眠くてたまらないから、しばらく寝るね。

 ある朝、丸く盛り上がった布団の中から彼は言った。この一週間ほど、一睡もせずに生活していたらしい。知らなかった。

 その頃の僕は、ほとんど毎日、彼の家で寝泊まりをしていた。

 僕はさまざまな布を縫い合わせた敷布団を畳みながら、どれぐらい寝るの、と訊いた。三日、と返ってきた。

 にゅる、と布団の中から手だけが出てきて、手袋をとって、と言われた。自分でやれるだろうに、と思いながら白い手袋をはずすと、もう一本の手も出てきて、こっちもとって、と言われた。

 両方ともはずしてやると、突然ぐわりとその腕が僕に向かって伸ばされた。逃げる間もなく呆然としていると、ぐ、っと頬をつままれる。見えていないはずなのに、器用な芸当である。

 わずかに伸びた爪が頬に食い込んで、ちょっと痛かった。布団の中にある頭から声がした。

 もう来ないでってことじゃないよ。三日後、もし君が僕の家に来ていなかったら、君にワイバーンの尻尾を生やしちゃうからね。

 わいばあん、というものが何なのかはわからなかったが、尻尾があると生活がしにくそうだと思った。どうやって椅子に座ればいいんだろう。

 ふっと力がゆるみ、僕の頬を放した手がずるずると布団の中に戻っていく。置き去りにされた光の粒たちが、宙を漂っていた。

 すぐに寝息が聞こえてきた。僕は布団を部屋の隅に寄せて、家を出た。



 彼から解放された僕は、久しぶりに町へ出た。

 午前中の市場は賑わっていて、みな木のカゴを手に、様々な露店に立ち寄っていた。食べ物の匂い、土埃の匂い、布の匂い、香辛料の匂い、宝石店の店員の奇妙な匂い。目も鼻も、あっという間に回ってしまいそうで、でも、こういった空気は嫌いじゃなかった。

 露店で、果物を買うことにした。

「おつかいかい? えらいねえ」

「はあ」

 赤い実を四つ、手にとって店主に手渡すと、にこにこと微笑まれた。お金を渡すと、ちょっと待っててね、おまけにいいものが、と、かっぷくのいい体をうしろに向けた。

「見ろ、あの子だぞ」

 背後から、声が聞こえた。

 肩越しにわずかに振り向くと、斜向かいの布地屋で、店主と客がこちらを見ている。

「ほら、あそこの家の」

「ああ、あの海沿いの……」

「少し前、やって来て……」

「『ツキ』の……」

「知ってる? 今も魔法使いと……」

 最初は二人だけだった声が、小さく細く広がっていく。わずかに遠巻きに、僕を取り囲んでいる。唾を飲み込んだ。この町の、砂の味がした。

 顔を上げると、店主がはっとしたように僕を見て、目をそらした。僕の手の上におつりを落とし、触れたくないようにすぐに手をひっこめてしまう。

 手のひらの上の銅貨を見つめた。

「どうも」

 はじめてもらった小遣いの、その残り。

 店を離れる。さざなみのように噂を口にした人々が、わずかに僕を避けるので、道は歩きやすくなった。他にも露店を見て回ろうと思っていたが、やめることにした。

 空は明るかった。

 たぶん、あの魔法使いの息の根を止めることよりも、町で果物を買うことの方が、よっぽど難しい。



 この土地は、魔法使いの存在感が薄い。おとぎ話のように思っている人も多い。けれど、まったく存在を知られていないわけでもない。

 魔法使いのミチルが森に住みついたということを、今、この町の誰もが知っているようだった。

 先日の妙な男たちが、町で言いふらしたのかもしれない。僕から見て、彼らはいい人間のようには見えなかったが、ひとたび「町にいる人間」に、「被害者」になってしまえば、悪者は魔法使いと、それと――

 布の袋に入れた、果物を見る。飛び出た茎と、表面には少し悪いところがあって、潰れたようなへこみもあって、けれどどの実も、一様に皮の赤色が鮮やかだ。

 魔法使いは残酷で、おかしな言動をして、簡単に人のものを壊し、奪い、惑わせる。

 だが、たとえミチルがいなかったとしても、僕みたいなのは、どこへ行っても歓迎されない。


 決めたはずなのに、とこぶしを握ることが何度もあった。

 やり切ると、決めたんじゃなかったのか。受けた仕打ちを、忘れたのか。

 こうするのが一番正しいんだと思った。なのに、彼の笑顔や光の粒を見ると、喉の奥から、言葉に変えられない嗚咽が飛び出てしまいそうになることがあった。

 そのたびに、じっとつま先を見つめた。やるんだ、と口の中で唱えた。

 決めたんだろう。だったら、最後まで放り出しちゃだめだ、と。



 夕暮れも近くなった頃、家に向かうなだらかな坂を歩いていた。自分の家に帰るのは、久しぶりだった。

 ふと先を見ると、少し高くなった丘の上、家の前に兄弟がいて、母がドアを開けて出てきたところだった。兄弟は、ちょうど学校から帰ってきたのだろう。

 母は晴れやかに笑い、僕より一つ年上の兄弟の頭を撫でていた。後から父も出てきて、兄弟を抱え上げようとしたけれど、重かったのか、脇の下に手を入れたところで止まっている。兄弟も小柄な方だが、もう抱え上げられるような体格ではない。笑い声が聞こえてきた。

 そのまま三人は家には入らず、何やら話しながら丘の反対側へと消えていった。

 今家に帰れば、誰もいなくて快適なのはわかっていたけれど、なんとなく、そこにいたくないような気がした。

 少し回り道をして帰った。

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