第5話


 急いで部屋を飛び出して両親に葵のことを伝えた。父は自分の鞄から錠剤を二つ取り出して、ベッドの上で小さく震える妹にそれを飲ませた。


「とりあえず解熱剤だ。これで少し良くなるといいんだけど…」


 完全な治療は病院に行かないと受けさせてもらえなかった。耐性ウイルスの発生を未然に防ぐために。





 次の日。

 私たち家族は体調がどんどん酷くなっていく妹と共に宇宙飛行機の発着場まで来ていた。

 他のツアー客が乗り込み、私たちも乗り込もうと足を進めた時、


「お客様は少々お待ちください」


 私たち家族だけが添乗前に乗組員に止められた。


「なんなんですか? 娘を早く…!」

「研究員の吉原夫妻ですね? 吉原さんの娘さん、BT-O97710陽性ですよね? 火星のツアー企画本部から報せがありました。検査キットで陽性が出た、と」


 私たち以外の乗客が乗り込んだ後、飛行機に乗るための階段の前で男は淡々と話す。


「なんでそれを…?」

「あなた方が所属する研究機構からの連絡です。同時に日本政府からも要請が」


「〝絶対にウイルスを火星に持ち込むな〟と」


「ま、待ってください」


 今まで黙って聞いていたが、乗組員の言うことに甚だ納得がいかなかった私は声を荒げた。高校一年生、まだ子どもの私に、乗組員の男は冷たい視線を向けた。


「妹をどうしろというんですか? ここに置いていけと?」

「はい、その通りです」

「…な、何を言ってるのか分かってるんですか? 火星に戻らないと、戻らないと…妹は治療することができないんですよ? このままこの星に一人残していけと? おかしいんじゃないですか!?」

「…では、得体の知れないウイルスを火星に持ち込んで、火星中を危険に晒しても良いのですね? 妹さんは予防接種を一度受けたにも関わらずこうして感染症を発症してしまった。これは前代未聞、人類が火星に移住してから初めての事例です。火星にはまだ予防接種を受けられない子どもたちや免疫力の弱ってしまったお年寄りがたくさんいます。その方たちがどうなっても良いと?」

「どうなっても良いなんて言ってない…!」

「火星まではこの宇宙飛行機で半年はかかります。その間、この密閉された空間でウイルスは蔓延するでしょう」

「っ…」

「妹さんをこの飛行機に乗せることは出来ません」


「…いいよ、お姉ちゃん」

「葵っ…!」

「私、地球好きだから…ここにいる」


 乾いた咳をしながら、葵は柔らかく笑った。


「じゃあ、ママもパパも残るわ」


 そう言って、母が妹を抱きしめようとした時だった。何処から出てきたのか分からない乗組員たちが父と母を取り押さえたのだ。数人の乗組員たちは大袈裟なマスクを着けて妹をまるで汚物を見るような目で見つめた。


「ちょっと、何をするんだ!」

「離しなさい!」

「あなたたちは大切な研究員です。火星へお戻りください。」


「…お母さん、お父さん」

「…私は、葵とここに残るね」





 ───父と母を乗せた宇宙飛行機は草原から旅立って行った。

 あれは高校一年生の時。

 別れる間際に父からもらった解熱剤や、母が研究施設の同僚から特別に許可をもらって送ってくれた治療薬のおかげで、少しだけだけれど、妹は元気を取り戻した。でも、既に時は遅く、ウイルスは妹の神経に完全に感染していた。


 元々泊まっていたコテージを家として使っていた。そのベッドの上で、妹の容態が急変した時、何もできない自分に嫌気がさした。代わりに私が死にたいとさえ思った。


「…お姉ちゃん?」


 額から、背中から、握った手から、滲み溢れる汗を拭き続けていると、ずっと目を瞑ったままだった妹が目を開け、私を見て、にこりと、笑った。


「………お姉ちゃん、ありがとう」

「っ…」

「ずっと…ずっと、あおいと一緒にいてくれて、ありがとう」

「うん…うん…っ」

「お姉ちゃんの写真、綺麗で、大好き。また、あおいにお写真見せてね」


「優しいお姉ちゃん、大好き、だよ」


 もういいから、無理しないで。…そう、言葉にすると、妹はなにか安心したような顔になって、ゆっくりと目を瞑り、息を引き取った。

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