第7話 天使の追憶

 ぎしりと寝台が軋みをあげる。ルシアンは緑碧のクッションに背を預け、深く息を吐いた。

 天井に散りばめられた星の数をかぞえながら、ガウンの裾を持ち上げる。

「……脱がなくていい」

 壁際で画材を広げるメイファーレンの声が少年の動きを制する。

「そのまま楽にして」

 ルシアンは身体の力を抜き、青年の指先に視線を注ぐ。鉛筆の芯の擦れる音だけが闇に溶けていく。

「ねえ、あなたの話を聞かせて」

「……私の」

「このまま黙っていたら、眠ってしまいそうだ。何もしなくていい夜なんて、初めてだもの」

 ルシアンが微笑みを浮かべれば、メイファーレンの指は正確な線を描く。

「君は、ルゼの村を知っているか」

「……聞いたことない」

「カノープスの地図にも載らない小さな村だ。私はそこで生まれた。父は教会の神父で、母はユニフスの亡命者だ。父と母と私と弟、……何処にでもいる平凡な家族だった」

 青年の声音は、穏やかで心地よい。ルシアンは襲い来る眠気に抗いながら、メイファーレンの語りに耳を傾けた。

「教会の近くに大きな湖があった。湖の底に空が沈んでいるんだ。弟は、星掬いが好きだった」

「星掬い」

「空から落ちた流れ星が、水面に浮かんでくるのさ。割れたステンドグラスに星を嵌めて、よくミサの真似事をしていたよ」

 男はパレットを取り出すと指の腹で絵の具を混ぜ始めた。筆は使わないの。この方が性に合う。白いキャンバスに滲む淡青色を、少年の睛はとらえることができない。

「あの日は、金紅石の雨が降っていた」

 視界の端でちかちかと黄金の光がまたたいた。ルシアンの瞳が金紅石の鈍い輝きをとらえる。

「私は父の手伝いで手が離せなくて、弟がいなくなったことに気づかなかった」

 昏い感情を孕んだ双眸が、闇に浮かぶ少年の輪郭をなぞっていく。

「彼は、湖に落ちたんだ。星を救おうとして。鉱石の雨は毒だから、星は溶けて消えてしまう。覚えていないか。……君は、あの湖で」

「……何の、こと……」

 ルシアンは二の句を継ごうとして、果たせなかった。

 足元から溢れ出た水は、瞬く間に少年を呑み込んだ。先ほどまで寝台の中にいたはずなのに、少年の身体は何かに引き寄せられ、深く深く沈んでいく。水面が遠のく。手を伸ばしても指先に触れるのは淀んだ水ばかり。水中に潜り込んできた金紅石の針がルシアンの皮膚を裂く。痛みはとうに感じない。すべての感覚が麻痺していく恐怖。口端から零れる泡も、ただよう赤い血も、少年の叫びも、もはや誰にも届かない。

「私は、君を助けようと必死だった。だが、果たせなかった。湖は冬の氷で覆われていて、君はすでに、……」

 物言わぬ傀儡が湖の底にたどり着く。星の砂粒が舞い、ルシアンの肌にまとわりついた。

 メイファーレンの声は、途切れることなく続いている。

「あの出来事は奇跡だったのか。今でもわからない。呆然と立ち尽くす私の前に、彼らが現れたんだ」

 視界が開ける。春空の睛が冴え冴えと広がる冬の天を見やる。呼吸が出来る。指先が動く。だが、声は出ない。

 ルシアンの身体は、二本の腕に抱かれ、宙に浮いていた。

「私は、彼らを形容する言葉を知らなかった。後になって思えば、あれは天使だったのだ。五人の天使が輪を作っていた。中心に、……君がいた」

 少年を囲む五つの白い影は、縫い目のない衣服を纏っている。背に生えた翼は、無数の結晶に侵食され、傷ついていた。アクアマリン、アズライト、ハニーカルサイト、クォーツ、カーネリアン。ルシアンの目の前で砕け散った花売りたちの欠片によく似ている。

「私の声は届かなかった。成す術もなく君が蹂躙されていく様を、見つめることしかできなかった」

 冷え切った指先が、ガウンの紐を解く。抗う間もなく少年の素肌が、晴れた冬空の下に晒される。

 五人のうちの一人が、掌に乗せた小箱の蓋を開けた。見覚えのある蒼い羽根が湖に沈んでいく。アズライトに寄生された天使が五つ星の結界を崩した。

 さあ、これを。

 蒼い指先が少年の唇をこじあけ、黄金色の欠片を押し込んだ。君もじきに僕らの仲間だ。頭の中に響くソプラノ。どこか懐かしい声音の正体を、ルシアンは思い出せない。

 抗う術も、逃れる術も、見出せない少年は、小さな星を嚥下する。

 パキリ。何かがひび割れる音が耳に届く。パキリ。パキ、リ。音は次第に大きくなり、ルシアンは耳をふさごうと指先を動かした。刹那、右の人差し指がぽきりと折れた。断面から覗く血肉は紛れもなくヒトのものだ。

 飲み込んだ星が、身体の中で体積を増す。星の刺は少年の内臓を貫き、或る箇所を目指していた。

 声にならない叫びが、喉奥からあふれる。


―助けて、


 背中に強烈な痛みを感じた時には、ルシアンの両手首は鉱玉と同化し蒼の水の中に溶けている。激痛から逃れようと暴れれば暴れるほど少年の身体はぼろぼろと崩れていく。


――たすけて


 皮膚を突き破って何かが生まれようとしている。天使のひとりが少年の肩甲骨を撫でた。込み上げる衝動にルシアンはぎゅっと唇をかみ締めた。


『助けて、……兄さん』


澄み切った蒼の中でシトリンを宿した双翼が咲いた。










 乾いた絵の具のにおいが鼻先を掠める。ルシアンは目蓋を開け、ゆっくりと身を起こした。指先の感覚は元に戻っている。体内に潜む星の気配も感じない。

「終わったよ」

 メイファーレンの声音が少年を現実に引き戻す。いつのまにか寝台に腰掛けていた青年の表情は、意外にも穏やかだった。

「……ごめんなさい。僕、眠ってしまって。……夢を、見ていた」

「夢ではない。すべて現実に起きたことだ。……私の弟は、天使が連れ去ってしまった」

「ちがう。……夢だ。夢に決まっている。あんな……こと……」

 うまく感情の制御ができない。これでは花売り失格だ。客の前で涙するなど演技以外にはありえない。しかし、少年の身体は、メイファーレンのぬくもりを求めていた。

「さあ、此れを」

 画家の手の上で金平糖に似た黄金星が転がる。

「……これは何」

「一番星の核だ。気分が良くなる薬だよ」

「……知らない」

「いつも食べていたじゃないか。……ほら、」

 青年の指をルシアンは拒めない。促されるままに星を食む。ほのかな酸味が舌の上で弾けた。

「君に、触れてもいいか」

 花売りは微かに口端を上げ、頷いた。メイファーレンは花売りの涙を拭い、両腕を細い身体にまわした。

「……シュカ」

 全身を包む心地よさにルシアンは再び眠気を覚えた。意識がすうと遠のいていく。深く深く沈む水の中。青年の声はもう届かない。

「愛している」

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