第8話 危機


 出した手紙の返事を待つ。何日も、何日も。

 両親の手紙の返事が来ても、まだロードリックさんの返事は来ない。焦れて、もう一度手紙を書いてポーラさんに渡してみた。

 それも返ってこなくて、何枚も意地になって渡した。けれど、何枚渡しても手紙の返事が返ってくる事は無かった。

 一人自室の椅子に座り、手慰みに毛糸で手袋を編んでいると自分が老人になったような気がしてくる。

 やる事の無さでは、引退した老人と同じである事に思い当たり、自嘲の笑みが零れた。

 手袋は男性の大きさで作っているものの、自分の夫である人は軍人なので軍の指定の物ばかり身に着けている。だからこれが使われる機会が無いのを知りつつも、他に誰の為に作ろうとも思えなかった。

 鬱々とした気持ちが晴れる事はなく、気分を切り替えようと手を止めて机の上に手袋を置く。

 窓に近づいて開けてみると冷え冷えとした空気が顔を撫で、その痛いほどの感触で自分が生きている事の実感を得た。

 このまま、此処で枯れるように死んでいくのだろうか。

 背筋を悪寒が走り、両手で自分の体を抱きしめる。けれど体の芯からの底冷えはそんなものでは誤魔化されなかった。

 何もかも投げ出して、子供の様に喚きたい。この閉塞感に息が詰まる。

 私は一体、どういう人だっただろうか。明るくて、誰かと世間話をして、忙しなかった私はもういない。

 此処に居るのは、只のその抜け殻でしかなかった。

 ああ、こんな事ならいっそ。

 最悪の事さえ頭を過り、自分の惨めさが哀れで泣けてくる。

 頬を伝った涙の行方を追って下を見てみると、雪が積もり始めた庭が見えた。

「……あ、」

 窓際に置いていた筈の毛糸玉が一つ、窓の外の下に落ちている。白く染まり始めた庭に、紺の毛糸玉の色は浮くような鮮やかさだ。

 拾いに行かないと。

 風に吹かれて転がっていくのを見つけ、慌てて涙の跡を拭って自室の外へと飛び出した。

 大人しく部屋にいる分には、誰も私の元へと来ない。

 呼び出しのベルもあるが、いつまでたっても仲良くなれないポーラさんを呼びつけるのはただ邪魔をしているようで、最近では使う事もめっきり減ってしまっていた。

 誰かを呼ぶ発想など無く、一人で庭に出て落ちていた筈の毛糸玉を探す。

「あった」

 既に窓の下から大分離れた所に転がってしまっている。急いで回収しなければ。

 小走りで毛糸玉の元に駆けていき、もう少しで捕まえられそうな所で強風が吹く。

 思わず片目を閉じ、狭まった視界で更に離れて行く毛糸玉を慌てて取ろうとして……盛大に、私は池の中へと落ちてしまった。

「わ!」

 凍りそうな冷たさの水が、容赦なく全身を包んでいく。

 昔から水が苦手で泳ぎの一つも上手く出来なかった。水に入った途端、体が動かなくなるのだ。そしてこの時も、私のこの弱点は容赦なく体を襲った。

 硬直しそうになる体で、地面を探すがいくら動かしても底に当たらない。

 足が、つかない!

 藻掻くが口から水が入ってしまって、息が出来なくなる。

 誰か助けて!!

 手足をばたつかせて水音を立てる。

 体が回転し、もうどちらが上なのかも分からない。焦る気持ちとは裏腹に、周囲に人が寄ってくる気配は感じられない。

 誰か、誰か!!

 呼吸はみるみるうちに出来なくなって、肺に入っていた全ての空気が水に奪われた。

 こんな所で、自分は死ぬの?

 最後はむしろ静かなぐらいで……私の意識は暗転した。



 ゆっくりと目を開くと、私は自室のベッドの上に寝かされていた。体は怠く、酷く疲れているようだった。

 確か池に落ちて死を覚悟したのが最後の記憶だった筈だ。此処は天国であるようには見えない。

「生きてる?」

「……ええ」

 聞こえた声に顔を横に向けると、ベッドの横に置かれた椅子に長い足を組んで座るロードリックさんの姿があった。

 薄暗がりに浮かぶ彼の顔は相変わらず美しいが、罪悪感に苛まされているかのような陰鬱な表情を浮かべている。

 久しぶりに見た彼の姿が懐かしく、張り詰めっぱなしだった気が漸く緩められた気がした。

「何故、こんな事を?」

 もしかして、自殺しようとしたと思われているのかしら。

 ロードリックさんが暗い表情である理由が分かった。直ぐに否定すべきなのだろうが、今の今まで放置されていた怒りがむくむくと湧いて訂正する気になれない。実際、ちらりとその思いが過りはしたのだ。

 恩人にご迷惑をおかけしないように。そんな殊勝な思いは、長い時間の内にすっかり風化してしまったらしい。

 私は拗ねたような声を出して、落ち込んで見えるロードリックさんにとうとう言ってしまった。

「……この家で、居場所を見つけようと思ってました。でも天来衆の皆さんは、人間を決して内側には入れてくれないんです。何も……何もさせてくれない。私はまるで、あれと同じです」

 そう言って唯一の友である鉢植えを指さす。根を張る事を許されず、ただ生きているだけの存在。

 ロードリックさんはそれを見て、困った顔をして弁明した。

「報告では、貴女は毎日満足しているように見えると」

 一体何処の誰の報告だ。

いつも薄い笑みを浮かべながら控えているメイドを思い出し、また少し怒りが増す。

上半身を起き上がらせて責める視線を向ければ、戸惑う美しい青年の顔が間近にあった。

「手紙を、貴方に出しました。何通も何通も! それなのにロードリックさんは返事一つくれません。お忙しいのは分かります。でも、少しぐらい気にかけてはいただけませんか? だって私は」

 長い間せき止められていた感情が溢れて、零れそうになる涙をぐっとのみ込む。

 

「妻、なんでしょう?」


 せめて、それだけは否定して欲しくなかった。それだけが私がこの場所にいられる唯一の立ち位置だった。お飾りでも、仮初でも、言葉だけだったとしても。

 ロードリックさんが私にそれを望んだのは事実なのだから。

 私の言葉を聞いたロードリックさんは目を見開き、茫然としてこちらを見た。まるで幼子のように驚いて私を見ている。

「本当に、妻として私の元に?」

 思いもよらない事だったらしいのがひしひしと伝わってきてしまい、涙をこれ以上堪えておくことは無理だった。

 酷過ぎではないか。

こんな扱い受けるぐらいなら、いっそあの時手を差し伸べてくれなければ良かったのにとさえ思った。

 適当な事を言って、放置して。犬猫の方がまだましな扱いを受けている。

 最早涙は濁流のようで、女子として見るに堪えない有様になっているのも構ってやれはしない。

「ひ、ひどいです。さいてーです。いったのは、ろーどりっくさんのほうなのに!」

 子供の様に鼻声になって、泣きじゃくりながら夫ですら無かった男を責め立てる。

 ロードリックさんはそんな悲惨な状況の私を唯々食い入るように見つめ、硬直してしまっていた。

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