第6話 メイファーレン

 指先でフレームを作り、月を閉じ込めた。

 サイドテーブルに置かれた名簿には目もくれず、少年は窓辺で月を捕らえ、空へ解き放つ。客の嗜好に興味はない。ガウンの紐を解かれれば、くだらない戯れの繰り返し。早めに客が眠りに落ちることを願い、ルシアンは指先で月の淵をなぞった。

 カチ、カチ、と時を刻む針の音に混ざって、扉を叩く音が響いた。花売りの舞台の照明は頼りない月明かりのみ。

 ルシアンは静かに息を吐き、ドアノブに手をかけた。

「ようこそ、銀木犀へ」

 恭しく頭を垂れるルシアンの項に濃い影が落ちる。

 黒服に身を包んだ客人は少年の手を制し、自ら部屋の中へ荷物を運んだ。客が歩を進めるたび、双眸を覆う仮面に括り付けられた鈴がチリリと音をたてる。

 寝台から離れた場所に荷物を置いた男は、少年に近づこうとしなかった。困惑した様子で闇と同化している。

「お兄さん、花売りを買うのは初めて」

「…………」

 返事の代わりに鈴が鳴る。男はルシアンの言葉に頷き、ウェーブがかった前髪に指を絡めた。

「安心しなよ。僕はまだ初物だ。鉱玉病には感染していない」

 ルシアンは男に近づき鳥の仮面に手を伸ばす。

「おかげでほかの花売りよりも少し高いんだ。……損はさせないよ」

 仮面を外すと見せかけて、少年の指は男の長い黒髪を束ねるリボンを解いた。戯れに耳朶を食んでやれば身体の震えが伝わってくる。

「……離れてくれ」

 上擦ったテノールが男の唇から漏れた。

 青年はそっと仮面を外し、懇願のまなざしをルシアンに向ける。緑柱石に似た深い碧色の睛だ。

「きれいな睛だね。……名前を聞いてもいい」

「ロナルド・メイファーレン」

「僕はルシアン。今夜はよろしく、メイファーレンさん」

 寝台へいざなうルシアンの手を、しかし、男は頑なに拒絶した。

「どうしたの。もしかして、床がお好み」

「……そうじゃない」

「夢の時間は無限にあるわけじゃない。今日は、全部僕に任せてよ」

「……話と違う。私は、君を抱きにきたわけじゃない」

 妙なことを言う客だ。快楽に溺れる以外に、この館に何の価値があるというのだろう。

 メイファーレンはしきりに頭を掻きながら、小声で何かをつぶやいている。

「あなたは、何をしに此処へ来たの」

「天使を……描きに来た」

 天使。ルシアンは青年のコトバを反芻する。昼間に出会った少年の顔が、脳裏を過ぎった。

「あなたはユニフスの人?」

「違う。……ただの画家だ」

 自身の潔白を証明するかのように、メイファーレンは鞄を開けた。中には画家の商売道具が乱雑に詰め込まれている。

 青年は手帳から一枚の写真を抜き取り、ルシアンに手渡した。

 月蒼祭の催しで天使に扮した少年があどけない笑みを浮かべている。

「月食堂の主人から話をきいた。此処は、天使が住む館だと」

 写真を見つめる男の睛は、何処か虚ろだった。瞳の奥に秘められた狂気が少年の頬をなぞる。

「私は長い間、ひとりの天使を追いかけてきた。彼をキャンバスへ閉じ込められるのなら、命を失ってもいい。……君は、彼に似ているんだ」

「天使って誰のこと」

「私の、……弟だ」

 メイファーレンの胸元で白い十字架が静かに揺れた。

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