7
三日後、夜、魔法使いの元を訪れると、彼はすることがないと言った。寝起きで、発想力が冴え渡らないのだと。
眉根を寄せて、いつかのように宙であぐらをかいて回る彼に、僕は提案をした。
海に行きたい、と。
彼は両手を挙げて承諾した。
三日間眠り続けたという彼は、いつも通りの騒がしさを取り戻していた――と言っても、騒がしくなかった眠たげな彼というのを、僕は腕の部分しか見ていないので、三日前、いつも通り騒がしかった彼が、三日後、同じような姿で戻って来た、というだけのことだった。それでも、なんだか懐かしいような気がした。
誘った後で、海でよかったのか、と訊いた。別の場所でもいいけど、と。あの変な集団に襲われた時、彼らは海がどうこうと言っていた。実際、ミチルは前に海に流されたことがあるはずだ。彼は首を振って、にこにこと笑った。ここでいい、ここがいいよと。
僕たちは、夜の海にやって来た。風が心地よかった。
「今日は海に入る?」
「そんな毎日入らないよ。寒い」
「あの日はお風呂みたいに入ってたのに?」
彼は自分の胸のあたりで、水平に手を振ってみせた。そんなところまで埋まってない、と思ったが、反論するのも面倒でやめた。
海の空気は静かで、でも潮騒がうるさかった。月はあの日のように低いところにはおらず、遠く真上に浮かんでいた。
風に吹かれて、めちゃくちゃな方向に飛ぶ髪が視界を遮る。彼の身体のきらきらが、無数に浜へと流れていった。
彼が腰を下ろし、膝を抱えた。僕は人一人分の間隔を空けて、横に座った。
しゃら、と音がした。ふと横を見ると、彼の光の粒同士が、ぶつかって音を立てているのだった。こんなにも一緒に過ごす時間があって、もっと静かな場所にもいたのに、それらが音を立てるものなのだと、はじめて知った。
ふと考えた。とりとめもないことだ。僕の体格で、人一人を投げ飛ばすには、どれぐらいの力がいるのだろうと。
「あの人、なんで濡れてたのかって、聞かなかったね」
唐突に、魔法使いが言った。
こぼされた言葉に、僕はしばし返事ができなかった。何の話かわからなかったのだ。しばらく考えて、それが、出会った初日の母の話題であることに思い当たった。
魔法使いは、砂地で指遊びをしていた。
「シアルはよく、びしょ濡れで帰ってくるの?」
「そんなことないけど」
海に入ったのは、あの日がはじめてだった。
あの日は、冷たくて、怖くて、でも綺麗な心地だった。水と泥にまみれた靴の中が気持ち悪かった感覚や、魔法使いの冷たい服と、肩に置かれた手とかけられたマントの温かさが、ちぐはぐだったこともよく覚えている。
そのちぐはぐだった魔法使いは、ぐるぐると地面の砂に円を描いている。魔法を使わずに遊んでいるのは、珍しい姿のように思えた。
「真夜中だったよね」
「うん」
「月が大きくて暗かったよね」
「……うん」
「なんであの時、ここにいたの?」
魔法使いは、砂のついた指で前を示した。
海。正確にはこの浜辺でなくて、この目線のもう少し先、浅瀬の中の海。あの日僕はざぶざぶと海に入り、腹の辺りまで、その水に浸かっていた。
少し考えて、率直な理由を返した。
「月に行きたくて。月に行ける場所を、探してたんだ」
少し目を伏せる。周りの人に言ったら、ただでさえ奇異を含んだ目が、更に険しくなるだろう。月に行きたいだなんて、この町で普通に生きていたら考えることではない。
それでも僕は、あの存在に触れてみたいと思ったし、それに一番近い場所を、海以外に知らなかった。
「それは素敵だね!」
魔法使いは、満面の笑みになった。目尻のしわから、はみ出た光の粒が飛び出す。今日の彼の目は、いつもよりもずっと強く輝いていた。
僕は唾を飲み込んだ。少ししょっぱい、この海の潮の味がした。
人を投げ飛ばすには、どれくらい。
そういえば、あの日の月は、海に沈んでいた。
今更のように、あの日の光景を頭に浮かべて、疑問を持った。真夜中に海に沈む月。あの日確かに、白く大きな月が水平線にかかっていたが、月というものは、あんな真っ暗な時間に、地の果てに沈むものだっただろうか。
学校の授業を思い出す。ダメだ、昔の記憶すぎて覚えていない。魔法使いの授業を思い出す。ダメだ、月の話の時、彼は早々に飽きて、月に住むさそりの作り話を始めてしまったんだった。
「でも、じゃあよかった、間に合って」
恨めしくその蟹の姿を思い描いていると、魔法使いが組んだ腕に顎先を埋めて言った。そのまま少し首を傾け、こちらを見る。
彼はいつも笑っているが、その目の奥には、感情が読み取れないことがほとんどだった。でも今は、何かが見える気がする。
「もうちょっと遅かったら、きみは『いなかった』かもしれないもんね」
「……そうだね」
ウインクをするように彼が一瞬目を閉じると、その不思議な目の奥はいなくなってしまった。普段通り、にこにこと笑みを浮かべている。
彼の質問は、まだ続いていた。
