2
「お邪魔しまーす!」
海から上がった。
とりあえずここから出たいな。そう言う魔法使いに、口を挟む間もなく抱えられた。僕がその魔法使いと出会った浅瀬に行くまでにかかった時間の半分で、彼は浜まで移動してみせた。腰を掴まれていた僕は、何度か海水を飲んだ。
夜の浜辺に、頭ひとつ分――いや、帽子の分を入れたらみっつ分ぐらいか――背の高い魔法使いと、しばし、並んだ。
君の家はどこ、と聞くので、しぶしぶ指を差した。あんたは誰、殺すって何。僕の家を知ってどうする気だ。聞きたいことはたくさんあったけれど、寒くて寒くて、会話をする気になれなかった。
僕たちの背後には、海と、白くて大きな月があるはずだったけれど、そいつらは太陽とは違う。眩しいばかりで、背中を温めてはくれなかった。
がたがたと震えている僕に気づいて、魔法使いはびしょびしょのマントの中に入れてくれようとした。僕が無言で拒否を示すと、指を鳴らしてぱっと乾かしてみせた。そういうことではない、と押し返したけれど、彼はにこにこ笑って、有無を言わさぬすごい力で僕の肩をがっちりと掴んだ。たくさん喋る元気がない僕は抵抗をやめたけれど、彼が乾かしたのはマントだけだったので、彼の胴体の方に寄せられた体の半分は、冷たくて不快なままだった。
家へと向かう間、相変わらず魔法使いは楽しそうに喋り続けていたが、眠くて寒かった僕はよく聞いていなかった。
そうして彼と僕は、僕の家の戸口に立った。
「あんた、変なものを拾ってきて」
時間はずれの大きな挨拶を聞いた母が出てきたが、びしょ濡れの僕と、マントだけ乾いたびしょ濡れの男を見て、呆れたようにため息をついた。
「拾ったんじゃない、勝手についてきたんだ」
タオルを取りに奥へ引っ込む背中に向かって、それだけ叫んだ。
「拾われるってはじめてだ! 小皿に入れたミルクでも出してもらえるのかな?」
「ミルク、ほしいの?」僕の声は疲れていた。
「どっちかって言うとハーブティーの方が好き」
なんだそれ、という言葉が自分のくしゃみでかき消えた。魔法使いが、開け放したままだった家のドアを閉める。戻ってきた母が、タオルを差し出してくれる。顔を埋めると、それだけでほっとした。
あくびを一つ、噛み殺した母が、怪訝そうに柱にもたれていた。
「ところで、ほんとに誰だい? それ」
「えっと……」
ちらりと隣の男を見た。母も彼をじろじろと見ている。何と説明すればいいかわからなかった。
彼の瞳の色は、先ほどまでと打って変わって、室内の明るさに反比例するように暗く見えた。その身体にまとう光の粒は、ランプの下で少し弱まっているような気もする。
「ほんとに拾われたんだ! 浅瀬で足がつっちゃって困ってたところだったんだよ」
気を悪くした風もなく、彼はやはりにこりと笑った。
とんがり帽子は、地図のように丸められて彼の手の中にあった。
母は肩をすくめ、風呂は自分で沸かしな、と言って部屋に戻っていった。悪い人ではなかったが、あまり関心のない人だった。
首の周りをタオルで埋めながら、僕も室内に上がった。靴の中は、水と泥でぐちゃぐちゃになっている。顔をしかめ、膝歩きで風呂場まで行くべきか、しばし考えた。
「運んであげようか?」
魔法使いが、服の裾を絞りながら言った。家の玄関に水たまりができた。
「奥の部屋まで吹っ飛ばせばいい? ピュン、で済むよ」
「吹っ……いいよ、家が壊れそう」
「そう?」
彼は、にこにことして玄関に突っ立ったままだった。僕はため息をついた。
「……とりあえず、あがれば」
「いいの?」
「そのままで風邪引かれるのも」
魔法使いが風邪を引くのかは知らなかったが、このまま追い返して後から恐ろしいことになっても嫌だ。後味が悪い。
膝立ちのまま、彼を見上げる。暗く見えていたはずの目の色は、また不思議にゆらゆらと透ける色を取り戻していた。
彼はばつが悪そうに――人の家の玄関を水浸しにしておきながら、今更だとは思うが――頬をかいて、その手に手袋がはまったままなことに気づいて、指先を咥えて引っ張った。
「はひめてあったやぬひにまねきひれてほはわないと、ひえのなかにひゃいれないんだ」
「なんて?」
「『どうぞ』って言ってほしい!」
「……どうぞ」
「どうも!」
丸めた帽子の間に手袋を突っ込んで、魔法使いは靴を脱いだ。彼の足は、綺麗なままだった。その真っ白でなめらかな色を見て、海の上に浮かぶ白くて大きな存在を思い出した。
魔法使いという不思議な生き物を、はじめて、こんな間近で見た。
