1000、その2
父の心が、自分よりも、かつていたという母親よりも、『シアル』に向いている。
父の心は、「彼」のものだった。
羨ましかった。
こちらを向いてくれない寂しさというのか――とにかく、そういった「自分と父の間にあるもの」に対しての何かを感じる前に、おれは情緒を身につけていた。魔法使いはそういう生き物なんだけれど、そうでなくたって、おれはきっと羨ましさの方が勝っていた。
羨ましかった。「彼」が、ではない。そんな相手がいる父が。気が遠くなるほど永い、永い時間の枷を、自分に架してくれる人がいることが。
父が死ねば、その執着が、『自分のものになるんじゃないか』という予感があった。
だからおれは、震えながらも、迷わなかった。
父を人間に差し出すことに。
ある町にいた時、人間に見つかった。取り囲まれた。果物がおいしいから、父が来ようと言った町だった。
おれは魔法を使うのが下手で、なぜか父はおれにほとんど教えようとしてくれなくて、数十人の人間に取り囲まれると、おれはもう自分が敵わないと思った。
怯えるおれを見て、人間の一人が言った。
他の魔法使いを差し出せば、おまえを助けてやると。
今思えば、それはおれを子どもだと思った彼らの、残忍なやり口だったのだろう。取引も、駆け引きもできない子どもだと思われていたから。実際その後、おれが魔法を使えることを思い出せないままで、一瞬で隣町まで逃げたりしなければ、おれも彼らに殺されていたんだろう。
おれは父を差し出した。
父が死んだ時、はじめて父が泣くのを見た。
人間たちに取り囲まれて、たくさんの武器に潰されて、突き刺された姿になっていた。その目から溢れた水の粒は、こぼれたそばから宝石になった。やがて宝石は、地に落ちる前に小さな貝の欠片へと姿を変えた。そのいくつかは、弾ける光の粒に貫かれて、粉々に砕け散った。
人間たちは、宝石と貝がとめどなくこぼれ、それが壊れていく様子を、異様なものを見る目で、固唾を呑んで見ていた。父が息を引き取るのを待っていた。
あの時父は、何を考えていたのだろう。
苦痛、恐怖、哀愁、憎悪、解放。
彼を囲む人間たちのこちら側、物陰に隠れていたおれと、目が合った。
魔法使いは誰も憎まない。恋をしない。愛さない。そして父は、おれを憎みも恨みもしなかった。
生きている間、きっと愛しもしなかった。
おれは父の顔を見ていた。興味と悲哀と罪悪感。おれの目に映る彼の顔は、悲しくてたまらない、といった表情ではなかった。
どうしよう、という顔だった。
「も、……えに……って、あげられ、ない」
父は、その瞳の色が、暗くなる直前。
「……ごめ、んね」
おれと同じその人の名前を、呼んだ。
おれの元に小さな火の鳥が飛んできて、父の遺言を伝えた。
『頼んだよ、シアル』
人間たちの住む町を眺めながら、父が言っていたことがあった。
人間の心はね、あまり強くないから。
通りで、数十人の人間たちが、言い争っていた。二手に分かれた片方が、やがて武器を取り出し、もう一方も取り出し、赤い煙が立った。おれは目を背けた。
だから、もし「シアル」が困っていたり、悲しかったり、苦しかったら、今度こそ、この身を裂いてでも、彼に降り注ぐ雨を、避けてあげようと思うんだ。
父は微笑んでいた。はじめて見る、苦しそうな笑みだった。
早く会いたいよ、「シアル」。
魔法使いは、生まれ変われない。
父はもう二度と、「シアル」に会うことはない。
その逆もまた、然りだった。
おれが突き立てたものを見て、目を見開いていたミチルは、表情を和らげた。
「ああ、本当に。『僕』は、大事にされてたんだね。僕を見てくれるのは、あんたしかいなかったのに。僕は、あんたを絶望させることでしか――」
父から渡されていた、貝だった。
彼の身体が傾く。おれはその身体を抱えて、膝をついた。
その身体から血が流れていく様子に、彼の命が奪われていく気配を感じた。
自分のしたことに、冷たさが体中を這い始めた。
彼を止めなければいけないと思った。人を、守らなければならないと思った。これ以上、悲しいことをさせてはいけないと思った。
彼と会った、はじめての日。おれはまだ死にたくなくて、この子さえ止めればと思って、彼に飛びついたのだった。
結局おれは、いつでも身勝手だったのだ。
「ごめん、ごめんね」
片手で、貝ごと傷口を抑える。こぼれ出て止まらない、温いと思っていたそれは、この炎の庭の中で、驚くほど冷たかった。海の水みたいだった。
「起きてよ、一人にしないで。ミチル」
彼の目は開いていた。震える息を吐きだしていたが、こちらに意識が向くことはなかった。
「おれが死ぬ時は、そばにいてくれるんでしょう」
漠然と、おれが彼に殺されるということは、おれが死ぬ時、彼がそばにいてくれるのだと思っていた。
魔法使いの命は、長い。他の魔法使いと群れることは少ないし、人間と関わっていくのも難しい。父がおれと過ごした時間が長かったのは、彼が「もしもの時のこと」を考えて、おれに託そうとしていたからだ。
魔法使いは、一人で生きて、一人で死ぬ生き物なのだと、わかっていた。
そうでない自分の幸福に、安堵していた。
「いやだ、一人で死にたくないよお」
彼の目が、わずかに動いた。
おれはぼろぼろと涙を流していた。周りに、色とりどりの宝石が飛び散る。貝には、変わらない。
ミチルの視線が、焦点を得た。ゆっくりと、首を巡らす。
「ああ、そこにいたんだね」
その手が伸びる。おれの光の粒が、指に当たって跳ね返る。彼の口が、開いたり、閉じたりしたので、おれはよく見ようと身をかがめた。
伸ばされた手が、唇の端に当たり、歯をなぞり、おれの頬を包んだ。
「ずっと、あんたの本心が知りたかった。でも、そこにいたんだね。あんたの魂はそこにあって、それを望んでたんだ……」
幸せそうに笑う彼の目から、雫がこぼれ落ちた。
どんと、突き落とされたような気がした。
ああ、彼は。
おれを見ていない。
最後まで、おれを見てはくれなかった。
父はもういない。どこにもいない。空の果てにも、草の音の中にも、鳥の羽ばたきの隙間にも。
けれど、彼が見ているのは父だ。おれじゃない。最初から、おれは映っていなかったんだ。
喉が絞り上げられるような苦しさに、必死に息を吸った。目の奥が、熱くただれるように痛んだ。
これが本当の未練。魂が灼けつくような後悔。苦しみ。自分の半分が、永遠に燃え続けるような痛み。もうどこにもいない人と、交わした約束の果て。
終わりのない、呪い。
「あの時の、答え。なぜ、あんたの願いを叶えてやったのかって話」
彼は、静かに言った。
それは、おれが「ミチル」とした話だった。涙がこぼれる。
彼はもう、混ざっている。過去のシアルの意識と、今のミチルの意識が、混濁して、彼の魂の中に渦巻いている。
「『僕』も繋がりがほしかったんだ。憎くてたまらない相手でも、誰かといたかったんだ」
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