第393話 【外伝2】真理の父親

 誰とでも仲良くなれる、というわけではない冬希は、そこまで他人の家にお邪魔するという機会は多くなかった。

 真理の家に入って、まず思ったのが、自宅ではない家の匂いだ、という事だった。

 家の、木なのか畳なのかわからない、優しい香りが鼻孔をくすぐった。

 右手には下駄箱があり、その上に置かれた花瓶には、花が生けられていた。

 これが、生活に余裕がある家の在り様なのだろうか、と冬希は思った。

 新築だが、父親がローンにひいひい言っている自分の家では、靴はすべてシューズクロークに押し込められ、玄関は自転車ラックに冬希のロードバイクがかけられてはいるが、飾り気がなく殺風景だった。

「ただいま」

 真理が、体を乗り出すように言った。

 クラスメイトと話す口調でも、冬希と話す口調でもない。初めて聞く声色だ。

 気を許した声、とでもいうのだろうか。

 左の部屋の方から、足音が聞こえてきた。

 挨拶をしなければ、と思った瞬間、真理が両親に、冬希の事をどういう関係の人間という風に伝えているかを、確認し忘れていたことに、冬希は気が付いた。

 間抜けな話だ。

 うかつに、

「お付き合いをさせていただいている」

 などと言ってしまい、実は真理から両親にそれが伝えられていなかったりしたら、非常に気まずい事になりかねない。

 冬希は、目まぐるしく頭を回転させ、いくつかのパターンを想定しながら、受け答えを用意することにした。

 廊下の向こうのドアが開き、女性が出てきた。

 見た感じの年齢的に、真理の母親なのだろうと冬希は思った。

「あら、いらっしゃい」

 明るくもあり、優しげでもあり、そして品のある口調。

 真理の目元は、母親になのだろう。

 廊下にあるもう一つのドアが開き、一人の男性が出てきた。

 眼鏡をかけ、気難しそうな表情をしている。

「君は、真理と交際しているそうだな」

「は、はい。あ、そっちのパターンか」

 とっさの事に、思わず心の声が漏れた。

 真理が振り返って小声で、そっちのパターンって何、と言うのが聞こえた。

「君は、どこの学校に通っているのかね」

 真理の父親と思しき人物の詰問は続く。

「真理さんと同じ、神崎高校に通わさせて頂いております」

「君は、何か人に胸を張って言えるほど、何かに打ち込んでいるのか。真理と同学年なら、自転車競技部に青山冬希という子もいるのだろう?」

 冬希は、状況がよく理解できなかった。

 何か大きな考え違いをしているような心境になった。

 真理の母が、困ったわ、というような表情をして冬希の顔を見つめてきた。

「お父さんたら、彼氏を連れてくるなら、将棋の藤田高校生棋王か、ロードの青山冬希君ぐらいじゃなければ、追い返してやるって言って困ってるの」

 冬希は、真理の父と自分の間で発生している壮大な認識の相違が何であるか、端的に説明してくれたのだと思った。

「恐縮です」

「……ん?」

 冬希の言葉は、今度は真理の父に、違和感を感じさせた。

 最初に自己紹介をしていなかったという、冬希の致命的なミス。というか、流石に名前ぐらいは伝わっているだろうという先入観が、物事を複雑にしているのだと思った。

「青山冬希と申します。真理さんとは中学の頃からの同級生で、今は学科は違いますが、同じ神崎高校に通っています」

「はっ……!?」

 真理の父は、彫像のように固まった。

「いつまでも玄関で立ち話もなんだから、あがってもらったら?」

 真理の母が言った。

「そうだね。冬希君、その辺のスリッパ使って」

「お邪魔します」

 靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた時には、真理の父は姿を消していた。

 冬希は、応接間に通された。

 座ったことがないほど、座り心地の良いソファーに、浅く腰かけた。

 隣に真理が座り、真理の母はカウンターキッチンの向こうで、ケトルでお湯を沸かしていた。

「コーヒーでいいかな」

「はい」

 冬希は、なんとなく状況を理解しつつあった。

 真理の父は、娘が彼氏を連れてくることが気に入らなかったのだろう。県内でも名の知れた冬希や、高校の全国区で活躍する将棋の藤田の名前を出し、交際を認めない姿勢を見せようとしたのだ。

「だって、お父さんに名前を聞かれなかったから」

 真理は、口を尖らせて言い訳がましく言った。ちょっと可愛い。

「ごめんなさいね、青山くん。事前にあなただと知ったら、またなにか文句を言う理由を探し始めるかもしれないから、対面させるまで秘密にして置こうって私が言ったの」

 真理の母が言った。要は、不意打ちを食らわせて黙らせようという事らしい。

 普通の流れで考えれば、聞かれてもいないのに彼氏の名前を事前に伝えることはあまりないかもしれない。ただ、今回は確信犯だ。

「頑固なところはあるけど、それほど厳しい人ではないのよ」

「いえ、ああいう態度をとってしまう気持ち、わかる気がします」

 失礼な態度だったかもしれない真理の父を、冬希は責める気にはなれなかった。

 一人娘である真理を、きっと大切に育ててきたのだろう。

 先日、江戸川で出会い、真理の両親に挨拶することを勧めた男性の事を、冬希は思い出していた。彼との出会いがなければ、こういう状況でも、ただただ戸惑っていただろう。

 真理と、彼女の母は、冬希を守ろうとしてくれたのだという事もわかったし、真理の父に、冬希をいじめるようなこともさせたくなかったのだとも思った。

 そんなことを考えている冬希を、真理の母は、しばらく見つめていた。

「貴方は、優しくいい子なのね」

 と、そっと呟くように言うと、応接間から廊下の方へ出ていった。

「お母さんに、気にられたみたいね」

 真理が言った。

「俺は、お父さんの方にも、気に入ってもらいたいんだけど」

「お母さんが今、連れてくると思うよ」

 真理と冬希は、何を話すわけでもなく、静かにコーヒーを飲みながら待った。

 少しすると、真理の両親が戻ってきた。

 真理の父は、先ほどのカジュアルな服装をやめ、何故かスーツに身を包んでいる。

「先ほどは、失礼したね」

 穏やかな表情をしている。こちらが自然な姿なのだろう。

「いえ、こちらこそ、名乗るのが遅くなり申し訳ありません」

「家内と真理が、私に秘密にしていたのだ。顔を見てすぐに気づくべきだったのかも知れないが、TVでは走っている姿に比べ、ヘルメットやアイウェアを外している素顔を見る機会はそれほどなかったからね」

「そうかもしれません」

「サイクルジャージを着て来てくれたら、一目でわかったのだろうけど」

 真理の父は、少し悔しそうに、そして少し拗ねたように言った。

「付き合っている子の家に、初めて挨拶に行くのに、サイクルジャージ着ていくなんて発想、あなた以外だれがするもんですか」

 腰に手を当て、呆れたように真理の母が言った。

 真理の父は恥じて顔を伏せた。

 冬希は恥じて顔を伏せた。

 真理も顔を伏せた。だが、笑っているようで、ずっと肩を震わせていた。

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