第9話 自覚

 両手で顔を覆って縮こまる。何もかもが嫌になって、鬱憤を全て晴らすかのように手の中で泣きわめいた。

 もう、もう、こんな人知るもんか。今まで大人しく此処に留まっていたけれど、たとえどんな危険があろうとも絶対に逃げ出してやるんだから。

 心の中で物騒な決意を固めていると、硬直が解けたらしいロードリックさんの声がぽつりと降ってきた。

「……恐れられていると思っていました」

 固く閉ざしていた手を開き、顔を上げて彼の顔を見ると、すっかり動揺して普段の落ち着きなど失っていた。

泣く私をどうにか宥めようと考えているのか、慌てたように視線をさ迷わせる様子はまるで普通の青年のようである。

「すみません。人間ではないと知って、それでも傍にいてくれるなどと思っていなかったのです」

「言ったのは貴方じゃないですか!」

「ええ、ええ。本当です、私は酷い男でした」

 あやす様に言われ腹が立つ。涙目のまま睨みつけていると、ロードリックさんが体を近づけて私に聞いた。

「これが私の本当の姿では無いのですよ?」

「知っています」

 まだ信じられないような、そんな顔をして私を見ている。金の髪も、海のような青い目も、彫刻のような輪郭も何処をとっても美しい。

 しかしその顔を見ている内に、粘土を捏ねる様に少しずつ一部が変わっていく。

みるみるうちに耳の先端は尖り、目は金色に。そしてその額には小さな角が鎮座して、彼の纏う光は月の様に強まっていた。

 誰が見ても人ではない形相である。

 けれどそれだけだった。鼻もあれば、目もあって口もある。それだけの変化でしかない。

「……もっと毛とか、鱗があったりするのかと」

 正直、拍子抜けした。初めて見るロードリックさんの変身にいつの間にか涙は止まって、過剰な反応を見せていた彼が何だか可笑しくなってくる。

 堪えきれず口角を上げて笑みを作ると、彼の頬に淡い朱色が色づいたような気がした。

「顔立ちはあまり変えてないんですね」

 好奇心を抑えきれず、その小さな角に手を伸ばしてみる。彼はそれを振り払うことなく、好きにさせてくれた。

 固い。本当に角だ。

「直接、諜報活動をしない立場ですから」

 ロードリックさんは恥ずかしそうに睫毛を震わせる。確かに人ではない見た目ではあるが、彼の美しさは何一つ損なっていなかった。

 いや、寧ろその金の目が神秘的でさえある。教会で人前に現れたら、天の使いだと勘違いする人も出るに違いない。

 本心でそう思うからこそ、彼が私が恐れると思っていたのを不思議に思う。

「私を助けてくれたのは、貴方じゃないですか。例え種族が違おうと、言葉を交わし、助けてくれた存在をどうして恐れる必要があるんでしょう」

 彼は一瞬言葉を失い、目を細めて眩しいような、懐かしむような視線を私に送った。

「……そのように言ってくれる人間と出会ったのは四百年ぶりです」

 そしてふ、と優しく微笑んで私の濡れた頬を親指で拭う。

「私は本当に言葉足らずだったようです。勝手な思い込みで随分傷つけてしまいました」

 ロードリックさんは眉を寄せ、罪悪感に打ちのめされた顔をする。私の手を握り、頭を深く下げて言った。

「どうか許してください。そして叶うなら、もう一度やり直す機会を私に」

「……はい」

 ああ、この人はやはり何処までも優しい。そんなつもりじゃなかったと、全てを否定する事だって出来るのに。

 私の気持ちに寄り添ってくれる方法を選んでくれた。それが違い過ぎる時の流れによる気まぐれからだったとしても、十分満たされる心遣いだった。

 顔を上げたロードリックさんと視線を合わせれば、心の距離が縮まった気がした。照れて直ぐに視線を逸らしてしまったが、彼に掴まれた手が外れる事は無かった。

「あ、それと」

 一つ、訂正をしなければならない事を思い出した。

「池には足を滑らせて落ちたんです」

 彼の顔を窺うと、驚いた顔をした後に自分の勘違いに気付いたようで額に手を付けて俯いた。その耳は若干赤く色づいている。

「安心しました。とても」

 そうやって素直に言ってくれるロードリックさんだからこそ、好ましい。

「何か珍しい物でも気を取られていたんですか?」

 少し赤みの残る顔で尋ねてきた彼に、机の上に置いた編みかけの手袋を指さす。

「毛糸玉を追っていたんです」

 彼は立ち上がり、机の上の明らかに男物の手袋に触れる。

「これは私に、ですか?」

「はい。……でも、軍には既定の手袋がありますから、ただの私の気休めです」

「いえ、使います。私用の時であれば、誰も口を出さないでしょう」

 勘違いでなければ、少し嬉しそうに見えた。使われないつもりで作るより、ずっとその方がやりがいがある。

「私に何か、ロードリックさんの為に出来る事はありますか?」

 そう尋ねた私に、ロードリックさんは優しい笑みを浮かべてさり気なく言ってくれた。

「ロードリック。そう呼んでください、クラリス」

 本当にこの人は、私の事を下に見ない。唯々同じ高さで見てくれるのを、驚きと共に改めて認識した。

 恋をするなという方が、無理な話だ。

 そんな言葉がふわりと胸に浮かんだ。

 ……恋?

