10
その日、魔法使いは家にいなかった。
家の周りをぐるりと歩き、床の下を這い、森の中に目を凝らした。でも、いなかった。
家の中に入った。彼は、鍵をかけない魔法使いだった。
いつも通り、散らかっているところと、そうでないところと、何かが浮いているところと、何もない部屋があった。
物だらけのこの家の中で、ただ一つ、見つからないとはっきりわかったものがあった。
フライパンと貝だ。
なぜか、嫌な予感がした。
僕は魔法使いの家を飛び出し、道を転げ落ちるように走って、海のそばを通って、自分の家を目指した。
悲鳴が聞こえた。脳を貫くような音に、うずくまりそうになった。
家のドアを開けた。
母に馬乗りになっているミチルがいた。
その手には、何か鋭利なものが握られていた。
細長く尖った、貝だった。
「っ、やめろーーーーーー!!」
信じられないぐらい、大きな声が出た。僕の咆哮のような声を聞いて、彼が振り返った。
「シアル」
いつもと変わらない調子で、のんびりと彼は僕の名前を呼んだ。
その頬に、点と赤が飛んでいた。
彼の下敷きになっている母を見た。体は無事だ。顔をかばうように上げた腕に、傷があるのが見えた。
僕は体当たりをして、彼を突き飛ばした。勢い余って、母の上に倒れ込む。彼はごろりと床の上に転がって、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
「シアル? どうし――」
気がついたら、彼の手を掴んで、家を飛び出していた。
そうすべきでないのはわかっていた。僕がすべきことは、望み通り彼をその場で殺し、あるいはせめて家から追いやって、二度と近づかないと約束させることだった。いや、あるいは、町の人を呼んできて、彼を襲わせるのが正解だったのかも――
母が本当に無事なのかも、確かめずに出てきてしまった。それでも、僕の手は彼の手首から離れることはなかったし、足が止まることもなかった。
腹から何かが込み上げてきそうになって、僕は地面に転がり込んだ。引っ張った相手も、同じように転ぶ。家も見えなくなった、来たことのない浜辺にいた。そばの岩場に手をついて、吸うか吐くかわからないが、とりあえず息をする。呼吸を止めるように走っていたのだ。
「驚いた。足が早いんだねえ、シアル」
少しも乱れていない息で、魔法使いが言った。
僕は振り返り、彼のもう一方の手首を殴って貝を叩き落とした。その先がわずかに赤く染まっているのを見て、首筋が冷たくなるのがわかった。
自分の手から飛んでいった貝を見て、魔法使いはわずかに眉を下げた。
ようやく正しく働くようになった喉で、僕は音を出した。
「なに。なに、を」
「なにって? あの人を殺そうと」
悪びれもせず、魔法使いは答えた。僕は言葉を失った。
「だって、友達の敵は、やっつけてあげないと。そうでしょ? ああでも、失敗しちゃったなあ。意外と力強いんだもの、あの人」
彼は片手の甲で頬を拭った。その白い手袋に赤が移ったのを見て、脱ぎ捨てる。
頭の中が、真っ赤になって、真っ黒になって、混ざって何かの色になった。ああ、あれだ。焦げた、焼かれたカエルの色。
そうやって、『あの時』も殺したのか、と思った。
「あんたは、なにを。て、き?」
「そうだよ。あの人は君をいじめる、悪い人でしょう」
僕は唖然とした。この魔法使いは、何を言っている?
「なんで、なんでそんなこと。突然……」
「突然じゃないよ。ずっと考えてたよ。あの人が君をいじめてるんだと、わかってから」
「あんたは何も知らな……パイを。僕たちに、パイを焼いてくれたことがあっただろう」
「違うよ、あれは焼いてくれたんじゃないよ。残り物でしょう。君は大事にされてないから、食べ物はいつも端っこなんでしょう?」
ぽんぽんと彼の口から出てくる言葉に、目眩がしそうだった。
彼は、突然、何に思い至った? なぜ、こんなことをする?
