第29話 流れること水の如し

 ゆらをあんな姿にした怨敵への憎悪や復讐の思いはなかった。それはダメだと三度の遺言があったから。それに、こうなってしまったのは自分のせいだ。人を不安にさせてしまうやり方がダメだったんだ。あらゆる可能性を考慮できていなかった。

 前を向き、久遠を見やる。がっちりと手に握り締めていた勝利は跡形もなく握り潰してしまった。その欠片を集め再び作り直さなければならない。

「残念だったね、仁科澪。アンタがやろうとしていたことは筒抜けになった。アタシにはもう輝気以外のあらゆる攻撃も効かない! この世界の全ての縛りから解放された! 何にも支配されない、アタシこそが真なる神だ!」

 無関心に思考を巡らせていた俺は最後のフレーズに眉尻を上げた。

「神……か。……お前が神なわけがない。神はな、もっと強くて、もっと黒くて、もっとえげつないんだ」

 深く吸った呼吸からハッキリと放たれる言葉に久遠は気後れする。

「まるで神を知ってるみたいな口ぶりだね」

「ああ、知ってるさ」

 返答の終わり、スッと水のように透き通った表情に久遠はさらに怖気を覚える。

「久遠、お前の負けだ」

「……なにを言っている……」

「お前はこの世の全てから自分を解放してしまったんだろ? それはつまり、この世にあるすべてのものに干渉できなくなったってことだ。お前はもう俺に触れることすらできないよ」

 事実を淡々と述べるように放たれた言葉に久遠の動揺は頂点に達した。

 言葉はハッタリ。真実かどうかは分からない。真実である必要はない。それはただ確かめるための時間稼ぎ。

 繰り返す。

「久遠、お前の負けだ。この瞬間に!」

 降り積もる雪のように真白の光が久遠を包む。

 ゆらの再生が久遠に効かないのを見て俺も自分の輝気も効かないと判断した。その考えは当たり前だった。そう、これまでと同じ星域ならば。

 星域以下の領域は光の量や質の次元の違いで分けられている。しかし、至った者がこれまでに一人しかいなかった神域は違った。

 自分の大切な者を喪うという条件で至る神域は他の領域とは輝気の在り方自体が異なった。神域に立つ者の輝気は神にも届き得る。その輝気は他のどんな輝気よりも優先される。

 神域にのみ優先度があると本能的に直感した。星域以下の領域からの輝気は届かない。その予想とも確信とも言えない考えが唐突に浮かんだ。いや、根拠はゆらが俺を再生できなかったことだ。先程の経験則だが物理攻撃は通じるが概念系の技は効かなくなっている。

 それにもし本当にそうなら解放されている久遠へ自分の輝気を上書きできるかもしれない。

 口上で作り出した時間は技を久遠にかけるための時間だった。

行雲流水こううんりゅうすい】──言葉の意味は『自然の成り行きに身を任せること』。その意を俺は『あるがまま』と解釈した。対象をあるがままの状態に戻す、再生に似た輝気。

 感覚的に久遠は気付く。

「な!? 貴様なにをしたァッ!」

 確かに久遠がただの人間へと戻ったのを感じる。手応えがある。輝気が効かない久遠に、俺は輝気をかけられた! 両者がそれを理解した瞬間、同時に動く。

 自身が解放から解放されたと悟った久遠は再び自分を解放しようとする。だが、できない。それこそ、優先度によるもの。俺の狙い。予想は当たっていた。かからない解放に久遠は混乱する。自分は今、ただの人間であるという事実が、彼女の他者とは違うというプライドを揺らがせる。

 以前ゆらと二人で久遠を追い詰めたときと同じように右掌に水の大玉が渦巻かせ放つ。

「【花水輝】!」

 貫通力をあえてなくし、鳩尾へ打撃として放った一撃のダメージは揺らいた久遠の精神を瓦解させるほどの衝撃を与え意識を刈り取った。

「終輝【水に帰す《フロース》・有意識コンシャス】」

 倒れる久遠をゆらと同じように意識ある水に変えた。久遠は水になり光を出せず輝気を使えない。そうでなくても神域に輝気は上書きできないため、もう自力でこの状態から解放され元に戻ることはできない。拘束としては十分過ぎる。

「久遠、お前も一人の人間だってことを忘れるな。俺たちはどんなに現状から進化しようと、神なんかにはなれないんだよ」

 彼女にそう投げかけて意識を刈り取ってからゆらの水へと踵を返した。


「光は……十分だな。もし戻せなくても俺が戻すから安心してやってくれ。スリーカウントで解くぞ。自己再生の準備を。行くぞ、3・2・1」

 水化を解除して傷だらけのゆらの姿へと戻す。その痛々しい姿は再生によりいつものゆらへと戻った。

「よかった。成功だ」

 喜びの声を上げる俺と対称的にゆらは仰向けで横たわったまま双眸から涙を滝のように溢れさせて何度も何度も謝った。

「ごめん、ごめんね澪。私、支えたいなんて言っておいて……したのは邪魔だけ。足手まといで……ごめん。ごめん……」

「そんなことない!」

 その否定はかつて告白を受けたとき、彼女が彼にしたように。

 俺が人の言葉を明確に否定したのはこれが初めてだった。これまではできなかった。しかし今の俺は──。

「俺はゆらにちゃんと支えられてたよ。俺に好きだと言ってくれたときも、あの屋上で黒と対峙したきも、久遠と初めて戦ったときも、八重が裏切ったときも、三度が死んだときも、俺が立っていられたのは全部ゆらが支えてくれたからだ。だから俺は意味を見つけることができた。ゆらのおかげなんだ」

 ゆらの左手首を掴んで立ち上がらせる。そうしたあと、今度は手を握った。

「ずっと支えてくれて、好きでいてくれてありがとう。

 ……俺もゆらが好きだ」

「私……私でいいのかなぁ……」

 ゆらを抱き寄せる。

「俺たちは似てるんだと思う。お互いに自信がない部分を相手が認めてくれる。弱いところを支え認め合う。そういう関係がいい。そういう関係でいたい。これから、ずっと……支えてくれ。俺はゆらがいい」


 どれほど抱きしめられていたか分からない。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。澪の胸に顔をうずめて泣いていた。そんな状態からやっと泣き止んで顔をあげたときだった。

 ──ドゴゴゴゴゴゴ 、 、 、 、

 心の奥底から震わされるような重く冷たい波動の氷青色の光が放たれた。

 光源は今いる地点よりさらに地下、おそらく最下層。

「弥生さんは負けちゃったか……。行って、澪。あかりが待ってる。久遠は私が見張っておくから」

 彼らは決着をつけなければならない。警察学校時代からいがみ合い、認め合い、共に成長してきた彼らは。全く正反対だった二人が戦うときが来たんだ。作戦とか、仕事とか、やるべきこととかはもう関係ない。

「ああ、行ってくる」

 私から離れ、背を向けて駆けていくその背中にはそれまでの自信のなさからくる暗い濁りはもうない。澄んだ清水のように流れていく彼の勝利を願ってその背中を見送った。

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