第2話 楽しみは薄らぎ、やがて悲しみへと変わる
朝比奈
ほんのさっきまで、自分の部屋の窓を開け、夜風を浴びていた。眠りに就こうとした途端、家から数km離れた樹海が突然、
燃え盛る炎が、夜を夕方まで巻き戻したように見えた。
行かないほうがいい。行っちゃダメだ。頭では分かっているのに、気がつけばエンジンを掛けていた。
沙羅は何かに取り
森に近づくだけで、焦げ臭かった。
周囲で鳴り響く消防車のサイレン。何十台もの消防車両が樹海をぐるりと取り囲んでいた。
消防署員が懸命に放水しても、樹海の呻きは収まらなかった。
「危ないから、離れて!」
署員に促されて、沙羅は樹海の入口を離れた。だが、なぜだかすぐに帰る気にはなれなかった。
沙羅は人気のない道を歩いた。見覚えがない場所なのに、足が勝手に進んだ。
途中、田畑を背にして、燃え盛る森を見上げた。
心臓が止まった――。
樹海の上、満月を背にして黒いボロ布をまとった老婆が浮いていた。一瞬にして、人間ではないと分かった。
老婆と目が合った。
その場から逃げ出したいのに、足が動かない。消防署員たちには見えていないのだろうか。そんなはずはない。老婆の声に合わせて、森から奇妙な声が飛び交う。
怖い。何かがおかしい。誰か助けて。
沙羅の叫びは掠れて、声にならなかった。
老婆は宙から舞い降りて、沙羅の背後から肩に顔を乗せた。土と血の臭いがした。
絶句する沙羅の頬に、老婆の頬が触れた。
「私は魔女だ。人間どもが恐れ、忌み嫌う魔女の生き残りだ。顔が醜いから迫害するのか? 声が汚いから罵声を浴びせるのか? お前たち人間は、同種の仲間すら大切にしない。仲間に心ない言葉を浴びせ、自殺に追い込む。そんな種族が主権を握っている必要があると思うか?」
「分かりません。ですが、私には大切な人がたくさんいます。誰も傷つけたくない」
「嘘をつけ。所詮、口だけだ。私が試してやるよ。小さなものを奪うだけで、人間を崩壊させるのは簡単だ。同種すら大切にできない生き物だからな。今に見てな。お前も他の人間と変わらない。汚い生き物だと自覚するだろう」
魔女は
沙羅は泣いていた。恐怖なのか、悔しさなのか分からなかった。
沙羅は震える足を押さえ付けて、車へと戻った。生きた心地がしなかった。
自宅に戻り、頭から布団を被った。夜が無事に明けて欲しい。今、見てきた全ては幻だ。朝が来れば、何事もなかったように幸せが待っている。
沙羅は眠れぬまま、静かに呼吸を繰り返していた。
――翌朝。
庁舎のすぐ近くのカフェで、沙羅はカプチーノを見つめていた。
始業前の至福の時間。
ここで友達の
沙羅はスプーン1杯分の氷砂糖をすくった。昨夜の恐怖を思い出すだけで、指先が震えた。氷砂糖がこぼれ落ち、不規則に揺れてカプチーノの底に沈んでいった。
小さな違和感を覚えた。
魔女に出会った。何かを奪うと脅されたのに、身体には何の変化もない。やはり、夢だったのか。
沙羅が視線を店内に戻すと、いつの間にか小夜が隣の席に座っていた。
「何、ぼーっとしてんの? ねぇ、ちょっと聞いてよ。昨日の夜、消防車がうるさくて全然眠れなかったの。まぁ、その分、漫画を楽しんだから良いけど」
小夜は席に着くなり、楽しそうに話し始めた。
「分からない。私はぐっすり寝てたから……」
沙羅は甘いカプチーノにゆっくりと口を付けた。
小夜がアイスコーヒーをストローで掻き回す。
「嘘つき。沙羅って嘘を吐く時、必ず頬の辺りがピクピクって動くんだもん。自分で気付いていないでしょ?」
「えっ? 知らなかった! 私にそんな癖があるんだ」
「そうよ。だから早く話して。何があったの? 私たちの間に隠し事は不要でしょ?」
小夜が微笑んだ。
「アイスコーヒー。噴き出さないでね。昨日ね、樹海に行ったんだ。私、そこで魔女に出会ったの」
小夜が案の定、コーヒーを派手に噴き出した。
沙羅はハンカチを取り出し、小夜に渡した。
「魔女って、あの杖を持って、フードを被った、鼻がイボイボの魔女?」
「ううん。本物の魔女は老いていても美しかった。美しい分、恐怖は物語の魔女より、数段上だった」
「さては、熱でもあるのね?」
小夜が額に掌を当ててきた。
沙羅はその手を握って、小夜の膝に戻した。やはり、魔女を信じてもらうなんて無理だ。
「冗談だよ! たまには小夜をからかっただけ」
「それなら、もっと現実味のある冗談にしてよ。魔女なんて、小学生じゃあるまいし」
それから、二人で馬鹿話しを続けた。幸せないつもの朝。
そんな朝がずっと続くはずだった――。
始業のチャイムが鳴った。いつもは気にならないのに、音程が少しずれていて不快に感じた。
職場のみんなの表情がいつもより冴えない。朝礼の最中も全員が暗い顔をしているように見えた。
「みんな! 今日も張り切って仕事しよう」
