5
ある夜、僕と彼は森の中を歩いていた。
珍しく、彼が森の出口まで送ってくれるという。なんだか今日は、月が綺麗だからねえ。散歩したくなっちゃったんだ。そう言いながら彼は、子どものように一つの石ころを蹴り続けながら歩いていた。気まぐれな魔法使いらしい動機だった。
その遊びを続けている限り、あまり月は視界に入らないのでは、と思ったが、石の転がる音が小気味よく、黙っておくことにした。
雲が多く、月はしょっちゅう隠れてしまう夜だった。
ぽんと、彼が強めに石を蹴った。
その時、何人かの人影が、草むらの中から姿を現した。
「いたぞ」
大きな体躯の、筋肉の多そうな男たちだった。むき出しの腕には彫り物があって、服はぼろきれのようなのに、その両耳には、派手に光る飾りが三つずつついている。
縄、鎌、ナイフ、斧。彼らが手にしているものは、どう見ても他人に向けるものではなかったし、彼らが魔法使いの「友達」ではないことは明らかだった。僕は息をのんだ。
「魔法使いだ。さっさとつかまえるぞ」
はっとして隣を見た。金色の髪の魔法使いは、彼らの足元に転がってしまった小石を気にしているようだった。
「僕の石……」
「ひ弱そうだな。どこも折らないようにやれよ」
「わかってるって。指ぐらいはいいだろ?」
「にしても、こんな普通にいるとはな」
「僕を売るの?」
仲間内で話していた彼らが、ざっとこちらを見た。魔法使いは石を見つめたままだ。しばらく男たちは黙り込んでいたが、頭を丸刈りにした男が、品なく口の端を上げた。
「魔法使いの肉は、ひとかけでも口にすれば老いず死なずの身体が手に入る。あるいは供物にすれば、その土地は百年安泰になると。
最初は半信半疑だったが、本当にいるとはな。そこそこ、良い値がつくはずだ」
それは人魚の間違いじゃないかなあ、と魔法使いがのんびり言った。彼は爪の間を見つめていた。
ああでも、それも伝説でしかないんだよ。前食べてみたけど、不老不死になる気配はないもん。指とかほら、皺が一本増えちゃってさあ。
穏やかな魔法使いの口調に、男たちは不愉快そうに眉をつり上げた。得物を構えたまま、魔法使いの様子を伺っている。僕は、彼の隣で硬直したままだった。
突然のことで、頭が回らなかった。
今、目の前に、魔法使いを売り飛ばそうとしている輩がいる。肉がどうとか、気味の悪い話をしている。
この土地で、魔法使いの存在感は薄い。彼自身が言っていた、樽詰めにされて流されたという話はもちろん、魔法使い自体を見たことがあるという話も聞いたことがなかったし、おとぎ話のように、そもそも存在自体を信じていない人も多いように思う。最近、町に出ていなかったから、彼がこの森に来たということがどう認識されているのか、どれだけ知られているのかもわからなかった。
まさか、存在を信じて、捕まえようなんてする人たちがいるとは。
『――全部、魔法使いのせいだ』
脳内に響いて来た声に、頭の中がぐわりと揺らいだ。首を振って追い払おうとしたが、骨が軋むばかりで動かなかった。
「でも、僕はほら、その石を蹴りながらシアルを家に送り届けなきゃいけないから」
魔法使いが指をさす。小石のことを、まだ諦めていないらしい。送ってくれるのは森の出口までじゃなかったんだ、と、僕は重たく鳴ったままの頭で思った。
彼の周りに、火の玉が現れた。赤、青、緑。見たことのない色の炎が、くるくると踊るように浮かんでいる。
男たちはぎょっとしたようだった。
一番後ろにいた一人が、言った。女だった。
「問題ない」
男たちが振り返る。その女が、静かに続けた。
「海に放り込めばいい」
ほっとしたような吐息が、いくつも溢れる。そうだった、魔法使いは。海だ。海へ捨ててしまえばいいんだ。
僕は魔法使いに視線を移した。彼は、暇そうに指先で炎と遊んでいる。
彼は、人間に樽詰めにされて流されたと言っていた。だから、海では死にたくないのだと。
『恨むなら、奴らを恨め』
『魔法使いが、何をしたっていうんだ!』
脳内に響く、声。
「帰って、ください」
「シアル」
気がついたら、僕は魔法使いの前に出ていた。背中から感じる熱気が、弱まったのがわかった。
「なんだコイツ」