落とされるように自覚する。

 

私、彼に恋をしている!?

 

 思い返せば、ただの恩人にしては会えないのが妙に寂しかった。

喫茶店で光る謎が無かったとしたら、その凛々しい佇まいと、静かな優しさに目を奪われる事が本当に無かったと言い切れるだろうか。

 自覚した途端に胸に切なさと淡い熱が宿って、どうすればいいのか分からなくなる。

 これが恋。自分の手に余るような、この熱が。

 目の前の人に触れてみたいと思う自分がいた。どういう体温を宿していて、どんな柔らかさをしているのか。指で触って、確かめてみたい。

 そんな浅ましい衝動が突然ぐるぐると胸を渦巻き、息苦しくなった。

 私の内心にも気づかず、ロードリックは腕を組んで私の為に何かを考えてくれている。

熱に浮ついて暴走しそうになる衝動を、冷静にこれ以上恩人に迷惑をかけるつもりかと理性で押さえつけていく。

 恋。恋。ああ、もう二度と恋に愚かになる人を笑ったりしない。

 気づいてしまえば、頭はその人で埋め尽くされる。こんな恐ろしい感情が私の中に会ったなんて。

 荒れ狂う内心を表に出さないようにする事に死力を尽くした結果、能面のような顔になってしまう。

 ロードリックは少し様子のおかしい私を心配しつつ、手を差し伸べて聞いた。

「クラリス、立てますか」

「……はい。何処に行くんですか?」

 出された手にそっと自分の手を重ねれば、伝わる熱に何かが胸の中で弾けそうになってしまう。それを堪えて立ち上がり、前を歩き出した彼の背中を追った。

「一つ頼み事があります」

 そう言われてしまえば、どんな難題でも請け負いたくなった。

 妙に張り切ってしまい、自分がまるで違う人間になったかのようで、戸惑ったままロードリックに連れられて行く。

 ついた先は私が入室を禁じられていた、寝室でも書斎でもない謎の三番目の部屋である。

 彼がポケットから出した鍵を差し込んで扉を開き、中に入るとその部屋の中心に何かが置かれているのが目に入った。というより、それ以外の物が何もない。

 ロードリックは再び部屋を閉ざし、二人の空間にすると私を部屋の中心へと導いていく。

 それは台座と一体化する形の、小さな金属製の守護聖人像だった。十センチほどの、私でも片手で難なく掴めそうな大きさである。

それが装飾された台の上に置かれ、腰の高さに安置されていた。

「これは……?」

「聖エトムント。ヤクプ地方では一般的に祀られている聖人ですよ」

 言われてそれが、貧者を救うために全てを投げうったと言われている聖人だと思い当たった。静かに佇む顔は、子を見守る父のような優しさが表れている。

 人間ではないのに、国教であるミハル教を信仰しているのだろうか。聖エトムントを祀るのは信者以外にはいないだろう。

「天来衆でも、人間と同じ宗教を信仰されているのですか?」

「いえ。けれど私にとって、この像そのものが大切なのです」

 ロードリックを見上げてみると、どこか寂し気な表情をしてその像を眺めていた。

「これは、形見です」

「形見?」

「はい。昔お世話になった恩人が大切にしていた像です。今までは私が管理をしていましたが、これからはクラリスに任せたいと思います」

 今まで閉ざしていた部屋と、ロードリックが自ずから管理していたという事実にこの像がどれほど大事にされてきたのかを悟る。

 それを任せる事で、妻としての役割を与えてくれようとしているのだ。

 私は神に宣誓するような神聖な気持ちで頷いた。

「必ず。大事に管理します」

 真剣な表情の私を見て、ロードリックは柔らかく笑った。

「お願いします」

 やっぱり、好きだなぁ。

 額に角が生えていても、何にも気にならなかった。ついつい見とれていると、手の中にこの部屋の鍵が渡された。

 とても小さく素朴な鍵だったが、私には何よりも大切な物である。

 それをぎゅっと握りしめて重みを堪能していると、頭を撫でられた感触がした。

 驚いて背の高いロードリックを見上げると、少し視線をさ迷わせつつ私の様子を窺っている。

「その……、私なりに、貴女に向き合おうと。……嫌でしたか?」

 当然嫌な気持ちは全く無かったので慌てて首を横に振ると、ロードリックはほっとした様子で顔を綻ばせる。

「時間はあります。これからお互いの事をゆっくり知っていきましょう」

「……はい」

 私は彼の慈しむような優しい目が嬉しくて、心からの笑みを浮かべる。

 この日、私達は夫婦として最初の一歩を踏み出したのだった。



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