第3話 溢れ出す喜びが降り注ぐ

 樹海の入口には、KEEP・OUTを示した黄色と黒のテープがびっしりと張られていた。


 助手席の小夜が、車内からスマホのライトで樹海の入口を照らした。


 沙羅が外に出ると、焦げた臭いが辺りを漂っていた。


 小夜はすぐに立入禁止のテープをくぐった。


「魔女なんているはずないって。さっさと突入して、沙羅の不安をぬぐってあげる」

「相変わらず小夜は度胸あるね」

「魔女の仕業で朝の挨拶を失ったなんて、今時、小学生だって信じないから」


 小夜に手を引っ張られて、灰になった樹海の中に足を踏み入れた。消防署員の必死の消火の甲斐があってか、まだ森の形は保っていた。


 招かれざる客を毛嫌いするように、怪鳥が空から二人を嘲笑う。風が陰口を囁き、濃霧が不安を募らせた。


 一時間ほど進んだだろうか。


 樹海の奥深くに、小さな小屋と棺を見つけた。


「もう帰ろうよ。やっぱり樹海になんて何もないわ。魔女もいないし。迷子になるほうが大変」

「えっ? 嘘。小夜には見えてないの? 小屋とか棺が」

「驚かそうとしても無駄よ。私、お化け屋敷とか得意だし」


 沙羅は小屋の前で模様を見つけた。

 大地に描かれた六芒星が、淡く光ったような気がした。


「もう、帰るよ」

 小夜が気のせいだとそっぽを向いて、沙羅の手を強く引いた。


 ――次の瞬間。


 棺から物音がした。沙羅は慌てて振り返った。


 棺の蓋が空いていた。

「嘘でしょ……」

「え? 何? どうしたの?」

「棺の蓋が!」

「はぁ? 棺なんてどこにあるの?」

「あそこよ、あそこ」


 沙羅は指を差したが、小夜はきょろきょろと辺りを見回すだけだった。


 小夜には見えていない。

 どうしよう。逃げ去るべきか。


「やはり人間は同種で争う生き物だね。思った通りだ」


 沙羅の背後に、ぴったりと魔女が寄り添っていた。


 悲鳴が声にならなかった。


「私、先に帰るからね!」

 小夜が怒ってきびすを返した。


 魔女が小夜の背後に近付く。やめて。小夜だけには手を出さないで。


 沙羅は金縛りにあったように、その場を動けなかった。


 魔女が小夜の首を締め上げ、小夜は苦しそうに顔を歪めて宙に浮いた。


「やめて!」

 ようやく声が出せた。背中から汗が吹き出すのが分かった。

「小夜は何もしていない! 小夜と揉めたのだって、私の態度のせいなの」


 小夜が空中で首を掻きむしっている。


「黙れ。人間は愚かだ。私を迫害した当時から、何も成長しちゃいない。もう帰れ。こいつの命をもらって、私はまだ生きる」

「小夜だけはやめて、お願い」

「他の人間なら良いのかい?」

 魔女がニヤリと笑った。


「ダメ。誰も犠牲になんてできない。命を奪うなら私にして!」

「無理だね。お前らはいつも口だけだ。人間から朝の挨拶を奪った。それだけで、社会はどうだ? 醜い争いを繰り返し、仲間に対して罵声を浴びせる。そんな生き物に言葉が必要だとは思わない。ましてや、仲間なんて要らないだろ?」


 小夜が小さく痙攣けいれんしたあと、両腕がだらりと伸びた。


 沙羅の脳裏にいつものカフェの朝がフラッシュバックした。


 コーヒーに氷砂糖を入れる。笑顔の小夜が隣に座る。お互い微笑んで、最初に口にする。そうだ。そうだった。


「おはよう! おはよう、小夜。目を覚まして」

「お前……何で」


 魔女が両手を離し、小夜が大地に転がった。

 沙羅は小夜のもとに掛けた。

 魔女が両手を広げて遮る。

 沙羅はそのまま魔女を抱き締めた。


「ごめんなさい。その昔、人間があなたにどんな言葉を投げかけたのか、分からない。いくら謝っても、許してもらえるような過去じゃない。けれど、今を生きる私たちには、朝の挨拶は必要なの。言葉が必要なの。奪わないで。人間から言葉を奪わないで。あなたに必要な言葉はなに? 傷が少しでも言えるなら、私はあなたに何度でも囁く。おはよう。森の奥深くで一人、目を覚まして寂しかったでしょ?」

「やめろ! 私に言葉を投げかけるな。人間と挨拶など交わしたら、朽ち果てる。耳が爛れる。やめろ」

「おはよう。そして、私たちに大切な何かを気付かせてくれて、ありがとう」


 魔女が叫んだ。


 悲痛な断末魔とともに、魔女は泣いていた。樹海の樹々の間を激しい風が吹き、魔女はそのまま土に還った。


 気が付けば、朝がすぐそこまでやってきていた。


 鳥の声が聞こえる。木の香りが、大地の温もりが傍にあった。


 いつの間にか樹海は、燃える前の元の姿に戻っていた。


 小夜が何事もなかったように、目を擦りながら起き上がった。


「よかった! 無事で……」

 沙羅は小夜に抱き着いた。

「おはよ。で、何で私たちこんな場所にいるんだっけ? 大変。仕事に行かなきゃ」

「まだ朝カフェまでに2時間もあるから大丈夫」

 沙羅は、腕時計を小夜に見せた。

「あっ、本当だ」

 小夜が笑った。


 二人で空を見上げた。木洩れ日が眩しかった。


「何か良く分からないけれど、沙羅。おはよう」

「うん。おはよう」


 きっと今、世界中で朝の挨拶が交わされている。


 おはようのない世界が、こんなにも苦しいって知った。おはようって言わなきゃ、朝が始まらない。人生が前に進まない。


 もう誰ともケンカはしない。挨拶から会話が始まれば、誹謗中傷なんて必要ない。


「もう一回、叫ぼっか。挨拶って、何回しても気持ちいいよね」

「毎日してるでしょ。沙羅、熱でもあるの?」

「いいから、早く!」

「仕方ないなぁ。いくよ。せーの、おはよう!」


 樹々の上で美しくさえずっていたキビタキが、一斉に青空に舞った。


 早く小夜とカフェに行こう。


 今日もスプーン一杯から気持ちの良い朝が始まる。そんな気がした特別な朝だった。

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終焉の魔女〜サラ・モーニング〜 東海林利治 @toshiharu_toukairin

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