「話にあったろ。例のガキだ」
「ああ、そういえば」
最後尾の女が、また口を開いた。
「放っておけ。ただの子どもだ。触りさえしなければいい」
それを聞いて、男たちの顔が笑みに歪んだ。
すっと頭の奥が冷える。冷たい町の、雪が真っ白な町の、暗い夜の記憶がよみがえった。
『放っておけばいい。ガキはまだいい』
そっくりな言葉を、あいつらも言った。
『魔法使いが、何をしたっていうんだ!』
叫ぶような声を、聞いていた。
氷柱が刺さったようだった頭が、沸騰したように一瞬で熱を持った。
「魔法使いが」
僕は拳を握りしめる。
記憶の中と同じ言葉を、吐き出す。
「魔法使いが、何をしたっていうんだ……!」
ああ、僕は何をしているんだろう。こんなことをして、一体今後、何の役に立つっていうんだろう――
だが、沸き上がってくる激昂には逆らえなかった。これは無意味だ、逆効果だ、何も今後の自分のためにはならない。そうわかっていても、感情の温度は下がらなかった。頭の奥を、体の真ん中の臓器を、冷やす水。巡る血液が熱を持っている以上、今僕の身体を冷ましてくれるものは何もない。
両親の顔が、一瞬、頭をよぎった。
体が先に動いていた。一番先頭にいた男、手にした斧に、自分の腕が伸びる。
「っ、触るな! 『ツキ』の手だろ!」
手を振り払われた。その拍子にわずかに斧の切先が触れ、腕に痛みが走った。そのまま尻餅をついたが、僕はひるまなかった。僕に触られたくないのなら、こちらから向かっていけば追い払えると思った。すぐに立ち上がる姿勢になる。
だが、僕は腰を上げかけて止めた。背筋が凍りついて砕け散る寸前のような、命の危機とでもいうべきものを感じたからだ。
それは、男たちも同じらしかった。僕に武器を向けようと腕を上げたまま、固まっている。その目は、熊を見たかのように乾いて見開かれていた。
「指を一本」
ふわりと、視界の隅に火の玉が現れる。その色は、全て緑色に変わっていた。
「指を一本、一本、丁寧に削ぎ落として、お互いの手の甲につけ替えるっていうのはどうだろう? 指輪みたいでお洒落じゃない? 綺麗じゃない? きっと、一度切った指は、黒かったり、緑だったり紫だったりして、とてもお洒落な手になるよ」
ざり、と砂を踏む音がして、彼が後ろから歩いてくるのがわかった。他には、誰も動かない。魔法使いはどんどん歩いてきて、まず石を拾い、ポケットにしまった。ついで、斧を手にした男の目の前に立つ。僕はゆっくりと、目を上げた。
彼が、男の指をそっと手に取った。いたわるような手つきでその指先を撫で――たかと思うと、ばきりと音がした。身の毛もよだつ絶叫が、夜に響き渡る。身体中の毛穴から、冷たい汗が噴き出した。先ほど切られた腕の下で血管がどくどくと音を立て、喉は痛むように乾いていた。
魔法使いは男の指を掴んだまま、苦悶して体勢を崩したその首筋に、反対の手を添えた。
「それとも、『お洒落な頭』にする?」
柔らかな細い指が少し食い込んだだけなのに、その首の肉が大きく沈んだ。
喉の痛みを振り切って、僕はなんとか声を出した。
「み……ミチル!」
魔法使いが振り返った。その目はいつもと変わらず穏やかで、最初はきょとんとしていた顔が、徐々に嬉しそうな色に変わった。
「嬉しいなあ、シアル。名前を聞いてからはじめて、僕のこと呼んでくれたんじゃない?」
「ミチル。手を、離してあげて」
「手? いいよ!」
彼はぱっと両手を離した。男は膝から崩れ落ち、ミチルに折られた指をおさえた。暗い森に、男の呻き声が響く。
ミチルはそのまま、僕の方へやって来た。手は痛くない? お尻は痛くない? そう言いながらしゃがみ込み、僕の服の土を払い、血の滲む腕に触れた。彼がなぞるだけで、傷は綺麗に消えてしまう。彼はそのまま、白い手袋をはめた手を僕の顔の方に伸ばした。その長い指が頬を包んで、耳に触れる。親指がそっと、耳朶を撫でた。
ぞくりとした感覚が、背骨を駆け上がる。
「でもね、ダメだよ、シアル」
目の前の男の指を、いとも簡単に折り曲げてしまった手は、今、一瞬で僕の耳をすり潰すことができる。
「こんな人たちに、優しくしちゃ」
彼はにっこりと笑って立ち上がり、僕に背を向けた。
