第394話 【外伝3】荒木家
応接室には、真理の父と冬希の二人だけが残されていた。
真理の母は昼食を作るため、真理はその手伝いのために席を外していた。
真理の母から、昼食を食べていかないかと言われた時、冬希は一瞬ためらったが、それでも申し出を受けたのは、真理の父と、気まずい関係のまま別れるのは良くないと思ったからだ。
とはいえ、一緒に昼食を食べたからといって、状況が改善する保障もない。
「指せるかね」
真理の父は、折りたたみ式の将棋盤を出していった。
「はい」
高校生棋王の藤田から将棋は習っている。
駒を並べ、冬希が先手で指し始める。
手早く矢倉囲いを組んで、右側の歩、香車を進め、その後ろに飛車を寄せる。
雀刺しと呼ばれる戦法だ。
真理の父も防御を固める。
冬希は、構わず駒をぶつけた。
駒損をしながらも、突破した。
その後も、冬希の攻めは続き、何度か真理の父の顔色を変えさせることには成功した。
しかし、細い攻めもついには途絶え、冬希の駒台、といっても駒が入っていた箱を裏返したものだが、その上には歩が2枚。真理の父の駒台には、冬希が攻めに使ったほとんどの駒が乗っていた。
自陣は、何度か相手の攻めを手抜いたため、壊滅状態だ。
「負けました」
冬希は言った。
「攻め将棋だな」
「将棋を教えてくれた友人が言いました。自分は相手が何を考えて指したかを読み、それを邪魔する将棋だと。ただ、それは酷く辛いことだとも言いました。俺には、指したい手を指すのがいいだろう、それが一番楽しいと」
「勝つことだけが楽しさではないというか」
「そう思います」
「自転車ロードレースでもそうなのか」
「200人以上が走り、そのステージで優勝できるのは一人です。負けることが受け入れられない、というのであれば、レースに出る事自体、出来なくなってしまいます」
「そうだな」
真理の父は、笑ったように見えた。
「私は、平日は出張で週末に家に帰るような生活が長かった。仕事と向き合うような姿勢で家族にも向き合い、後悔したことも多かった。真理はあれでなかなか頑固だろう?」
「そういうところはあるかもしれません。ただ、そこが真理さんの良いところだと思います」
それは冬希の本心だ。
「君たちはまだ若い。君たちの中に、ルール、モラル、そして相手への配慮。そういったものが一部欠けている人々がいるだろう。そんな連中を許容できるほど、あれはまだ人間が大きくないのだよ」
娘の真理のことを言っているのだ、と冬希にはわかった。。
真理が受けると教えてもらった後に、その神崎高校に、先に願書を出して受験し、先に合格してしまった。今思えば愚かな行動だったという事は、ずっと思っていた。
「君と真理の間に何があったかは分からんが、そこまで根に持つ方ではないから、気にしなくても良いだろう」
「そうでしょうか」
心が見透かされているようだ、と冬希は思った。
「失敗というものは、誰にでもある。君が、大人というものをどう認識しているかはわからないが、社会に出たからといって、いきなり完成するわけではない。20代、30代では、まだ多くの失敗をしながら生きていかねばならない。失敗したくない、という気持ちが無ければ成長はしないが、その気持ちが強すぎると、挑戦したくない、という方向にベクトルが向かってしまう。我々はその両方の気持ちの間を、苦労してバランスをとりながら、前に進んでいかなけれならないのだ」
わかる話だ、と冬希は思った。
ふと、応接室の扉が開いた。
「お父さん、冬希くん、ご飯できたよ」
「わかった」
そう言った顔は、優しい父親のものだった。
「堅苦しい話をしてしまったな。食事にしよう」
「はい」
真理の父の後に続き、リビングダイニングキッチンに足を踏み入れた。
食欲を刺激する、美味しそうな揚げ物の匂いがした。
「ごめんなさいね。男の子がどれぐらい食べるのかってわからなくって」
ダイニングテーブルの上には、大きな皿に山盛りにつまれた唐揚げがそびえ立っていた。むしろ、どうやって積み上げたのかと疑問に思うレベルだった。
玄関で靴に足を滑らせた冬希の横に、真理も足を伸ばした。
「冬希くんを送ってくるね」
冬希は、体を折るのにやや苦労しているように見えた。
「ごちそうさまでした。うっぷ」
「また、遊びに来なさい。うっぷ」
食道の奥から唐揚げが逆流しそうになる。
結局、唐揚げは4分の3は消費された。
半分は冬希が食べた。4分の1は、真理の父が食べた。
真理と、真理の母も当然、食した。しかし、全体量から鑑みても、微々たるものだ。
四捨五入すれば50歳だ。揚げ物も胃が受け付けなくなってきている。
「大丈夫?」
冬希の背中を摩りながら、真理は気の毒そうに見つめていた。
心配するぐらいなら、もう少し加減して作れば良いものの、と思うが、仲の良さそうな二人を見ると、そういう姿を目にできたという点では、よかったのかもしれないと思った。
「失礼します」
しっかり目をみて挨拶をしてきた冬希を見返して、小さく頷いてみせた。
扉が閉まるのを確認し、真理の父は、自分の妻の方を向いた。
「老成されているな、彼は」
意外なほどだ、と思う。時間と共に経験を積む。彼の生きてきた時間にしては、不自然なほど穏やかに見えた。
「いろいろあるんじゃないかしら」
「まあ、うちの娘が選んだ相手だ。心配する必要はなかったのかも知れんな」
「それはちょっと違うと思うわよ。真理はしっかりしてる方だと思うけど、人は自分にないものを相手に求めるっていうし」
「では、しっかりしているという真理が選んだ彼は、ダメ男だとでもいうのか」
「違うわよ。真理が選んだからと言って、心配しなくて良い相手だという理由にはならないと言っているの。わたしたちにちゃんと挨拶に来たし、私たちも冬希君を見て、大丈夫だと思った、そこが大切なのよ。まだ真理は高校生なんですから」
そうかもしれない、と思った。
「しかし、自分にないものを求める、と言ったではないか」
「そうよ。真理は曲がったことは許せない面があるじゃないですか」
「そうだな」
見ていないのであればテレビを消せ、新聞を読みながら食事をするななど、細かいことをよく言われてきた。
「冬希君ぐらい大らかな性格の方が、真理にはあってると思うのよ」
「そうかもしれないな」
女の事は、女にしか分からない。男にできるのは、せいぜいわかったつもりになる程度なのだろう。
真理が連れてきた彼の顔を思い出した。
男同士の話ができた。
また会って話がしたい。
真理の父は、心からそう思うようになっていた。
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