沙羅は作り笑顔で雰囲気を変えようとした。だが、この日の仕事は案の定、上手く回らなかった。些細なミスで係内は揉め、窓口でも客との口論が続いた。
翌朝になると、ついに親友の小夜とも揉めた。
沙羅がいつもの席にカプチーノを置くと、後から来た小夜に肩を掴まれた。
「そっちは、私の席だってば。いつも沙羅は左側でしょ?」
「そんなのどっちでも良いでしょ」
沙羅は苛立って、カプチーノを横にスライドさせた。なぜか素直になれなかった。
「あっ、態度わる! 朝から何よ。今日はもう帰る」
「どうぞ、ご勝手に」
人生で初めて小夜と
沙羅はカプチーノに口を付けずに、店を後にした。
その日から二人とも、朝カフェをやめた。社会人になってから、一度も欠かさなかった小さな幸せを捨てた。
沙羅は沈んだ気分のまま、ただ自宅と庁舎との往復を無気力に繰り返すだけだった。
あれから魔女には会わない。単に自分の心が荒んでいるだけだったんだと、言い聞かせていた。
そんな日常が数ヶ月も続き、上司と大揉めして仕事から帰宅したある夜の出来事。
テレビをつけると、ニュース番組が世界を取り巻く事態の深刻さを、慌ただしく伝えていた。
ここ最近、雑音が気になってテレビもつけていなかった。
「――おそらく、これは突発的な
司会者のアナウンサーが医者に訊いた。
沙羅はテレビ画面に釘付けになった。
自分と同じく朝からモヤモヤしている人がここにもいた。
「健忘症は、あり得ないでしょう。国民全員が何らかの言語を消失していると考えています。それも何を言い忘れたのか思い出せないのに、忘れた事実だけは確信している。これは新種のウイルスによる感染症かもしれません」
隣に座るジャーナリストが首を激しく横に振った。
「ウイルス? 馬鹿な。機嫌を悪くさせる感染症なんてありますか? これはもっと恐ろしい何かだ。単語を失った感覚すら、本当は錯覚かもしれない。脳の萎縮、あるいは洗脳的な何かか」
ゲストの弁護士が笑った。
「何かなんて、実に抽象的な表現だね。それじゃあ、特番の意味がない。現段階では別に国民の生活に支障はないでしょ? 誰か死んでる訳じゃないんだから。医者もジャーナリストも騒ぎすぎですよ。言葉の一つや二つ、思い出せなくてもどうってことないでしょ」
朝から続くモヤモヤの原因が特定できずに、番組内はひどく荒れていた。
大学の教授が両手をテーブルに叩き付けた。
「我々に必要なコミュニケーションツールの一部を欠いてるんだ。言葉を生業とする弁護士として、今のはあるまじき発言だ」
弁護士が大学教授に指を突き付けた。
「暴力的なあなたの行動こそが、問題なんだよ。人の揚げ足ばかりを取って、誹謗中傷ばかりしていれば、日本はやがて沈む。これは感情を失いつつある現代社会の問題なんだ」
言い争いは続き、司会者が放送を止めるように画面に向かって両手を激しく振っていた。
沙羅には、司会者が自分の存在に気付いてくれとアピールしている、滑稽な姿に見えた。
「あっ……この姿、どこかで」
カフェの待ち合わせで、小夜が沙羅に気づくといつも両手を振ってくれていた。思い出した。
両手を振り返し、二人で何かを呟く。
何だろう。思い出せそうで、思い出せない。沙羅はテレビの電源を切った。
力なく落下したリモコンが、リビングの床を転がった。
「挨拶だ! 私たちが失ったのは朝の挨拶。間違いない。なんであんなに有識者が揃って、気がつかないのよ!」
沙羅はすぐに小夜に電話した。
小夜は沙羅の電話を待っていたかのように、すぐに出た。
「何よ。ケンカの続きでもしたいの?」
「違うって! 挨拶だよ、挨拶。私たちが失ったのは朝の挨拶なの」
「はぁ? 挨拶って、何それ。あっ、でも言われてみれば、朝何か忘れてる気がしてた。挨拶って響き、何か懐かしい感じ。今、テレビ見てる? みんなウイルスだとか思考操作だとか、おかしな議論しちゃってる」
小夜の声が柔らかくなったのを感じた。
「魔女だ……。魔女が朝の挨拶を奪ったんだ」
「もう、沙羅。またそんな冗談を」
「この目で見たの! あれは幻なんかじゃなかった。小夜が信じないなら、一人で行くから」
「行くって、こんな夜更けに焼け野原になった樹海に?」
「もちろん。この目で確かめてくる」
「分かったよ。言い出したら聞かないんだから。私もついて行くから拾って。ここのところケンカばっかりで、まともに沙羅と話していなかったから」
沙羅は電話を切ると、急いで車を走らせた。
赤く燃えた樹海。真っ黒な炭の森に成り下がった、歴史のある地元の森。
沙羅はアクセルを踏み込んだ。
頼りないヘッドライトの光が、車道の先に沙羅の不安と少しの希望を映し出していた。
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