第14話 雨が上がる、帳が降りる
「い、いやあぁぁぁぁぁっっっっ!!!!!!!!」
雨に濡れた皮膚が溶け始める。水溶症の最終ステージだ。
水溶症は水分に触れた場所から身体が溶け始め、やがてなんの固形物も残さず人体が液状化する。水分は何も雨や飲み水に限らない。自身の身体から分泌される全ての液体が対象だ。つまり、汗、涙、唾液、尿、胃酸、血液である。
ある実験報告にはこうある。水分から切り離し、汗を出させないような状況に罹患者を隔離保護し観察したところ、内臓からドロドロに溶けていった、と。
水溶症は五行病の中でもっとも激烈な痛みを伴うとして有名だ。その溶ける感覚は想像を絶するような痛みであり、
そんな狂人たるアクアマニアの女が、かつて死の淵を彷徨い、二度と体験することはないと思っていた激痛に見舞われ絶叫する。雨霧は容赦なくゲラルナの皮膚にまとわりつき、奇しくも自身の能力のように全身を針で刺したかのような痛みに襲われているのだろう。全身を巡る血すら内部から体をズタズタにしており、見る間に皮下出血斑ができ始め、目から耳から鼻から口からごぼごぼと血を垂れ流す。
俺が招いた結果とは言え、見ていてあまり気分のいいものではない。
エリカの救出は済んだ。面倒だがヤンもつれてこの場を離れよう。
「ま、ちなさい、よ」
「……その状態でよく声が出せるな。ある意味感心だ」
ゲラルナの声が俺を足止めした。振り返ってみれば、真っ白な肌は既になく、白目に至るまで真っ赤に染まった女がいた。もう声を出すのすらまともに出来ないのだろう、血涙を流すその目には何故? と俺に訴えかけている。
「答えてやる義理はねえ」
「…………っ!」
瞳に憎悪が宿る。これから死ぬ人間に情けはないのか、お前は本当に人なのかと糾弾する目。くだらねえ、それこそこれから死ぬ人間になんで情けをかけなきゃなんねーんだっての。
俺は踵を返し歩いた。背後で俺にすがるような気配を感じるが無視だ。俺は早く帰ってこのお荷物どもの処理をしたいんだ。
「……あんた、唯の浮浪者じゃねえのかよ」
「何だお前、意識あったのか」
小脇に抱えていたヤンが話しかけてきた。エリカはともかくヤンはガタイがいいので腕が疲れていたところだ、遠慮なく落とさせてもらおう。
「――っ!? 容赦ねえな」
「当たり前だ。自分で歩け」
「いっつつ。……で、何者か答える気あるわけ?」
「ないな」
「だろーなー。じゃあせめてこれだけ聞かせてくれ」
強打した胸をさすりつつ、ヤンが立ち上がり先程までいた場所を見ている。振り返るつもりはない。
「あの人は……ゲラルナさんはどうなる?」
「五行病の症状悪化により数分以内に死ぬ。確実にな」
「……克服者だったんだろ。病気を克服したのになんで悪化するんだよ。死んじまう必要が、あるのかよ」
「…………」
甘いことを言っている、と俺でなくとも思うだろう。いや多分、ヤン自身も思っているに違いない。その証拠に、握られた拳が震えている。そりゃそうだ、ゲラルナは俺たちを本気で殺そうとしていた。無残に殺される様を楽しみにさえしていた。
だが現実はどうだ。俺に返り討ちに合い、ゲラルナが俺たちに与えようとしていた死なんかより酷く無残な死を迎えようとしている。今もきっと必死に俺たちに向かって手を伸ばし、涙の代わりに血を流して許しを請うているだろう。
それを目の当たりにして、冷静でいられるほど人は強くない。
「人は、こんなに簡単に死んじまうのか」
「それは俺もお前も。エリカも同じだ」
五行病に限った話じゃない。事故、事件、全然関係ない病や怪我、人には抗いようのない天災等等、なにが原因で死ぬか、いつ死ぬかなんて誰にもわからない。誰それの死にいちいち心を砕いていたら身が持たない。
「そう、だよな。いつか死ぬ、じゃなくて明日……なんだったら次の瞬間にも死ぬかもしれないんだよな。俺たちは」
「…………」
「だからみんな今を一生懸命生きて、愛されたいと叫んで。……畜生、イラつくぜ。なんだよこれ」
ちらりと横目で見れると、胸の辺りをギュッと握り、胸の内をどう表現したものかわからない、といったような表情を浮かべている。わかっちゃいたが若くて青い、何も知らねえガキなんだと改めて実感した。
それと同じくらい面倒とも思ったが。
「ほら行くぞ。いつまでもこのままじゃエリカがかわいそうだ」
「……おっさんて優しいのか厳しいのかわからねえな」
「何言ってんだ、優しいだろ優しさの塊だろぶっ飛ばすぞ」
「優しい人はぶっ飛ばすとか言わねえし、人様を囮にしたりしねえ」
「甘いだけが優しさじゃねえだろ。時に世間の荒波をだな――」
「あーはいはい、お説教はまた後で!」
そう言って俺の前を駆けていくヤン。割り切れたわけではないだろうが、思考停止したわけでもなさそうだ。野生児を自負する男だ、命の尊さと同様に死の平等さを知っていることだろう。
「平等、ね」
俺はなんともなしに振り返った。
そこには少しだけ赤い水溜りしかない。じきにその赤すら水に溶けて彼女の痕跡は衣服以外何も残らないだろう。
五行病は命の冒涜と呼ばれている。普通普遍の生を全うできず、奇跡的に生き残っても罹患前の性格は失われ、大切に思った人ですら手にかける化物に成り下がってしまうからだ。これが神が与えたもうた試練なのか、本当の意味で本来あるべき生なのか。それは誰にもわからない。
けれど、これだけはわかる。
一番命を冒涜しているのは俺だということを。
五行病に限り、病状を一段階激症化させてしまうこの能力。
五行病とは違う、しかし密接に関係する病。
歴史上数例しか確認されていないこの病の名は。
『陰陽病』
俺はこの世界で唯一人克服者の……いや、五行病の天敵、猛毒だ。
この事は誰も知らない。誰にも知られるわけにはいかない俺だけの秘密。
俺はこの世界をどうこうするつもりはない。こんな力は望んでいない。
ただ平穏に生きたい。それだけを願っている。
いつの間にか雨霧は上がり、あかね色の光が都市に満ちる。
水溜りに反射してキラキラと光が踊る。
雨上がりの匂いが鼻腔をくすぐる。
平和で平凡な都市のなんでもない風景。
そんなつまらなくもどうしようもない、愛しい日常の光景が俺の胸を締め付ける。
「おーい! 何やってんだよ早く行こーぜ!」
「…………くだらない感傷に浸っちまった。あいつに毒されてるな、俺」
「おっさーん! おっさーんっ!!」
「うるせえぞ小僧! 大体おっさんと呼ぶなと何度も言ってるだろ、頭あっぱらぱーかバカ野郎!」
「じゃあ俺のことも名前で呼べよな! ……そういやおっさんの名前知らねえや」
「インリェンだ、覚えとけ」
「ヤンだ、改めてよろしく」
俺は再び踵を返し、太陽に背を向け陰の伸びた道を歩き出した。
俺は俺の思った通りの道を歩くだけだ。
例え光に背を向けようとも。
「宜しくするつもりはない。エリカを維持局に預けたらお別れだ」
「……は?」
だから俺は選択する。
俺の願う平穏のために。
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