ドアを内側へ引いた所で、

「おはよう、店主殿」

 先を塞ぐかのように、いつもの男が立っていた。

「…………おはようございます。何の用でしょう」

 ここ数日顔を見せなかったら、てっきりもうこの店にちょっかいを掛けるのに飽いてくれたのかと思ったが、そうではなかったようだ。常のように表情に微笑みを作りつつも、少年は内心落胆した。

「いや、今日はいつもより早く目が覚めてしまったから、朝の散歩をしていたのだ。この時間は良いな。まだ人も少なく、夜でも賑わっているこの首都が、最も静かになる時間なのだろう。この季節だと少々暗くて寒いのがつらいところだが、それでも、散歩をするにはもってこいだとは思わんか?」

「はあ」

 曖昧な返事をした少年だったが、男の言葉が半分ほど嘘であることは判っていた。本当に朝の散歩をしているだけなら、こうやって店の前に突っ立っているはずがない。大方また仕事の邪魔をしに来たのだろう。それにしたって、こんな時間に来られても普通は開いていないのだが。

 そう言えば、ここ最近この男は例の裏カジノに入り浸っているらしい、と常連客の誰かが言っていたような気がする。そんなことをいちいち報告されても困るのだが、何故か少年と男が親しい仲になっているという勘違いが広まっているらしく、男が店に来ていないときでも男の話を聞くことが少なからずあった。

「……何かあったのか?」

「はい?」

「少し顔色が悪い。何か気にかかるようなことでも?」

 ああ嫌だ。どうしてこの男は、踏み込まれたくない内心にずかずかと土足で立ち入ってくるのだろう。

「いえ、別にそんなことは」

「夢見が悪いときは、ぐっすり眠るのが一番だ。今度安眠できる香でも紹介しようか?」

「……お気遣いありがとうございます。ですが、お気持ちだけで結構です」

 相変わらず、この男の言葉は少年の神経をざわつかせる。なんだって顔色の悪さが夢に直結するのだろうか。まさか少年の夢の中まで覗いているなどということはないと思うが、断言しきれないあたり、やはり気持ちが悪い。

「ああ、ところで、ここいらとは違い、もう少し中心部では既に何やら賑わしかったが、今日は月に一度の貿易祭がある日なのだったな。そのせいだろうか」

 言われ、はたと少年は思い出した。悪夢のせいですっかり頭から飛んでいたが、そうだ。今日は貿易祭の日である。

 貿易と錬金術の国ギルガルドで行われる、月に一度の貿易祭。リアンジュナイル一の輸出入量を誇るギルガルド王国では常日頃から盛んに貿易が行われているが、その中でも特に大きいのが、月例開催されている貿易祭なのだ。貿易祭は、滅多に手に入ることのない稀少な品々がやり取りされることで有名である。例えば、以前男がバーで飲んだエル・アウレアなどもそうだ。あの酒が流通するのは、銀の国のごく限られた場所だけで、国外で手に入れられる可能性があるのは、金の国における貿易祭だけである。故に、貿易祭の日は国内外から多くの人が訪れ、賑やかな首都ギルドレッドが一層賑わいを見せるのだった。

「店主殿が行くとしたら、夜の市かな?」

 貿易祭は、陽が昇ってから夕刻まで行われる昼の市と、陽が沈んでから日が替わる時間まで行われる夜の市とで構成されており、昼の市では主に一般向けの最終生産物が、夜の市では職人や技術者向けの中間生産物がやり取りされている。

 そして、男の言った通り、少年はこの貿易祭に毎月欠かさず顔を出している職人の一人だった。

 夜の市では、普段はお目にかかれないような稀少で美しい染料が手に入るのだ。少年は人混みがとても苦手だったが、夜の市で購入できる染料は、それを押してでも手に入れたいと思えるものが多い。だから、今夜も当然、市場に出向くつもりであった。

「はい。なので、今日は少し早めに店を閉める予定です」

 頷けば、男は何故か嬉しそうに笑う。

「そうか。それはちょうど良かった。私も是非名高い貿易祭を覗こうと思っているのだが、夜の市は職人や商人の証書を持っている者とその同行人しか入れないと聞く」

 そこまで聞いたところで、次の言葉を察してしまった少年はいっそ耳を塞いでしまいたい思いに駆られたが、恐らくはそれに気づいているだろう男は気にした素振りもなく、胡散臭いほどに純粋な笑みを湛えてみせた。

「ここはひとつ、店主殿の同行人として連れて行っては貰えないだろうか。勿論、荷物持ちでもなんでもしよう」

 予想通りの言葉に、しかし咄嗟に上手い断り文句が思い浮かばなかった少年は、渋々頷くことしかできないのであった。

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