第391話 ここまで来れて、本当に良かった

「あ、自転車は学校か」

 冬希は9時過ぎに目が覚めた。

 土曜日で学校は休みなので遅刻という面では問題はないのだが、軽く自転車に乗って置こうと思ったところ、部室に置きっぱなしであることを思い出した。

 第10ステージを走ったのが一昨日。

 真理と多くの話をしたのは昨日の事だ。

 体には軽く疲労感が残っており、少しでも体を動かして、軽くしておきたいと思った。

 部活は月曜日からだが、特にやることもないため、諸々総合的に考えて、一度学校には行こうと思った。

 吹奏楽部の練習で登校している真理にも会えるかもしれない。

 冬希は、制服に着替えると、リビングに降りた。

 テーブルの上には、ラップのかけられた焼き鮭があり、冬希は自分の茶碗を食器棚から取り出し、炊飯器を開けご飯を盛りつけた。

 母が空の洗濯かごを持って、掃き出し窓から家に入ってきた。

「おはよう」

 まだ眠気が取れず、ふわふわした感覚の中で冬希が言った。

「おはようじゃないわよ。あんたTVみたわよ」

「おとといの話?」

「おとといの話」

 母は、呆れた、と言わんばかりの表情をしている。

 おとといは、第10ステージで総合優勝を決めて、表彰式も含め、まあTVには出ていただろう。  だが、呆れられるようなことではないのではないか、と冬希は思った。

「あんな綺麗なお嬢さん……」

「あっ」

 ため息交じりに言うのを聞いて、表彰式の前の、真理とのやり取りのことを言っているのだと理解した。

「先方のご両親に、ちゃんとご挨拶したの?」

「してないです……」

 高校生で、付き合っている女の子の両親に挨拶などするものなのだろうか。

「でしょうね、お父さんヤックスドラッグに胃薬買いにいったらしいわよ」

 時間帯的に会社で中継を見ていたのだろうか。

 母の実家に結婚のあいさつに行った際、交際していた時のあいさつがなかったことを叱責され、トラウマになっているという話を聞いたことがあった。

 だが、その件については自分に責任はないのではないかという気が冬希はしていた。

「そうなんだ」

「そうなんだじゃないわよ。姉として情けないわ」

 洗面所のほうから姉がリビングに入ってきた。

「ミジンコ並みに気が小さいお父さんを慮ろうという優しさが、あんたにはないの?」

 父親をミジンコに例える優しさの無さは気にしなくていいのか、と思ったが、姉を怒らせるだけの結果になることはわかり切っていたので、冬希は何も言わなかった。

 父は極めて温厚で、冬希も姉も、父親に叱られたことは一度もなかった。

 そのことで奔放に育ったためか、または父親の代わりに厳しくしようと決意したのかはわからないが、姉は冬希には厳しかった。

「あんた、今日か明日にはちゃんと先方のご両親に挨拶に行ってきなさい。お母さんが菓子折りかっておいたから」

 母が、黄色い包装がされた菓子折りの入った紙袋を冬希に渡してきた。

 袋には、ひよこ饅頭と書いてある。

「あ、今日部活だから!」

 冬希は朝食をかき込むと、シンクの洗い桶に食器を入れて、急いでリビングから逃げ出した。


 一日、自転車に乗らなかっただけで、随分と体の動きが悪くなっていると感じた。

 ただ、学校を出て、利根運河のサイクリングロードから江戸川のサイクリングロードに出るころには、だいぶ体がほぐれてきていた。

 のんびりとしたサイクリングだ。

 激しい戦いだった全国高校自転車競技会の後なので、体をいじめるような厳しいトレーニングをするつもりはない。

 比較的路面が荒い千葉側から、玉葉橋を渡って東京、埼玉側のサイクリングロードに出る。

 海の方に向かうか、関宿の方に向かうか一瞬迷ったが、関宿の方に向かうと決めた。理由は特にない。

 ペダルを踏むという感じではない。脚の重みだけでペダルを回していく。

 練習で何十回と走った、見慣れた風景。心が落ち着く。

 日本中に中継される、大きな大会で優勝した。

 そして、そのことに対して冷静でいられたのは、ありがたい事だった。

 調子に乗って、公の場で馬鹿なことを口にするなどということがあれば、それこそ一生の恥となるところだ。

