第392話 【外伝】冬希、彼女の家に挨拶に行く
5月の穏やかな陽気の中、利根川のサイクリングロードは、まだトレーニングをするのには快適な環境を保っていた。
7月、8月となっていくと、道の両側から草が伸び、自転車1台通れるかどうかというほどサイクリングロードを覆い、対向車を避けるのに草に突っ込まなければならなくなる。
さらには、多くの羽虫が飛び交い、冬とは違う理由でマスクが必要にもなる。
ただ、野田市スポーツ公園から関宿城まで利根川サイクリングロードを通って22㎞程度。草刈りするのにも、限界はあるということは、弁えていた。
全国高校自転車競技会を終え、神崎高校自転車競技部の部員たちも、一旦穏やかな日々を取り戻していた。
7月には全日本選手権、インターハイがあり、9月には国体のブロック大会、そして10月には国体の本戦が控えている。それ以降はかなり寒くなるので、気候としても気持ちとしても、1年の中で一番穏やかに自転車に乗れる時期かもしれない。
「だというのに、お前は何でそんなに追い込まれたような顔をしているんだ」
3年生の平良柊が、呆れた表情で冬希に言った。
冬希は、横に並んでロードバイクを走らせる先輩の顔を見つめた。
今週末に彼女の家に行き、ご両親に挨拶をしなければならない。そんな悩みを抱えているとこの人に相談してなにか有益な意見が聞き出せる可能性が、1パーセントでもあるのだろうか。
「柊先輩、ひとつ質問してもいいですか」
「おお、なんでも聞け」
「付き合っている女の子の家に挨拶に行くとき、どんな服装をすればいいんでしょう?」
「お前、俺が今まで女子と付き合ったことがあると思うか?」
冬希は、一瞬回答を躊躇した。試されているのかもしれない、と思ったのだ。
「いいえ」
「わかってるんだったら、聞くんじゃねえ」
「なんでも聞けって言ったのに、あんまりだ!」
こんな理不尽なやり取りを、この人と何百回繰り返しただろうか。
結局、なにひとつ前に進むことなく、週末を迎えようとしていた。
持参する手土産は、父が福岡出張で買ってきてくれた、ひよこ饅頭となっていた。包装紙には、
「博多名菓ひよ子」
と明記されている。冬希の想い人である荒木真理の父親が、もし東京ひよ子が元祖と主張する人であれば、血の雨が降ることになるかもしれない。
服装にも懸念があった。
冬希は最初、制服で行くつもりであったが、家族からは
「そんな固い服装、結婚のあいさつに行くんじゃないから」
と反対され、真理からも
「そうなると、バランス的に私も自宅で制服着ることにならない?」
と、遠回しに拒否された。
真理は、冬希が両親に挨拶するという事自体に関しては、むしろ積極的に賛成している。真理は真理で、いつ親に伝えるか、という事を気にしていたのだろう。
「サイクルジャージ着ていっちゃダメかな」
「あはは・・・、え、本気で言ってる?」
神崎高校のサイクルジャージを着ていれば、多少は見られる男になるのではないかと思ったが、かなり真面目に正気を疑うような真理の視線に、流石に断念した。
結局冬希は、姉に相談して、それほど失礼に当たらない、それなりに見られる服を選んでもらい、着ていくことにした。
真理の両親へ挨拶する日がきた。
朝から良く晴れていた。
真理の家と冬希の家の、ちょうど中間地点にある、二人の出身中学校で、待ち合わせをした。そこから、二人で真理の家へ歩いていく。
人間の感情は複雑で、ただ緊張する、というだけではなかった。
中学生の頃は、まさかこんな時が来るなどとは、想像していなかった。それを考えると、喜びにも似た感情が胸の奥にはあったのだ。
何度も真理を家まで送っていった道。
小学校の横を通る川沿いに、緩やかな坂を上っていく。
橋の下に、鴨らしき生き物がたむろしている。
大抵真理を家に送るのは、夜暗くなった時であった為、冬希は初めてその存在を知った。
橋を渡り、さらに坂を上る。
立ち止まった。
表札に、荒木と書かれてある。
真理の家は、切り立った斜面にあり、石垣の側面に、洞窟のようにシャッター付きガレージがある。
その横の階段をのぼった上に、真理の家はあった。
表札の横の石段、真理の後ろを上っていく。
ここからは初めて足を踏み入れる場所だ。
途中振り返ると、街が良く見えた。同級生たちも多く住む街。
「景色がいいね」
「私の部屋からは見えないんだけどね」
真理は笑いながら言った。そんな何でもない笑顔も、冬希は可愛いと思った。
階段を上りきる。
新しいながらも、和風建築の雰囲気をまとった家だ。その背後には、まだ石垣が続いており、その上には道が通っている。
家の入口まで来た。
真理が、ちらりと冬希を振り返り、ガチャリとドアを開けた。
インターホンなどを鳴らさないところを見て、やはりここは真理の家なのだと、至極当たり前のことを再確認させられた。
「ただいま」
真理は、玄関に入っていく。
続いて冬希も、閉まりかけたドアの隙間から、体を滑り込ませるように、玄関に足を踏み入れた。
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