潜入 5

 ディーラーとの大勝負を終えた男は、やることはやったとばかりにひっそりとこの場を去ることにした。幸い、観衆だった人々は男の残した金貨の山分けで忙しい。勿論声を掛けてくる者もいたが、皆二言三言話しただけで、すぐに金貨の山へと向かって行った。男の方もこれ以上ここに留まる気はなかったので、声を掛けてくる者には簡単な言葉を返しつつ、入口である大きな扉へと向かって行く。

 と、こちらに向かって真っ直ぐに歩いてくる人影に気づき、男は立ち止まった。

「私に何か?」

 致し方なかったこととは言え、男は少々目立ちすぎてしまった。自分に掛けられている魔法の都合上、できる限り長居はしたくはないのだが。

 そんなことを思いつつ、歩み寄ってきた男性に向き直る。見た目から判断される相手の歳は、男よりも少し若いくらい、恐らくは二十五歳前後だろうか。黒く艶やかな髪と、同じく漆黒の瞳が印象的な青年だった。体格は男に劣るが、細すぎるということはなく、筋肉がしっかりとついている。それも、恐らくはそれ相応に鍛え上げてある。そこまでを男が見て取ったところで、青年は優雅に一礼をした。

「初めまして。私、このカジノのオーナーをしております、デイガー・エインツ・リーヒェンと申します」

「ほう、貴方のようなお若い方がオーナーでしたか。わざわざご挨拶頂き有難い。私はロストと言います。本日は素晴らしい体験をさせて貰った。今日はこれで帰ろうと思っているのだが、またこちらに伺ってもよろしいだろうか?」

 引き止められるのはあまり望ましい事態ではないと、先んじて今日はもう帰宅するのだと伝えた男だったが、どうやら相手はそこまで引き止める気もないようだった。

「それは勿論でございます。先程の勝負、実は私も拝見させて頂いていたのですが、素晴らしい限りでございました。その後の采配もお客様の懐の深さが垣間見え、従業員一同、感嘆の極みでございます」

「そう言われると照れてしまうな。なに、今晩存分に楽しませて貰ったお礼です」

「ふふふ。やはり素敵なお方だ。その赤銅色の髪を見るに、もしやグランデル王国生まれの傭兵様ですか? グランデルと言えば、武具を含む製鉄技術とその扱いに優れたお国だ。もしや、貴方も相当の手練れなのでは?」

「はてさて、傭兵という見立ては、さすが顧客をよく見ていらっしゃる、ご明察です。しかし、手練れかどうかは、私には判断致しかねるな。そこはその時々の依頼主の判断にお任せするとしよう」

 少しいたずらっぽく笑って見せた男に、デイガーと名乗った青年もつられたように笑う。

「それでは、私はこれで失礼する」

「はい。お気をつけて」

 深々と一礼をしたオーナーに軽く会釈をしてから、男はドアマンに開けられた扉を潜った。二重扉を抜けた先にある薄暗い階段を上ってバーに入り、覚えのあるバーテンダーにひらりと手を振ってから店を出る。そのまま夜風を楽しむようにのんびりと歩き、店から十分に離れたところで、男の唇が小さく動いた。

「誰かつけているものは?」

 微かな呟きに、男の髪を風が撫でた。

「いないか。では、急ぎで言伝を頼む。私に掛かっているはずの目くらましの魔法を、恐らくは看破する者が現れた。しかし、私はそういった類の魔法に対する感知能力が低く、目くらましの魔法が解呪されたのか看破されたのかの判断をしかねる。よって、早急にその類に優れた魔法師を寄越してほしい。できれば再度目くらましをかけ直せて、かつこの国への長期滞在が可能な者が良いな」

 風がするりと頬を撫で、男は小さく笑った。

「いや、元より私と目くらましの魔法の相性が致命的に悪いのだ。私には判らぬが、どうにも私はやたらと目立つ魂をしているらしくてな。存在や輪郭を曖昧なものに落としこみ目立たなくする目くらましの魔法を掛ける対象として、これほど不適切なものもそうあるまいと罵られたくらいだ。故に、少し目立ったことをするだけで、簡単に解けてしまう。カジノで少々大勝ちするくらいならばと思ったが、向こうに目利きがいる可能性を考えると、これはもう少し抑えた方が良いかもしれないな。と言っても、賭け事の運に関しては私にどうこうできるものでもないのだが」

 最後の方はひとりごとのように呟いた男の髪を、まるで慰めるように風が揺らす。

「ああ、有難う。カジノでの一件も含め、礼を言おう。それでは頼んだぞ。伝達用の鳥は数時間前に飛ばしてしまったが、風霊の言伝であれば、それよりも早く駆けることが可能であろう?」

 傍らでそよぐ風を撫でるように掌を滑らせれば、ひゅう、と小さな音を立てて風が走っていく。ひとまずは、これで大丈夫だろう。鳥を使った手紙でのやり取りと違って精霊間での伝言ミスが怖いところではあるが、あの鳥よりも少しだけ伝達が早いのは利点だ。

 ふわあ、と大きく欠伸をしてから、男は赤銅の髪を夜風に揺らしながら、宿への道をゆっくりと歩んでいった。


 


 裏カジノの遊技場の、更に奥。従業員用の出入り口である扉とは別にある、装飾の施された扉。このカジノにいくつか存在するVIPルームに繋がる扉の向こうの、最奥にある一室。カジノの遊技場や上階にあるバーも顔負けないくらい高価な調度品が並ぶそここそが、オーナーであるデイガー・エインツ・リーヒェンの居室だった。

 遊技場をひと通り回り、得意客への挨拶を済ませて帰ってきた彼は、上等な革張りのソファに腰かけ、手にした杯をゆっくりと揺らした。グラスの中でちゃぷんと揺れた深紅は、上質なワインだろうか。

「さっきの彼、一体何者なんだろうねぇ」

 部屋にはデイガー以外の人影はないが、彼が語るのをやめる様子はなかった。

「やたらと強力な目くらましがかかっていたみたいで僕にもぼんやりとしか判らなったけれど、あの珍しい髪色、探せば何か出てきそうじゃあないかい? それに、ルーレットの件も気がかりだ。ディーラーはいつも通りきちんと所定のマスに止まるように回していた。にもかかわらず、止まったのはあの男が選んだコマだった。……お前、何か判るかい?」

 自分以外は誰もいない部屋に問いかけが投げられる。と、絨毯に落ちているデイガーの影が、一瞬だが揺らめいた。

「……何? そんな馬鹿なことがあるものか。あの男には、呪文を詠唱した様子は勿論、精霊を呼んだ様子すらなかったんだぞ。どんなに優れた魔法師でも、精霊を使役する際は必ず名を呼ぶものだ。風霊を使って球を動かしたと言うなら、どこかで必ず風霊を呼ばなくてはならない。だけどお前だって見ていただろう? 最後の勝負の最中、あの男はただの一度も口を開いていないじゃあないか。例えば目配せひとつで精霊を動かせるって言うのなら話は別だけれど、それはもう人の所業ではない。次元を隔てて外の世界にいるというエルフの王であれば、そういうことも可能なのかもしれないけれどね」

 デイガーが、結局何が起こったのかは判らずじまいか、と溜息をついたが、彼の影が揺れることはもうなかった。

「まあ良いや。彼が何者なのかは判らないけれど、僕たちのやることは変わらないしね。まあ、念のため彼の周辺には探りを入れておこう」

 そう言ってから、デイガーは握っていたグラスを逆さにした。落ちる液体が、上等な絨毯を赤く濡らしていく。自分の影に滴る赤を見て、デイガーは満足したように微笑んだ。

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