先に魔法使いを風呂に突っ込み(簡単に湯を沸かしてくれるというので)、震えながら順番を待って自分も入ると、落ち着いた頃には朝になっていた。
眠たい。こんなはずじゃなかった。
自然と下がってくるまぶたをなんとか糸ほどの薄さに開け、僕はよろよろとベッドに潜り込んだ。鼻の上まで、布団を引っ張り上げる。
冷たかった。怖かった。でも、綺麗だった。
予定は狂ったが、心地よい疲れでよく眠れそうだった。
この拾い物さえなければ。
「で、いつ殺してくれる?」
きらきらと輝く声で、そんなことを問うてくるのだ。
魔法使いは、僕のベッドの端に両手で頬杖をついている。彼を風呂に入れた後のことを、全く考えていなかった。
魔法が使えるんだから、たぶん指をぱちんで家に帰れるんだろうし、海の向こうから来たって食うものには困らないだろうし、僕がここで眠ってしまっても、何の問題もないように思えた。
魔法使いを拾ったことはなかったが、たぶん普通の魔法使いを拾ったのなら、それで済んだだろう。
だが、この魔法使いはそうではない。何故か彼は僕に固執している。というか、面識があるらしい。
僕には覚えがなかったが、言い張ったところでこの変な魔法使いは聞いてくれそうにない。架空の人物の話に付き合わされるんだとしても、今じゃない時にしてほしかった。
「あの、ちょっとしぬほど眠いからまた今度に……」糸ほどの細さに開いていたまぶたが、わずかに落ちた。
「しぬほど? それってどれくらい? 家が燃えてもナイフを突き立てられても寝られるぐらい? あっ僕の殺し方はそんなんじゃダメだよ、すぐに治っちゃうから!」
「死にたいなら海に行けば……」
「海はやだなあ。ちょっと前に人間に樽詰めにされて流されたばかりだ」
彼が人差し指をくるりと回すと、ガラス玉のような水球が現れた。指を揺らすと、ちゃぷん、ちゃぷんと、見えない空気の球の中で、水が回る。
その動きに更に眠気を誘われながら、僕はなんとか意識を保とうと、手の甲をつねった。
「しばらく……一年ぐらいかな? 樽の中で気絶してたんだけど、君を探さなきゃって目が覚めて」
「どこまでいったの」
「樽で? アウィス海洋だよ」
「どこそれ」
「そういうところがあるんだよ」
ここは辺境の町だ。この周辺で生きていけるだけのことしか、学校では習わない。それでも、地形などのある程度の知識は教わっているはずだった。けれど、そんな海洋の名前は聞いたことがない。
学校では学ばないような海から泳いできた。『人間業じゃない』。
だいたい、一年間も海の上の樽の中で生きていた人間――じゃなかった魔法使いを、どう殺せっていうんだろう。いったい何があったのかは知らないが、何かがあって、彼を止めることができなかったから、当時の人たちは樽詰めにしたんじゃないのか?
僕は半年前にこの土地に来たばかりで、魔法使いが樽詰めにされたという話は聞いたことがなかった。
「それにね、たとえ僕が一人で海に行って死んだとしても、意味がないんだよ。僕は君に殺してもらうんだから」
彼はにっこりとした笑みを浮かべた。
男のように見えたが、綺麗だな、と素直に思ってしまうまつ毛の長さをしていた。
不謹慎ながら、あまりにその言葉を連呼されるので、「殺す」という言葉の意味がだんだんわからなくなってきた。隣町に果物を買いに行くよ、それぐらいのトーンで、魔法使いはその言葉を語る。
いいかげんにしてくれよ。僕はあんたを知らないよ。そんな物騒な話に関わりたくないよ。そう言いたかったが、とっくに舌は回らなくなっている。左手をつねっていたはずの右手は、だらりと開いて布団の上に落ちている。
「しょうがないなあ」
彼が指を振る。八の字のように光の束が走り、ふわりと紫煙が漂った。彼は煙の幕の上に、地図のようなものを描いてみせた。
「目の前の道を抜けて丘の上、西に見える小さな森の中に、僕の研究所があるんだ。目が覚めたら、そこまでおいで」
わからない道ではなかった。僕のまぶたが一度まばたきをしたのを見て、彼はくすりと笑った。息を吹きかけると地図は消え、薄くなった紫の雲だけが残る。それも徐々に、空気の中にほどけていった。
彼が身体ごとこちらを向いた。
ぱちぱちと、彼の前髪の間を光の粒が飛んでいる。朝の川のような目の色が、僕を見つめている。ああ、僕が川の中にいる――昨晩は海に――突然魔法使いがやって来て――でも、僕は月を見に――
眠りに落ちる直前、おやすみの言葉と共に、にこやかな声が降ってくる。
「待ってるよ。いつまででも」
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