11

 それは僕たち家族にとって、約束なんて甘美なものではなかった。

 はじめて見た時から、知らない魔法使いではないように思っていた。

 確証はなかった。半信半疑だった。だいたい、魔法使いがどれくらい長生きかなんて知らなかったし、この魔法使いが、自分の祖先を手にかけたという魔法使いなのかもわからなかった。そんなことが、あるものなのかと。

 自分にとって魔法使いは、他の人よりも、幾分か身近だったように思う。人が僕を――僕と僕の父と母を見る時には、いつもその言葉がついて回っていたから。

 魔法使いの憑かれもの。

 昔、何年も何十年も何百年も昔、僕の祖先が魔法使いに殺されたのだそうだ。

 魔法使いを見たことがある町でも、ない村でも、人々の感覚は同じだった。その存在は、恐るべきもの。踏み外した生き物。悪。少しでも関わりを持てば、末代まで呪われる。

 正直、最初は関心がなかった。町の人に嫌われても、ものを売ってもらえなくても、家を追い出されても、僕は魔法使いというものを見たことがなかった。それに両親がいた。父と母が守ってくれていて、二人が微笑みかけてくれるから、憑かれものだろうがなんだってよかった。

 その父と母が、いなくなった。父は、魔法使いを毛嫌いする人間たちに殺された。母は、離れ離れになってもせめて生きていけるようにと、僕を手放した。

 魔法使いがいなければ、僕は、僕の家族はそんなことにならずに済んだ。

 僕は、縁もゆかりもない土地に来て、今の家族に拾われた。「父」と、「母」と、一つ上の「兄弟」がいる家だった。僕が憑かれものであることは知っていただろうが、追い出そうとはしなかった。いい人たちだった。

 その腕に抱き締めるように歓迎してくれなくても、噂を聞いた町の人たちに白い目を向けられることに、耐えてくれた。

 魔法使いなんか、いなければ。

 家族を失い、歩き、拾われ、寝床を得てようやく、感情がその「魔法使い」に向いた。

 父さんを殺した人たちも憎い。母さんと僕を引き離した人間たちの声や態度にも吐き気がする。けれど最終的に僕の心が行き着いたのは、事の始まりを起こした存在だった。

 そいつがいなければ。そいつに関わらなければ、今頃僕は、父と母は、どうなっていたんだろう。

 けれど、越してきたこの土地には、数百年の間、魔法使いがいなかったのだという。だから、僕は避けられはしても、石を投げられることはなかった。

 出会わなければ、ないのと同じ。憎しみはあったが、毎日を平穏に生きていくことで、精一杯だった。いつしか、魔法使いへ向ける気持ちは薄れて、蓋をされていた。

 ミチルと出会って、その蓋が少しずれた。突然の邂逅でずれたその一番上にあったのは、純粋な「関心」だった。

 あれだけ聞いた魔法使いというものを、僕は実際に見たことがなかったのだ。

 噂通り、よくわからない生き物だった。自分の時間で生きていて、自分の言語で生きている。常にきらきらと光に包まれている。何でも笑顔で語る。時には平気で残酷なこともする。出会ったことのない、生き物だった。

 殺す殺さないという話が出た時も、確信はなかった。祖先がした約束というものについて、僕たちは誰も聞いていなかったからだ。

 もしや、と思ったのは、あの水滴の落書きを見た時だ。

 あの絵を、見たことがあった。父が見せてくれた、ボロボロの紙切れ。日記の一部なのだと、父は言っていた。

『確かこんな感じだったかなあ? あの魔法使い、何でもできるのに、絵だけは壊滅的に下手くそなんだ!』

 楽しそうな文字。真似て描いたという絵。その紙にはところどころ丸い染みがあって、まるで誰かがぽたぽたと涙をこぼした跡のようだった。

 大体、覚えてないのはそっちじゃないか。

 大事なことを全部忘れて、無邪気に子孫の僕に死をねだる。彼にとってはもう、『あの日記の持ち主』は、“恨みを与えるきっかけになった人間“でしかない。

 魔法使いが、ある男を殺した。その子どもが、魔法使いを殺してやると言った。魔法使いは、その執着をよろこんだ。それだけの、話。

 その子どもと、自分にどんな関係があったかなんて、この魔法使いはもう、覚えてはいないのだ。


「でもそうか、もう彼はいないんだね。僕を呪うと言ったあの子は。もう、そんなに時間が経ってしまったんだ。

 でも、君が覚えていてくれたね!」

 魔法使いは、まだくるくると回っている。

 愚かで無邪気で、残酷な魔法使い。

 だが僕には、ずっと用意してきたものがある。

 彼の望みを、叶える手段。

 魔法使いの憑かれモノでなければ、こんなに追いやられることはなかったのかもしれない。若くして父が死んでしまうことはなかっただろうし、母が僕を手放すこともなかったのかもしれない。今の家族も、平和に三人で暮らしていたのかもしれない。そして今頃僕は、海など知らないような土地で、呑気に生きていたのかもしれない。そう、海とも月とも遠い場所で――

