次の日の昼――というのは、あのまま眠って夕方に目が覚めた日の翌日のことだが――、僕は森の中を歩いていた。

 足を運ぼうと思った理由は単純だった。彼が何も考えていないように見えて、ずる賢い魔法使いだったからだ。

 彼は、とんがり帽子を忘れていった。中に一緒に丸めていた手袋は、ちゃんと持って帰ったのに、だ。

 別に、僕が届けなくとも彼はさほど困らなかったのかもしれないし、困ったところで迷惑をかけられたのはこちらなんだから放っておけばいいし、森の入口に置いて帰ったそれが野生のうさぎたちの遊び道具になったって、僕には何ら非はないはずだった。けれど、確かめたいこともあった。もう一度、彼と話がしたいと思っていた。

 西の森は、小さな山といってもいい。目的地までは、緩やかだがずっと坂道が続いていた。汗ばむ陽気で、僕はたまに額の汗を拭いながら、魔法使いの研究所とやらを目指した。

 この森には、ほとんど足を踏み入れたことがない。動物が多く、虫が多く、木漏れ日が真っ直ぐに差す明るい森だった。遊び場にうってつけのこの環境に人が寄りつかないのは、呪われた廃墟がある、という噂があったからだ。なんでも、幽霊の研究をしていた変人がいたのだという。魔法使いは、そんなところに住んでいるのだろうか。

 辿り着いた時には、森の入り口から半刻ほどがたっていた。

 僕はまばたきをした。廃墟はそこにはなかった。代わりに、複雑な形の家が一軒あった。

 赤い屋根のついた小さな塔がいくつもくっついた、木製の家。一番高い塔には、風見鶏が回っている。細い柱で支えられ、地面から少し浮いた造りになっており、玄関らしきところまでは、なだらかに巻いた階段がある。

 もう一度まばたきをすると、額の汗がまぶたに乗った。手にした帽子で拭いそうになり、反対の手の甲に変えた。

「ああ、君だね、君なんだね!」

 底抜けに明るい声で、つい最近聞いたような呼びかけがあった。

 二階の窓が開いて、魔法使いが飛び出してきた。日の光に照らされて、いっそう金色の頭がきらきらとしていた。あごのあたりで切りそろえられた髪は、まるで女の子みたいだ。

 身一つでふわりと宙を飛んできた魔法使いは、空気の上に座るようにあぐらをかいた。

 僕はとんがり帽子を突き出した。

「置いていっただろ」

「ああ、そうだったっけ? 三角の帽子は、僕たちのトレードマークなのにね」

 魔法使いは空中であぐらをかいたまま、楽しそうにくるくると回っていた。見ているだけで目が回りそうだ。

「ありがとう、君は優しいひとだね。おかげで僕は、また君に会うことができたね!」

 彼の隣で、宙に浮いた帽子も回転する。息を吹きかけて遊ぶ、羽のおもちゃたちを見ている気分になってきた。

 嬉しいから踊ろう、そう言って逆さまの彼が差し出した手を見つめてから、僕は顔を上げた。

「心当たりはないけど、後が怖いから。一応話を聞きにきた。僕に殺してもらうって、どういうこと?」

 魔法使いは、まばたきをした。その動きに合わせて、彼の身体の周囲を飛ぶ光の粒も瞬く。魔法使いがにっこりと微笑むと、ふわりと粒が離れていった。

「それはきっと、そのうち思い出すよ。というか、思い出してほしいなあ。君に」

「だから、僕はあんたに会ったことすらないんだってば……」

「ごまかしてもだめだよ! 君は約束してくれたんだから」

 それは願いではなく、決定事項のようだった。知らないと言っていることに対し、思い出せも何もないと思う。

 だが、魔法使いの話はそこで終わりらしかった。回るのにも飽きたようで、指先に纏わせた水滴で動物の落書きをしている。

 何やら、鼻と思われるものが長くて、耳の大きい生き物だった。動物であることは察することはできたが、その生き物を知らない自分が見てさえ、彼の絵が上手くないことはわかった。足の長さがバラバラだし、目の位置は縦になっている。

「へたくそ……」思わず声が漏れてから、ひょっとしたら本当に海の向こうにそういう生き物がいるのかもしれない、と考えた。

「あっ、言ったね⁉ そう言う君は上手に描けるの?」

 魔法使いは頬を膨らませ、僕の手をつかんだ。手袋をした指で、手のひらに円を描く。

 くすぐったさに引っ込めようとしたが、文字通り彼は強引な魔法使いである。びくともしない僕の手の上に、水の粒が集まり出した。改めてはっきりとした頭で魔法を見て、目をみはった。

 そこで魔法使いが、あ、と言った。水滴は、蒸発するように消えてしまった。

「そうだ、じゃあお絵かきをしよう!」

「は?」

「せっかく来てくれたんだし、ゆっくりしていって! 僕が死ぬ前に、最後に思い出作りをしようよ」

「いや、だから」

 お絵かきをするなら、筆がいるね。そう言って、魔法使いは家の中へ飛んでいった。

 僕はぽつんと、へんてこな赤い屋根の家の前に取り残された。鳥の鳴き声が聞こえた。

 話を聞いてくれない。僕に殺されたがっている、奇妙な魔法使い。

 最後の思い出作り。

 そういえば、魔法使いは、恋も愛も憎しみも知らない生き物なんだっけ。

 唐突に、薄ぼんやりと、昔聞いた話を思い出す。

 魔法使いは、恋も愛も憎しみも知らない。ただ、一度「執着」したものはなかなか手放さない。

 ――僕は君に会いに来たんだ。幾千もの夜と海を越えて、君だけに、会いにきたんだよ。僕を、殺してくれるんでしょう?

 へんてこな生き物の絵。

 気がついたら、僕の足は彼を追いかけていた。

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