996+4+◾️、その2
「ミチル」
「……シアルか」
夜、おれは彼の部屋を訪ねた。
彼の部屋は一応この家にあったし、週の半分は帰って来ていたが、そこは資料にあふれていて、仕事部屋のようだった。ソファが一脚置いてあったが、ベッドはとっくの昔に撤去されていた。
彼の背は、おれを追い抜いていた。外見の年齢も、追い抜かれたと思う。
軍の制服に身を包んだ彼は、窓際の椅子に座って資料を眺めていた。
「本当に明日、戦いに行くの?」
彼は一度、目だけを上げた。だが、すぐに資料の方に戻してしまう。
「あそこの土地は、魔法使いを守ってる。人間のくせに、魔法使いに縋って、そいつが殺されないようにと身を呈して守ってるんだ」
「魔法使いの中には、土地を守っている人もいるって聞いたよ。吹雪や火山から、その土地を守ってるんだって。ねえ、その魔法使いもそうなんじゃない?」
「そんなの、人間にだってできる。世界は進んでるんだ」
「じゃあ、せめて人間たちを避難させれば。その人たちも一緒に、やっつけちゃうことないでしょう」
「彼らは魔法使いの命令を聞いて、別の町を襲ったりするそうだ。心酔してるんだよ。違う土地に移っても同じことを繰り返すだろうし、あるいは復讐にやって来るかもしれない。生かしておく理由はない」
「でも……」
おれは視線をそらした。彼は、別の資料を取り上げた。
「俺たちは、もう誰も魔法使いの横暴に脅かされない、平和な世界を作るんだ」
彼から、その言葉を聞くことが増えていた。彼の目は沼のように黒々と光って見えた。
おれはぎゅっと手を握りしめた。
「魔法使い、魔法使いって、一緒くたにするけど……おれたちだって、一人の生き物なんだ。そりゃ、ちょっと行き過ぎたことをする魔法使いもいるけど……」
「その結果が、これだ」
彼が資料を置いた。両腕を広げる。彼の背後の窓には、小さな月。
「お前と俺で、この組織だよ。『ちょっと行き過ぎた魔法使い』のせいで、世界はここまで変わったんだ」
それが、父のことを暗に言っているのだとわかった。人の気持ちがわからなかった魔法使いと、その魔法使いを憎んで呪った人間から始まった、今。
うず高く積まれた資料や、本や、武器。この家で眠る人、そばの宿舎で眠る人、城塞の中でまだ起きている人。おれの知らないところに、知らない武器がたくさんしまわれているという。そして、城壁の地下にある牢には、今も多くの――
彼から父の話を聞かなくなって、しばらくたつ。
おれは視線を落とした。靴のつま先を見る。
魔法使いが、何をしたっていうんだろう。国を滅ぼしたの? 人をたくさん殺したの? そういうことだって、あったんだろう。父だって、かなり奔放に生きていたという。自由すぎる生き方をする魔法使いがいることは、否定できない。
でも。
「でも、そんなの、間違ってるよ……魔法使いを殺すために、人間同士で殺し合うなんて。たくさんの人が死ぬよ。そんなの、平和な世界じゃないよ」
「それを君が語る必要はない」
彼が立ち上がった。大きな机を回り込んで、おれの前まで歩いてくる。
本当に、背が高くなった。
「だって、そこに君はいないんだから」
その冷たい双眸が、おれを見下ろした。
千年前の約束は、呪いは、まだ果たされていない。けれどそれは、無効になったわけじゃない。
彼がどこまで考えているのかはわからないが、おれを殺さないという選択肢はないということは、わかっていた。
おれは手を握りしめ、その目を見つめ返した。
「じゃあ、君に殺される前に、おれが君を止めるよ」
「心のない魔法使いの息子なのにか?」
胸が痛んだ。君は、そんなことを言う人だっただろうか。
違う、父さんは心がなかったわけじゃない。少し、気持ちを想像することができなかっただけなんだ。
その証拠に、父さんは人の心について、どれだけ脆くて危ういかについて、語ってくれた――だから君が、出会った人間の心を守ってあげるんだよと。
けれどおれは反論をやめて、うなずいた。
「そうだよ。君に心をもらったんだ。ほらねえ、ちょうど今日、思い出していたんだよ。君と、父の思い出話をした時のことを。『シアル』の涙の話をしたら、君は顔をしかめて」
「うるさい、そいつの話をするな!」
彼が突然おれの肩を掴み、突き飛ばした。おれはよろけて、足元の資料につまずいた。後ろに転んで見上げると、彼は両手でかきむしるように頭を抱えていた。
「うるさい、うるさいうるさい! おれはおれの人生を生きてる。もう、あいつはいない。なのに、あの男が語りかけてくる。あいつの話をする」
彼の目に、不思議な色が映る。月のような、海のような、朝の川のような深くて透明な色。
おれは息をのんだ。彼はその目をぎゅっと閉じて、吐き出すように言った。
「お前は――『あんた』は知らないんだ。前はたまにだったのに――今は毎晩――毎晩毎晩、夢を見る。『僕』は彼の姿を見る。海。月。光り輝く粒。白い手袋。朝の川の色のような目」
彼が両手を離す。見開かれた目は、涙が溜まるように大きく揺れていた。
「そうして、何かに押しつぶされそうな感情がなだれ込んできて、『僕』は苦しいぐらいに泣くんだ。俺の――あいつの名前を叫んで。『ねえ、ミチル、僕は――』って」
膝が折れ、ミチルが座り込む。身体を丸めてしまう彼の背に、触れようとして、思いとどまった。
その背中は震えているが、拒んでいる。そこに、おれが触れてはいけない。そんな気がした。
「なんで泣いているのか、わからない。彼は、『僕』は、あいつが憎いんじゃないのか。だから、千年も待てなんて、言ったんじゃないのか。わからなくて、気が狂いそうで――魔法使いなんて、みんないなくなればいいと、そう思うんだ」
彼の声は、消えてしまいそうだった。その後、何度呼びかけても、彼は震える息を吐くだけで、返事をしてくれなかった。心苦しかったが、おれは彼の部屋を出た。
ミチルの中で、燃え続ける火のように「シアル」が生きている。
彼が悪夢をよく見ていることは、知っていた。だが、内容を話してくれることはなかった。
仕事が増えたということは、魔法使いを殺すために動いているということだ。魔法使い狩りが始まっているというこの世界で、その先頭に立つということだ。研究の先駆者として、幼い頃から育てられ、崇められ、当然、大人たちは彼に期待をするだろう。
何も知らない大人たちは、魔法使いを殺せという話ばかりするんだろう。
けれど、彼の中には「シアル」がいる。話を聞いていればわかった。「彼」は、きっと父を憎んでいるだけではない。「彼」は、自分の祖先の魂を蝕んでまで、父に――
顔を上げる。窓の外に、月はない。
おれは。
おれは、彼のために、何ができるだろう。父のために、あるいは「彼」のために、何ができるんだろうか。
おれは重い足取りで、廊下を歩き出した。
ねえ、ミチル。一つ、気になっていることがあるんだ。
約束どおり――千年の父と「彼」の約束どおり、おれを殺したとして。そのあと君は、どうするの?
翌日、彼の率いる部隊は城塞を出て、次の日の夕方には戻ってきた。
大きな山を一つ、そして、そこに住む人たちを全て――吹き飛ばしたとのことだった。
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