 彼が憎くないはずなかった。

 それでも、僕が彼の元に通い続けたのは。

 僕の持つ全ての方法で、彼を追い詰めたかったからだ。

「さあシアル、君の、君たちの積年の思いを晴らす時だよ。今なら、君はこれで簡単に僕を殺せる!……ああでも、やっぱりだめ」

 彼は貝を差し出しかけて、奪い返すようにその腕をひっこめた。細くて尖ったそれを、ぎゅっと胸に抱く。

「これは、僕がはじめて君からもらった、大切なものだから。他のものにして」

 賭けだった。

 彼を、僕自身に執着させること。

 魔法使いは、一度執着を見せるとしつこい。恋も、愛も憎しみも持たない彼らは、一度何かにとりつかれると、めったなことがない限りそれを手放しはしない。

 我ながら馬鹿馬鹿しい思いつきだとは思った。誰かを自分に固執させるなんて。

 しかも、相手はあの奇妙な魔法使いだ。彼が僕自身に執着してくれなければ、この試みは上手くいかない。既に彼は、彼を呪った人物に、十分固執している。正体を明かした途端、あっさり、あの子どもでないのならいいやなんて、言うのかもしれなかった。飽きて、僕を殺すとも知れなかった。

 でも。だからこそ、可能性があった。彼は「固執」を知っている。彼は僕に関心がある。僕は確率の低い賭けをして、それに、勝った。

 だから僕は、その武器を今使う。

「『憑かれモノ』と呼ばれる苦しみを、あんたは知らない」

 浜の中に、言葉を置く。大事そうに貝を撫でていた彼は、こちらを見て、にっこりと笑った。

「君は自分を可哀想に思いたいだけだよ」

「違う」

「違わないよ。君は、『ツカレモノ』であることで、自分に色んなことを赦していたんだ。何にも理由なく除け者にされるのは嫌だけど、僕という理由があれば、そのせいにできる。その言葉に甘えて、人と関わる苦しみと向き合いたくないだけなんだよ。でもそれでいいんだ、だってそうじゃなきゃ、君は僕の側にはいてくれなかったかもしれないもの――」

「あんたは――あなたは、心をもってその人をころしたのか」

 僕の言葉に、魔法使いは、口をつぐんだ。きょとんとした顔をして、まばたきをしている。

 ああ、その顔はもう何度も見た、「本当にわからない」という顔だ。

 彼は頭が回るのに、多くのことを知らなさすぎる。

「喜びや、怒りや、憎しみや、嫉妬を持って、その人を殺したのか」

「違うよ。確かただ通りかかって、邪魔だっただけ、だったような気がする」

 ああ、これが魔法使いなのだ。

 何も覚えてはいない。

『あの魔法使い、何でもできるのに、絵だけは壊滅的に下手くそなんだ!』

 楽しそうな字。真似して描いた絵。彼と魔法使いが、お互いにどんな存在だったかなんて、覚えてはいない。彼にとって「執着」の対象となったのは、ある人間に殺してやると言われるほど恨まれたこと。

 その人物と自分の間にあったものを、彼は記憶に留めていない。

 魔法使いは、いい加減で、残酷で、大事なことは何にも覚えてやしない。

 だから。

「そんなあなたに、誰かと心で向き合う資格はない」

 すっと、彼の顔から色が引いたのがわかった。あたりを漂っていた光の粒が、ばらばらと下に向かう。

 彼は狼狽えたように、更に強く貝を握りしめていた。

 勝った、と思った。

「執着」の証拠だった。

 ああ、この魔法使いは、こんなに簡単に顔色を変えるのか。頭の中を読もうと思えば読める相手の、言葉一つで。

「そんな、やめてよ。ずっと僕はこれを焦がれてきたんだ、『君』に心から憎まれて殺される日を」

 僕は首を振った。魔法使いは、もっと強く首を振った。金色の髪が、大きく揺れた。

 結局、誰でもいいんじゃないか。彼が、その人物を「自分を恨んだ人」だと認めれば。

 僕が何も言わないのを見て、彼は目を泳がせ、肩を落とした。腕をだらりと下げ、うつむいている。小さな子どものようだった。

「そうか、これが哀しみなんだね……振り向いてもらえない哀しみ。誰かを殺されて思う心も、きっとこういう色なんでしょう? 今、やっとわかった」

 彼の言うことは、それこそ悲しいぐらい一つも合っていない。

 彼はそのまま、砂浜に座り込んだ。光の粒は、青白く光って彼に寄り添うようにしている。

 ああ、この時を。

 先ほどとは違う寒気が、背骨を駆け上がる。歯の奥が熱くなるのがわかる。名前を言いたくないような感情が――知らないものだと言い張りたくなるような黒々とした色が、自分の中に渦巻いているのがわかる。

