潜入 2

 刺青屋『水月』からそう遠くはない安宿の一室。そこに、男は居た。窓を解放したままベッドに座っていた男が、ふと顔を上げる。その視線の先、夕暮れ時のオレンジに染まった空の向こうから、西日に照らされより一層その身を燃えるような色に染めた、赤い鳥が真っ直ぐに飛んで来ていた。

 美しい尾羽を日に晒しながら優雅に飛んで来た鳥は、迷うことなく男のいる窓辺にやってきた。まるで許しを請うように見上げてくる鳥に向かって男が手を差し出せば、赤い鳥は素直にその手にとまる。ぴぴぴ、と美しい音色で歌うように鳴く鳥を撫でてやった男は、鳥の脚にくくりつけられている筒から紙を出して軽く目を通すと、ふむ、と呟いた。

「あちらはあちらでうまくやっているようだな。いや、心配はしておらんよ。うまくやってくれる確信があるからこその采配だ。しかし、私の方がどうにもなぁ。丁度良い子山羊は見つけたものの、なかなかどうして手強い。今日も誘ってみたのだが、やはりついて来てはくれなんだ。さて、どうしたものか」

 思案するような素振りを見せた男の頬に自分の頬を摺り寄せた鳥が、ぴぴ、と囀る。

「ああ、そうだな。取り敢えずは単身、乗り込んでみようか。些か撒き餌不足な節はあるが、それでもそこそこ大きな釣り針を仕掛けられただろう。あとは、私自らが食いでのある撒き餌として機能すれば良い話だ」

 そう言って微笑んだ男は、もう一度鳥の頭をひと撫でしてから、先程自分が目を通したものとは別の紙を用意して、それを筒に入れた。

「それでは、これを。確実に届けてくれ。お前ならば、闇夜も照らしながら進めるだろう?」

 男の言葉に、任せろと言うようにぴぃと鳴いた鳥が、その腕から飛び立つ。夕闇に消えていく炎のような鳥の姿を見送ってから、男はゆっくりとベッドに寝転んだ。

 裏カジノが開催されるであろう深夜まで、まだまだ時間がある。それまでに一眠りしておこうという訳だ。安っぽいベッドは、男の巨躯が横たわるとぎしぎしと不安になるような音を立てたが、男は別段気にした様子もない。安宿生活には慣れているので、寝返りの度に軋む古ぼけたベッドにも馴染みがあるのだ。酷いときは、寝ている間にベッドが壊れて床に転がったこともある。あのときは宿の主人にしこたま怒られたものだ。壊してしまった備品の修繕費やら何やらを払わされた挙句に宿を追い出され、確かそのときは結局野宿で凌いだような覚えがある。まあそうなったらそうなったで良いのだ。男は野宿にも非常に慣れているのだから。

 浅い眠りを楽しんだ男は、自分が定めた時間きっかりに目を覚ました。そして、身を起こして大きく伸びをした後に立ち上がる。

 裏カジノが開催されているのは、驚いたことに王都ギルドレッドの中でも王城により近い中心地の一角であるらしい。確かに当代のギルガルド国王はまだ年若いが、それにしても随分と舐めたことをする、と男は思った。

「さて、常日頃から私の運は非常に良い訳だが、今回もうまいこと場を乱してくれるだろうか……」

 呟きつつ、外出の準備をする。と言っても持ち物が少ない身では、精々外套を着こむ程度だが。

 準備とも言えない準備を整え、申し訳程度に置いてある汚れて曇った姿見で己の姿をまじまじと見た男は、ひとつ頷く。自分の目で見てもいまいち容姿が判然としないあたり、出立前に施して貰った魔法はまだ生きているようだ。

 そのことに満足してから、男は宿を後にした。持ち物は特にない。行く場所が行く場所だけに武器の類などは持って行けないし、そもそも金さえあれば良いような所だ。

 多少の人影はあるものの、日中と比べればすっかり落ち着いた街中を歩きながら、目的地を目指す。そうして辿り着いたのは、『黄金の鷹翼きんのようよく』という名のバーだった。別段特筆すべき特徴などはない、一般的なバーだ。アンティーク調の扉を開けて中へ入れば、適度に雰囲気のある空間が広がっていた。男以外に数人の客が会話を楽しんでいるそこには、古めかしすぎず、かと言って時代を感じさせない程に新しくもない、バーでよく見る等級の家具や調度品が並んでいる。その様は、店名に「黄金の」とある割には名前負けしているようにも思える。別段黄金らしさのない店内だが、金の国の名にあやかってつけられた名前なのかも知れない、と、普通の客ならば思うだろう。しかし、ぐるりと辺りを見回した男にはすぐに判った。ここには、目の肥えた者ならばかろうじて判る程度に巧妙に、高価な品が数点、隠すようにして飾られていたのだ。

 それは本当に数点だ。だが、その数点が非常に重要なのだろう。例えば、天井から下がっているランプの傘には飾りとして色とりどりの硝子玉が十数個嵌められているが、その内の一粒はルビーである。これほど立派な大きさのものであれば、リンカネット金貨百枚はくだらないだろう。バーテンダーの後ろに並ぶ酒の中にも、実は高価なものが紛れ込んでいる。上から二番目の棚の一番左端にある、埃を被った古臭い瓶。一見空き瓶にすら思えるそれは、銀の国にそびえる大山エルクの頂きにのみ存在する純度の高い氷を溶かして作られた幻の銘酒だった。それも、冬季の氷のみを用いた最上級品だ。季節を問わずに万年雪に覆われているエルク山の環境は常に過酷だが、冬季のそれは筆舌尽くしがたいほどに厳しく、地元の人間でも精々麓くらいまでしか足を踏み入れることはない。そんな中、山頂にまで登ってようやく手に入れることができる氷を用いて作られる銘酒中の銘酒が、何気なく棚に並んでいるのである。確かこの酒が製造されるのは、数十年に一度と言われている筈だ。およそ人が踏み入ることのできぬ冬のエルク山に行って帰って来られる者が数十年に一度しか現れないが故の、稀少な、そして恐らくはこの大陸で最も高価な酒だ。