耳に残った感覚が、今も絶えず僕の身体を震わせていた。でも、止めなければ、と思った。
もういい、も、やめて、も、そんなことしてはいけない人間をころしてはいけない悪いものになってはいけない誰かを傷つけてはいけない、も、どれも違う気がした。いや、言えなかった。
どれも、僕の心からの言葉ではなかったから。
「帰ろうよ」
やっと喉から絞り出した声で、そう言った。
「もう帰ろう。家に」
僕のざらざらの声を聞いた背中は、しばらく動かなかった。しゃがんだ男を見ていた周りの男たちも、武器を握り直している。
仲間に手出しをされたことに激昂して反撃してくるかと思ったが、その足を地面に縫いつけてしまうぐらい――
ミチルの行動は唐突で、自然で、穏やかだった。
風が、ざあと森を吹き抜けていった。
「そうだね!」
彼が振り返った。
「帰ろう、シアル!」
その顔は、いつもどおりの笑顔だった。
「じゃあ、僕たち、家に帰りたいから。君たちも、さよなら」
ミチルが手を振ると、一団は一瞬、迷うような素振りを見せた。だが、手を押さえて呻き続ける男を見、彼を抱えて森の中を駆けていった。
僕は息を吐き出した。ようやく、足に力が入った。
「でも、本当にダメだからね、シアル」
立ち上がった僕の服を、再度彼が払った。じっとこちらを見つめている。
「君は簡単に潰れちゃう生き物でしょう。僕、困るよ」
自分を殺してくれる人がいなくなるから? と笑おうとしたが、彼の目があまりにも無感情で、自分の喉もからからで、言うのをやめた。力が抜けて、入って、なんだか笑えてきた。代わりに肩をすくめ、ものをかき回す手ぶりをした。
「その時は、その潰れた僕の身体で毒のスープでも作って、ああいう奴らに飲ませてやってよ」
魔法使いはまばたきをしたが、少し目を伏せた。鍋をかき回す僕の手をとる。先ほどはまるで温度を感じなかったのに、今触れるその手は温かい。
自分の邪魔をするあいつらの指も首も僕の耳も、まばたきする間に壊すことができた手だ。
「そんなのもったいないよ。もし君が潰れてしまったら、泣いて、泣いて、湖が作れるぐらいになったらその涙で洗って、僕が君を食べるね」
朝の川の色に、その目は輝いている。だが、そう言ったのち何かに気づいて、眉が悲しそうに下がった。
「ああでもダメだ、魔法使いの涙は、石ころに変わっちゃうんだった」
僕は彼がポケットに入れた小石を思い出した。ああいうものに、魔法使いの涙は変わるんだろうか。石ころに埋もれる、僕の哀れな死体。
わずかに、彼の手が震えていることに気がついた。怖かったのか、驚いたのか、理由はよくわからない。励まさなければ、楽しい気分にしてやらなければ、と思った。僕は少しだけ指先に力を込めて、明るく言った。
「じゃあ、その石ころを貝にでも変えて、骨と混ぜて浜に埋めておいて」
「それは素敵だね! 海に行けば、いつでも君に会えるようになるんだ! でも、うっかり骨もばりばり食べちゃったら、どうしよう」
彼はぱっと顔を上げて微笑んだが、またすぐに眉を曇らせた。僕は、彼が菓子のようにそれを平らげる姿を想像して、笑ってしまった。全て胃の中に収めた後で、あっどうしようと、慌てふためくところまで容易に浮かぶ。
ミチルが不機嫌そうに頬を膨らませる。なんで笑ってるの。僕は答える。ちょっと想像してみたらおもしろくて。ずるいずるい、僕にも見せてよ。彼の手の小さな震えは、止まっているように思えた。
大丈夫だと思うけど、今日は君一人になったら、危ないから。彼は、引き返して泊まっていくようにいった。いつものような強引な
その日、彼が泣く夢を見た。その涙は、頬を流れ落ち、彼の体温を離れた瞬間に石ころに変わった。いくつかは、貝に変わった。彼は泣き止まず、そのうち辺りは石ころと貝に溢れて、海のようになって、怖くなった僕も怯えて泣いて、けれどそんな僕の頭を魔法使いが抱き寄せた。
魔法使いの涙は止まらないままで、自分の髪の隙間に、小さな石や貝がはさまる感覚がした。
泣きながら、埋まりながら、大丈夫だよ、と彼は言っていた。
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