 たのしみ。

 人を呪う、愉悦。

 誰かを縛りつける、背徳。

 この時を、ずっと待っていた。

 彼を恨まなければならないと思っていた? どうでもいい? そんなわけない。僕は心から彼を憎んでいた。この時のために、彼に付き合ってきた。自分と、自分の家族を苦しめたものに、不幸を突きつけてやりたくないわけないじゃないか。

 共に過ごしたって、彼は僕の、僕たち家族の敵であることには変わりはない。

 たとえ、今僕の隣にいるのが、他でもない彼だけだったとしても。

 僕は一歩、二歩と歩み出て、彼の目の前に立った。

「あと千年」

 魔法使いが、顔を上げた。今にも泣き出しそうだった表情が、色を失い、訴えるように歪む。

「あともう、千年。その苦しみを覚えていられたら、僕があなたを殺してあげるよ」

 その目の奥が、激しく揺れたのがわかった。

 ずっと、彼の目に何か感情を探していて――見えそうになっても、結局それはわからなくて。だが、今は違う。

 はじめて、彼の目の中にありありとした感情を見つけた。

 絶望の色だった。

 簡単に、解放してやりはしない。

 彼は口を開き、閉じた。その舌の根のありかを確かめるように、しばらく黙っていた。

 やがて、掠れた声が彼の口からこぼれた。

「あと、せんねん……君はもう、その時には死んでいるでしょう?」

「死なないさ。僕の魂は生きている。ずっとずっと語り継いで、その話の中で、あなたは英雄になったり極悪人になったりするだろう。でも最後は、千年後のその時は、きっとあなたは万の恨みを向けられる。地の果てまで追いかけて、その息の根を止めてあげるよ」

 その目の奥に、様々な色が浮かんだ。青の裏に紫、碧の傍らに赤。僕は、出会った時に見た、彼の洋服の袖の宝石を思い出していた。

 彼が、迷っているのがわかる。

 絶望。けれど、その先にあるのが――何年も何年も何年も、焦がれた望み。執着の、答え。

 その両方を一度に示されて、彼の中で、今までの様々な経験を辿っているように思えた。あるいは、何かを計算して、予知して、組み立てているのかもしれない。

 そうだよ、それでいい。悩んで、苦しんでくれ。非道いあんたには、まだ「お別れ」は早い。

 彼が一度目を閉じて、開けた時、その色はいつも通りの、朝の川の色に戻っていた。

「じゃあ、それまでお別れ? もう、一緒に遊んじゃいけないの?」

 出てきた言葉に、今度は僕がまばたきをする番だった。

 ああ、この人は。

 この人はなんて、なんて愚かなのだろう。

「ひどい理由で人間を殺して、僕の一族を呪われたものにして、あまつさえ今の親も殺そうとした相手と、一緒にいたいなんて思わない」

「そっか……ごめんね」

 彼のその謝りの言葉が、一体何に向けられたものなのかはわからなかったが、ずいぶん軽い言葉で済まされるものだ、と思った。

 魔法使いが立ち上がる。丁寧に服の砂を払って、貝についた砂を落として、その切先が赤くなっていることに気がついて、手袋で拭う。汚れたそれをしまうと、彼の両手は真っ白な素の手になった。

 明日があると思っていた。いつ、この魔法使いに僕の心を話そうか、そう思いながら、まだ何度も、共に過ごす時間があるのだと思っていた。

 それは突然、壊れてしまった。彼と、僕が、壊した。

 彼が、僕と目を合わせた。綺麗な目だった。

 僕は咄嗟に、何も考えないようにした。考えを読まれると思ったのだ。

 実際、彼がその気になれば、この時間にあった僕の思考全部を読むことだってできただろうし、それは今も同じはずだったが、彼がそうしていないのがわかった。何かを探るように、あるいは伝えるように――じっと、僕の目の中を覗き込んでいた。

 考えを読み取れない僕には、彼が何を思っているのかは、わからなかった。

 彼の綺麗な青と碧の目が、一度閉じられて、開けられた。その輝きに溶かされるようにして、彼の表情が優しく――ひどく優しく綻んだ。


「寂しいよ、シアル。また、千年後に会おうね」


 こうして魔法使いは、僕の前から姿を消した。

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