昨日、僕たちはいつものようにくだらない遊びと、少しの勉強をして、別れたのではなかったか。
母の話題など、一言も出なかった。大事にされていない? 何の話だ。昨日、彼は笑って、こちらに手を振っていたじゃないか。いつものように。
明日が楽しみだね、と。
ぞっとした。その言葉の、昨日の夜の時点で既に、彼の真意は――
目の前の魔法使いは、本当に悲しそうな顔をしていた。光の粒もしおれてしまうほどうなだれて、言葉をこぼしている。
「ふつう、大事なひとが真夜中に、びしょ濡れで帰ってきたら、どうしたの、って聞くよ。僕が来なかったら、あの日、君は死のうとしてたのに」
「……死のうとなんか、してない。月を、月を見にいっただけだ。ただ、あそこに行けたらいいなって、叶わないから、近くで見たかっただけで」
「死にたくない人は、夜の海には入らないよ」
吸った息が、その先を失くして止まった。
夜の海は、冷たいよりも、美しいよりも、本当は恐ろしい。
だから魔法使いは嫌われるのだ、とわかった。
優しく抉り出されるような言葉。
彼は、樽に詰められて、流されたと言っていた。
「死にたくなくても、死んじゃってもいいかって、思ってたんでしょう。うっかり、道の端で足が滑るみたいに、あ、って、波に飲み込まれたらそれでいいやって、思ってたんでしょう」
違う、そんなことない。死んでもいいなんて思っていなかった。
「母」だって――彼女だって悪い人じゃない。引き取ってもらえただけ、家を食事を与えてもらえるだけ、僕は幸運なのだ。濡れて帰ってきたらタオルを差し出してもらえる、それのどこが。
「それは、周りの人に悪く思われたくないからだよ」
魔法使いが言って、僕は思わず両手でこめかみを押さえた。
考えを、読まれた。
彼の目の色は、ゆらゆらと揺れている。
「人間は、すぐ周りの人間を気にするでしょう? あの時、夜だったけど、ドアが開いたままだったから。君をいじめてるって周りの人に知られたら、今度は自分がその人たちにいじめられちゃうでしょう?」
頭がガンガンと痛んだ。それが、彼の言葉によるものなのか、自分で押さえつけているせいなのか、わからない。
たとえ関心が薄くたって、一番大事にはされていなくたって、僕には十分すぎる居場所だった。家がある。食事がある。タオルを差し出してくれる。話しかけてくれる。
向けられる奇異の目に、耐えてくれる。
誰もいなくて、何もなかった頃を知っているから、それがどれだけありがたいことか、僕にはわかる。
「ねえ、本当に覚えてないの?」
その声のトーンが変わったのを感じて、僕は顔を上げた。
ふわりと揺れる金色の髪から、火のくずのように、涙のように、光の粒が散っていく。伏せられた目の中で、青色と碧色が交互に回っている。
彼が、出会った時から言っている「約束」の話をしているのだとわかった。
今この場で、何を言い出すんだ、と思った。
彼がまっすぐに僕を見た。
「僕のこと、忘れちゃったの? 僕を殺してくれるって、約束したじゃない」
傷ついたような顔。寂しいと、悲しいと訴えるような表情。
「君はあんなに怒っていたのに。君のお父さんを、僕が殺しちゃったから。怒って、恨んで、呪っていた。そう、君は人間だったのに、僕の心を呪っていたんだ!
絶対に僕を殺してやるって、あんなに怒り狂っていたのに」
その表情が、徐々に悲しみから、享楽や幸福の色に変わっていく。両手を握りしめて、彼は歌うように言った。
「ずっとずっとずっと待ってたんだよ。まだかなあ、まだ捕まえてくれないのかなあって。あちこちを逃げ回って、色んなところで人間に怖い目に遭わされたけど、君に会えるのが楽しみで、なんとか生きて、ずっと君を、待ってたんだ」
組み合わせた手をほどいて、魔法使いはその両手の中を見つめた。
光の粒が、潮風に舞い上がっていった。
「ようやく、誰かと心から繋がれると思ったのに」
ぐさりと、何かを突き刺されたような気がした。
心の柔いところ、神経や、感情や、肉や鼓動や、その合間。一番柔らかいところに、静かに沈む刃物。
月に行きたかった。苦しかった。このままでいたかった。夢の中で、両親の手を離した。全部嘘。
ああそうか、今なんだ。
全部、全部、全部――ここに刺さった刃物を引き抜いて、この眼前に、この魔法使いに、突き立ててやるのは。
僕の苦しみを、その眼前に置いてやるのは。
目的を、果たすのは。
「覚えていないのは、そっちの方だ」
彼が顔を上げた。
「顔も、時間も、何もかも忘れているのは」
僕は息を吸って、一歩、前に踏み出した。
「あんたは間違えてるんだよ。あんたは僕のことを、その呪ったやつだって思ってるんだろう。でも違う、その人は、とっくの昔に死んでるよ。僕はその、ずっとずっと、ずっとあとの子どもだ」
魔法使いは、ぱちりとまばたきをした。僕はかがんで、彼の手から落ちた貝を拾い上げた。
「でも、僕もあんたを恨んでる。憎んでる。僕の父さんだって、あんたに殺されたようなものだ。母さんがいなくなったのも。
だって、あんたの言う『人を殺した』ことのせいでずっと――ずっと僕は、僕たちは、生まれた時から『魔法使いの憑かれモノ』だった!」
真っ直ぐに手にした貝を、彼の目の真ん中へと向ける。彼を守るように光の粒がぶつかってきて、弦のような音を立てる。
全部吐き出す。腹の奥に抱えていたものを、全部。
ずっと言ってやりたかった言葉を、吐く。
「あんたが、うちの先祖に関わったせいで――その人が、あんたを殺してやるなんて呪ったせいで――うちの一族は、すっかり『憑かれモノ』扱いだ! 魔法使いの手垢がついた、呪われた一族だってね! それで父さんも殺された!」
魔法使いは、また一度、まばたきをした。
それから、その頬がゆるむ。僕が向ける貝をつかんだ。わずかに赤く染まっていたその先から、今度は彼の血がこぼれる。その鮮やかさを見て、僕は思わず手を離した。
彼は取り戻した貝を抱いて、くるくると回った。
「ああそうか、そういうことなんだね、嬉しい! やっぱり『覚えて』いてくれたんだ!」
とろけるような笑顔を見せる魔法使いの前で、僕は絶望に暮れていた。
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