「シアルが僕の家に泊まる時、シアルはあの人になんて言うの?」
あの人、というのが母のことを示すのだと、また気づくのに数秒かかった。
「何も言わないよ。っていうか、何も言えないままあんたが家に引きずり込むんじゃないか」
「そうだっけ。人間は心配性だから、夜、外に出る時は一緒に住んでいるひとに言わなきゃだめなんだと思ってた。でもお昼から外にいたら、言えないでしょう? だから心配性の人間は魔法が使えるのかなって、思ってたんだよね」
「行き先を告げる魔法?」
「そうそう。鳩に乗せてね」
彼がふっと宙に息を吹きかけると、火の翼を持った小さな鳥が燃え出て、どこかへ飛んでいった。今日の君の枕元にね、伝言を届けにいったんだよ。家が燃えないように気をつけてね。じゃあ今日は、自分の家に帰っていいの? あ、そうか。どうしようかな。僕の家が燃えたら困るけど、今日は泊まっていってほしいしな。
うーんと彼は唸り、目を閉じてしまった。結局、その火の鳥は今日どこに行くのか、何を伝言されていたのか、僕は家に帰っていいのかダメなのか、この話題に関することは何一つわからなかった。
「ねえ、なんであの人、シアルが濡れてたのか聞かなかったの?」
伝言鳥の話題には飽きてしまったらしく、同じ質問を彼は繰り返した。
「質問ばっかりだな」
「だって気になることは、聞いておかないと。あとで、って思ってると、人間はすぐ死んじゃうでしょ? ねえ、なんで?」
じっと見てくる彼の視線を避けて、僕は前を向いた。夜の海は暗くて、彼の光の粒がいないと、くろぐろとして恐ろしいもののようにも見えた。
「別に。ふざけて海に入ったとでも思ってたんじゃない」
「ふうん」
魔法使いも、前を向いた。しばらく、二人で海を眺めていた。
「僕も質問するけど」
「嬉しいな。どうぞ!」
彼の声が弾んだ。
「あんたの本当の願いって、何?」
しん、と空気が澱んだ。潮風も凪ぎ、光の粒もぶつかる音をとどめてしまう。ひゅん、と喉を通るものが冷たくなったが、僕は彼の答えを待った。
彼は海を見つめたままだった。その目の光さえも、音をひそめるかのように落ち着いてしまう。あたりは、いっとう暗くなった。
夜の海は、冷たいよりも、美しいよりも、本当は恐ろしい。それを今、思い知った。
彼が僕を見た。揺らぐ瞳。
「君に殺してもらうことだよ」
また、彼の目の奥に、何かしらの感情が現れた気がした。
「ずーっと言ってるじゃない! それが君と僕との約束なんだって。思い出せない君が悪いんだよ?」
彼の声が明るく爆ぜ、光が戻ってきた。その目の色は朝の川の色で、光の粒たちはぶつかり合う宝石のように音を立てる。海の波の形がまた、少し見えるようになった。
胸の奥が、鈍く重く打った。
『全部、魔法使いのせいだ』
僕は一つ息を吐いた。首を振って、頭の中の声を追い払う。
体をひねり、腰のカバンの中をまさぐった。
「この間買った、町の果物があるんだけど。食べる?」
「いらない! だってそれ、僕のためのものじゃないでしょう?」
僕は目をしばたいた。彼のために買ったものではないことを見抜かれたことよりも、いらないと言われたことに驚いた。食い意地の張った彼のことだから、あげると言われれば、一にも二にも飛びつくものだと思っていた。
カバンの中で果実を握りしめたまま固まっていると、彼は歯を見せて笑い、片手でぎゅっと膝を抱えて、もう一方の手を差し出した。
「と思ったけど、やっぱり食べる! 人のものを食べちゃうって、ずるくて最高! 悪いことをしてる気分になるよねえ」
実を差し出すと、彼はその果物の艶を喜んだ。
悪いことをしている色だ、と彼は言った。これを今、目の前で黒焦げにしちゃったら怒る? せっかくくれたものを台無しにしちゃったら、君は怒る? 怒らないよ。だってそれは、もともとあんたのためのものじゃないから。そっかあ。そうだよね!
その言葉に反して、彼は果物を丸焼きにすることはなく、おとなしくしゃくしゃくと齧り出した。あどけない動物のようで、少し微笑ましい気持ちになった。
月を見上げる。
この魔法使いと、あと何度、こうして時間を共にするのだろうと思った。
海を少し散策してから、彼の家に帰った。浜辺で、彼はナイフ代わりのものを探しているのだと言っていた。果物を剥くやつ、そういえば失くしたままだったなって、思い出したんだ。僕が見つけた、細長く尖った貝を渡してやると、彼は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑って、飛び跳ねて両腕でその貝を抱きしめていた。
はじめて、はじめて誰かから贈り物をもらったよ!
その夜、彼が飛ばした火の鳥は、僕の枕元にはやって来なかった。
だから、彼が僕にどんな伝言を残したのか、わからない。
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