第396話 【外伝5】出国
最近、彼氏と父の仲が良い。
きっと良いことなのだろうが、正直ちょっとどうかと思うところもある。
彼がうちに来ると知ると、その瞬間から、父が若干ソワソワしはじめる。
3日前から、リビングのテーブルの端に積み上がった新聞を片付け始めたり、部屋やトイレの掃除をしたり、玄関を掃除したりする。
そんな父を見て母は喜んでおり、毎週来てもらいたいなどと言っている。
彼はうちに来ると、一緒に昼食か夕食を食べて行く。
父と、何か意味ありげな言葉を交わしては、二人で顔を見合わせて、ニヤリと笑ったりしている。
正直どうかと思う。
私と会いたいだけなら、別に家に来ずとも、一緒に出かければ済むだけの話だし、もう少し頻度を落としても良いのではないかと思う。
スマートフォンで、写真を眺める。
お気に入り、というマイアルバムに、3人の写った写真があった。
春奈の自撮りで、真理、冬希と3人写り込んでいる。
一番心地の良い時間だった。
激しい大会を終え、疲れ切ってボロボロになっていた冬希を、なるべくゆっくりと、なるべく優しく、将来元気を取り戻せるよう、休める場所になってあげようと、春奈は言った。
真理は春奈を見て、女神様のようだと最初感じた。
彼女なりの苦悩があり、彼女もやはり、ボロボロになった心と体を、冬希とともに過ごす時間に休ませていたのだと、今ならわかった。
二人は似ていた。
羽休めが終われば、渡り鳥のように、それぞれが目標とする場所に羽ばたいていく。そしてそれは全く違う場所だったというだけのことなのだ。
春奈が去り、真理は冬希と付き合うことになった。
冬希は、春奈の名を口にしたことはなかった。
自分は、春奈と比べてどうなのか、と思ったことは、一度や二度ではなかった。
しかし、冬希自身は真理と春奈を比べたことなどないように見えた。自分だけを見てくれている。それは間違いない。
冬希が春奈と会ったらどうなるか。それは拭い切れない不安となって、胸の奥底にわずかだが、残り続けていた。
インターホンがなり、冬希が出ると、モニターには坂東裕理の姿があった。
来るということを忘れていたわけではないが、そこまで気に留めてもいなかった。
三和土のサンダルを踏んで、体重をかけてドアを開け、上半身だけ外に出した。
「出かけるぞ。準備しろ」
「出かけるのは構いませんが、準備ってなんですか?」
「自転車ロードレーサーが準備するって言ったら、ロードバイクに決まっているだろう」
そうはいうが、裕理は平服であるし、ほとんど手ぶらに近いように見える。
「裕理さんの荷物は?」
「駅で天野がみている」
冬希は少し安心した。裕理と二人であれば、無茶なことに巻き込まれるだけだと思ったが、知性と常識を持ち合わせているであろう天野も一緒であるというのなら、そこまでメチャクチャなことにはならないだろうと思ったのだ。
「急げよ。自転車だけあればいい」
冬希は、小さくため息をつくと、準備のために家に一度入ろうとした。
「輪行バッグは、厚手のやつにしろよ」
「飛行機に乗るんですか?」
「乗るわけないだろう。あと」
「なんでしょう?」
「パスポートを忘れるな」
そこまで大変なことにならないはずだ。
その自分の考えに、冬希は自信を持てなくなりつつあった。
ほとんど時間が与えられなかったのもあり、雑然と荷物が詰め込まれたリュックと輪行バッグを持って、冬希は家を出た。リュックの中にはパスポートも入っている。
財布の中には、銀行のキャッシュカードもあり、余程のことがない限りは、どこへ行っても、帰ってくるぐらいのことはできるだろうと考えていた。
着替えは、下を2日分程度。ヘルメット入れの中にはヘルメットのほか、グローブとアイウェアも入っている。
電話の横に置いてあるメモ帳を一枚破り、
『しばらく帰ってこれないかも』
と書き置きを残す。
リュックを背負い、肩に輪行バッグを掛ける。
「行きましょうか」
「おう」
「ところでどこに行くんですか?」
「まだ言えないな」
「今更、どこに連れて行かれるとしても、帰るなんて言いませんよ」
裕理は振り向くと、ニヤリと笑った。
「フランスだ」
「まあ、そうなんじゃないかと思ってましたけど。航空機のチケット代なんてないですよ」
「貯まっている親父のマイルで、既に俺がチケットを予約してある」
「助かりますけど、良いんですか」
「構わん。どうせ使わないんだ。それより、驚かんのか」
「別の国だったら驚いたと思いますけど」
裕理の兄である坂東輝幸、冬希の先輩である郷田隆将、そして日本最強と名高かった露崎隆弘がいる国だ。
ツール・ド・フランスに出場するには、フランス国内のプロチームに入ることが1番の近道だという判断から滞在国を決めたという話だ。
プロサイクリングチームの中でも、ツール・ド・フランスへの出場が約束されているワールドチームに所属することは、至難であるので、それより1つランクの落ちるプロチーム、しかもツール・ド・フランスへ選出される可能性の高いフランスのチームへの加入を目指し、現在はプロチームよりさらに1つランクの落ちるコンチネンタルチームで、3人は走り続けている。
「裕理さん、フランス語って話せるんですか?」
「話せるわけねぇだろ」
「現地に着いたらどうするつもりなんですか」
「英語ならある程度通じるだろ」
「英語なら話せるんですね」
「話せるわけねぇだろ」
「ん?裕理さんの言っている言葉の意味がよくわからんぞ」
「お前、日本語も理解できなくなってるのか」
「話している内容はわかるのですが、話している意味がよくわからないんですよ」
「お前が言っている意味がよくわからないことで、お前が言っている話が理解できた」
「あ、裕理さんの言葉を翻訳してくれる通訳がいた」
駅の階段を登った先の改札の前に、2つの輪行バッグを見張っている天野優一の姿が見えた。裕理と同じ佐賀大和高校の自転車競技部の後輩で、おそらく一番裕理と行動を共にしている男だ。
「心配するな、冬希。フランスには兄貴たちがいる」
「それもそうですね」
天野と合流した二人は、成田空港行きの電車に乗るべく、京成電車の改札へと向かった。
そしてその数時間後。
「なんでこんなところに……」
天野が呆然と呟いた。
「俺のせいですかね。違う国だったら驚きますけど、って言ったのがフラグだったんですか」
冬希が頭を抱えた。
「FRAってフランスじゃなかったのかよ……」
裕理が肩を落とした。
3人は、ドイツのフランクフルト空港にいた。
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