 なるほど。つまりこの店は、窓口の役割をこなすと同時に、試金石としても機能しているのだろう。となれば、男がすべきことは一つである。

 カウンター席に座り、バーテンダーに微笑んで、ひとこと。

「そこの端に置いてある酒を一杯貰おうか」

 男の言葉に、バーテンダーがぴくりと肩を揺らす。

「申し訳ありません、お客様。あの酒はディスプレイ用の空き瓶でして。それを証拠に、ほら、見て頂くと判ることですが、中身がないでしょう?」

「エル・アウレア」

 務めて小さな声で零された男の呟きに、バーテンダーの動きが止まる。そして彼は、未だ微笑みを絶やさない男の顔を、まじまじと見つめた。

「銀の銘酒は奇跡のように透き通っているのが特徴だ。故に、この距離で中身の有無を判断することは極めて困難。手に取って見たとしても、素人では判断がつかぬだろうな。それにあのラベルからすると、もしや二十年ものではないか? いやはや、幻のエル・アウレアをこのような場で見つけるとは、私も運が良い」

 その言葉に、バーテンダーがふわりと微笑む。柔らかな、それでいて何処か纏わり付くような笑顔だった。

「これは、参りました。お客様は大変目利きでいらっしゃる。……ここには、お酒を飲みに?」

「まあ、そうだな」

「それはそれは」

 言いながら、男がエル・アウレアと呼ばれた瓶を手に取って、静かに持ってくる。そして男の目の前に赤い布で底まで覆われたグラスを置いてから、瓶を傾けて中身を注いだ。

「良いのか? 貴重な品だろうに」

「お飲みになりたいとおっしゃったのはお客様ではないですか。ああ、氷ですが、」

「山頂の氷は溶けることのない氷。特殊な技法で液体にした後も、未だその温度は氷点下百度を保っている。……火霊の炎で温めながら飲むのが決まりだったな?」

「本当に、よく御存じで」

 そう言って、バーテンダーはグラスを赤い布で覆ってから、男の元へと滑らせた。

「氷点下百度に耐えられる特殊なグラスの周りを、火霊を纏わせた布で覆ってあります。これでしたら、丁度良い温度でお楽しみ頂けるかと」

「これは至れり尽くせりだ。有難い」

「いえいえ。ここはお客様にお酒をお楽しみ頂く場ですから」

 グラスを持って味わうように一口飲んだ男が、ほう、と息をつく。

「やはり、これは最高の酒だな」

「喜んで頂けたのでしたら何よりです。……ときにお客様、失礼ながらお支払のご用意は大丈夫でしょうか? ご存知かとは思いますが、こちら、グラス一杯でも値が張るもので……」

「はっはっはっ、心配せずとも持ち合わせくらいはあるさ。尤も、例えばそこの角に置いてある花瓶はさすがに買えぬがな」

「……なるほど。やはり素晴らしい審美眼。本物、ということでございますね」

 す、と目を細めたバーテンダーが、無言で小さなカードを取り出し、男に向かって差し出す。

「……これは?」

「そこの奥にある従業員用の扉に入って頂き、突き当たりにある壁をご覧ください。非常に判りにくいですが、このカードを差し込める箇所があります。もしお客様が刺激的な遊戯がお好きな方でしたら、是非一度ご来場くださいませ」

「……ほう」

「途中で誰かに何か言われましたら、ここであったことをお話頂ければ結構です」

 にこやかにそう述べたバーテンダーに笑顔を返しつつ、男は内心で冷静に事態を分析していた。

 恐らく、これこそが裏カジノへの招待なのだろう。やはり、思った通りである。国から隠れて運営している闇カジノである以上、第一に重要なのは気取られないことだ。故に、風の噂にカジノの存在を聞いただけの相手や目利きのできぬ素人などに対しては知らぬ存ぜぬを通し、それ以上は踏み込ませないのだろう。逆に男のように即座に隠された非日常に気づける相手ならば、顧客として申し分ない、ということである。それはつまり、このカジノ自体がかなり上級の貴族向けであることを示唆していた。

 男が刺青屋で聞いた話では、このカジノは最近になって噂されるようになったものらしい。ということは、もしかするとかなり新しいカジノなのか。はたまたこれまでは表沙汰にならずにうまく隠れていたものが、何らかのトラブルで外部に漏れてしまったのか。その辺りも重要になるかもしれないのだが、現段階ではそこまでの判断はできない。だが、元々このカジノのことを話してくれたあの客自体、カジノの存在には半信半疑の様子だったのだ。情報自体が曖昧な中、男の目的に適うかもしれないカジノに辿り着けただけ上出来だろう。

 そう考えつつ酒をゆっくりと味わった男は、空になったグラスをカウンターに置いて立ち上がった。

「馳走になった。支払いはいくらだろうか」

「ご招待には応じて頂けるので?」

「ああ、丁度暇を持て余していたところだしな」

「それではお支払いは結構でございます。我々の営む遊戯に興じて頂けることに感謝を込めて。ささやかな贈り物ということで」

 優雅に一礼したバーテンダーを見て、男が首を小さく傾げる。

「良いのか? 金貨一枚はすると思っていたが」

「勿論ですとも。それでは、どうぞ今宵はお楽しみくださいませ」

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