第15話 アイボリー・アイラブユー
澪に抱えられて最高速度で飛んでいる。抱える手にギュッと力を強めて抱きついてみる。私の身体は震えている。それは高所を飛んでいる恐怖などというチャチなもんじゃない。
「あれが漆黒……黒くて黒くて……怖かった」
「でも、ゆらがいてくれなかったら、俺は……どうなっていたかわからなかったよ」
「アイツを見てると澪が遠くへ行っちゃうような気がして思わず、ね」
思い返せば前にもそんなことを言った気がする。あれはそう、警察学校で襲撃があった朝だった。忘れもできぬあの朝だ。
◇ ◇ ◇ ◇
早朝、私が休む部屋をノックする音で目を覚ました。
「仁科です」という澪の声に軽くはだけた寝間着を整えて出る。
「どうしたの?」
「なんか隣の林の方に怪しい人影がいるって教官たちが騒いでます」
「アコニトムかもしれないってことね。三度にはここの防衛を、私たち二人で行こう」
二人で歩く林の中に光の波動は感じられない。
「光も感じないし、誰もいないんじゃないですか?」
「うん、そうみたいだね」
自分と同じ考えを口にする澪に生返事をしつつ、辺りを見回しながら先を歩く彼の後ろ姿に目を引かれていた。
自分の視線には恋慕の感情が含まれていることは自覚している。
私が澪にそれを懐いたのは必然だった。
あらゆるものをあるべき元の姿へと戻す再生の力を持つ私にとって、あるべき元の姿を持たない流動する水のような澪は自分の〝領域外の人間〟として魅力的だったのだと分析している。それを自覚してから、普段はハツラツとしているのに自分が生きる意味はないと憂う彼のギャップにもどんどん惹かれていった。
澪と出会った時のことはよく覚えている。百々香による連続斬殺事件の最後の最後。百々香を捕らえ、再生のために駆けつけた現場に彼はいた。
傷ついた生守を抱きかかえる彼は悲痛な表情でこちらを見てきた。生守が彼をかばったのだと、腕がなく斬創まみれの生守を見て察した。
傷を消し、腕を再生したところで彼が呟く。
「すごい……」
「そんな完璧なものじゃないよ」
無意識に自分の非力を噛み締めながら返していた。
【再生】は万能ではない。作られた傷を消すことはできるが、傷ができたという事実は現在では再生し消すことはできない。だからこの時の腕が斬り落とされた後遺症で生守は一線から退くことになった。
それでも事件の度、みな同じように言う。『再生してもらえるから大丈夫』と。それが歯がゆかった。
そんな思いを抱えながら警察学校で弥生の補佐として後輩三人の指導をするある日、二人のときに澪が尋ねてきた。
「九条さんはなんでLOSに入ったんです?」
答えられなかった。私が警察学校に入ったときもそうだった。年齢にして二歳下の後輩たちはしっかりした意志を持ってここに来た。けれど、私は適性が出たからここにいるだけだ。
──初めの理由がしゃんとしてない私は誰かを本当に助けられるのだろうか。
その疑念から堰を切ったように自分の非力さだとか、真に人を救えない悲しみだとかをあらいざらい吐き出してしまった。そんな私に澪はにかっと笑ってからこう言った。
「『誰かを助けたい』その優しい想いが九条さんの生きる意味なんですね」
その言葉は深い深い心のヘドロの水底から私を曇りのない澄んだ水面へとすくいあげるような言葉だった。その言葉は私の心を軽くするとともに、彼への興味を植え付けた。
それからよく話すようになって、彼を知っていった。
そして、私は──恋に落ちた。
「私──澪のことが好き」
ふと溢れた。自分が恋に落ちるまでを回顧したせいか、はたまた三度に惹かれていく瑛を見たせいか、つい口を突いて出た告白にハッと我に返る。
澪は真面目な顔で振り返り見つめてくる。その真摯な視線に目を合わせることができず、目を逸らし、「ごめん、こんなときに」と澪の横を過ぎて前に出ようとする。真横に差し掛かった私の左手首を澪が掴んだ。その顔は困ったようにはにかんでから色を失った。
「俺は意味のない人間だ。こんな俺を好きになっても意味ないですよ」
「そんなことない!」
反射的に叫んでいた。自分を否定する彼の発言を即座に否定していた。好きな人を否定することは好きな人自身でも許せないってホントなんだなあ、とか考えていたと思う。
「澪は生きる意味なんてないって言うけど私にとっての澪は意味のある人なの。私が好きっていう意味が!」
いい終えて恥ずかしくなり、俯く。顔が熱く耳まで赤くなっているのが分かる。
「俺は誰かに好きになってもらえるような人間じゃないと思ってた。でも好きって言ってもらえて正直……めちゃくちゃ安心しました」
澪の瞳は色を取り戻し、そこから雫が落ちる。そしてそれは二つ三つと続き、やがて滝のように溢れ出した。『安心した』という言葉とその涙に澪がどれほど思い詰めていたのかを理解した。
『生きる意味』なんてものは普通に生きていれば考えさえしない。それを考えて、考えて、考え抜いた結論が『そんなものはない』だった彼がどれほどの絶望の中で生きてきたのか想像することもできない。今、彼は意味を探している。見つかるかもわからない壮絶な不安の中での手探りだ。この怖さは途方もない。
私は澪をそっと抱きしめる。それは赤子をあやすように。優しく。優しく。
「私は澪が意味を見つける手助けがしたい。ほっといたら遠くに行っちゃいそうなあなたを繋ぎ止められるように。澪を私に支えさせて」
泣き止んだ澪は目を腫らしながら、やっと言葉を返してくる。
「今はまだ九条さんの気持ちには応えられない。自分に意味……自信がないから。でもきっと意味を見つける。だから返事はそのときまで待ってください」
「わかった。でもただ待ちはしない。意味を見つける手助けはする。私がずっと支えている。ひとりじゃないよ。それと、敬語、外して、あと下の名前で呼ぶところから始めてみよう!」
「それとこれとは関係なくないですか!? ただ自分がそうしてほしいだけじゃ……」
「うるさい! いいから呼べ! 上司命令だぞぅ! この泣き虫め!」
「それを今言うのは反則!」
そんなやりとりで笑い合う。私は澪がこうして笑い会える相手でありたい。そういよう。
掴まれたままだった左手で澪の手を握り返し、彼を導く。
「さ、三度のところに戻ろっか」
◇ ◇ ◇ ◇
返事はまだもらってない。でも、それでいい。こうやって、澪のそばにいて彼を支えられるのなら。どれだけ先延ばされたって構わない。
「見えてきた」
澪の言葉に視線を前方にやると、さっきまでいた久遠邸が視認できた。さあ、気を引き締めなきゃ。ここからが本番だ。
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