 中学の頃から、負ける側の気持ちを、痛いほどよく知っていた。あの頃のことが、自分を人間として成長させてくれていたのかもしれない。

 関宿城の休憩所についた。

 駐輪場に自転車を架けて施錠し、近くのベンチに腰掛けた。

 眼下には、広い平野が広がっている。

 なにやら動く動物の姿が見えた。

 犬かと思ったが、どうやら狐のようだ。

 以前ニュースで、ホンドギツネが利根川の土手に巣穴を掘り、強度を落としているいう話があった。

 冬希も、キジやイタチはよく見る事があったが、キツネは珍しい。

「いい天気だなあ」

 横からのんびりした声がした。

 ベンチの隣に、初老の男性が腰掛けた。

「こんにちは」

 冬希は頭を下げ、挨拶をした。

「こんにちは。ここへはよく来るのかい」

「はい、高校の自転車競技部に所属していて、練習で」

 優しそうな人だ、と冬希は思った。

「私は、ここまで初めてこれたよ」

「そうなのですか」

「江戸川の川沿いにある病院に入院していた時期があってね。土手を自転車で走っている人たちを見ていてね。彼らはどこに行くんだろう、とずっと思っていたのだよ」

 男性は、ニコニコしている。

「自転車で活躍する、ある選手をテレビで見てね。私もやってみようと思った。三郷から松伏までは行けたのだが、何度も途中で引き返して、今日ようやくたどり着いた」

「素晴らしい事だと思います」

 冬希は、心の底から賛辞を送った。入院が必要なほどの体の不調から、それほどの距離を走れるようになるのは、想像を絶する努力が必要だっただろう。

「ありがとう、でもこれは君のおかげでもある。青山冬希君」

 冬希は、はっとなった。

 とっさに言葉が出なかった。

 気恥ずかしさもあるが、こういう人にいい影響を与えられていることが、本当にうれしかった。

「自分など、まだまだです。今朝も母に叱られまして」

「ほう、どうしたのかね」

「お付き合いをしている女の子がいるのですが、そのご両親に挨拶をしてきなさいと」

「それはいかんね」

「やはり、そうなのでしょうか」

「その子のご両親は、娘さんを大切に育てきたのだ。交際をしている相手がどんな男かわからないのでは、心配になられるだろう」

「……おっしゃる通りです」

 冬希は、この男性の指摘で自分の配慮の無さを自覚した。

 それが当たり前だ、礼儀だ、と言われるより、ちゃんと理由をつけて説明されると、腑に落ちるものだと思った。

「明日、ご挨拶に行くことにします」

「それがいい」

「彼女に連絡します」

 冬希は一言断ると、スマホを取り出し、真理にメッセージを送った。

 返事はすぐにあった。

「OK、言っとく、とのことです。あっさりしてるなあ」

「ははっ、胆力のあるいい娘さんだ」

 男性は、背中のポケットから薬を出すと、2錠ほど口に含み、ボトルの水で流し込んだ。

「どこか、お体が悪いのですか?」

「いろいろとね。医者からはあと5年の命と言われている」

 冬希は、息をのんだ。

 齢はまだ六十にはなっていないように見える。早すぎる、と冬希は思った。

「ここまで来れて、本当に良かった」

 男性は、変わらず優しい目で風景を眺めている。

 冬希には、それが信じられなかった。

 死ぬという事は恐ろしい事だ。自分が余命を告げられたら、正気でいられる自信がない。

 少なくとも、これほど落ち着いては居られないはずだ。

「なぜ、そんなに穏やかでいられるのですか」

 気が付くと、冬希は質問をしていた。聞いていい事なのかどうかわからない。

「私の魂は、この世に生を受けると同時に、この体と共にあった。この体のおかげで、私の魂はこの世にあったと言っていい。その体が、自ら死へ向かっているのだ。私も付き合ってあげるなければならないだろう」

 男性は笑いながら言った。

 冬希は、自分が人間として成長していた、などと思っていた自分を、心から恥じた。

 この人の年齢ぐらいになるころ、そこまで悟りきることが出来るだろうか。

 自分が増長せずにいられるのは、こういった人たちとの出会いがあるからだと、冬希は思った。

 未熟な存在であると、自覚させてくれる。

「そんなことより、聞かせてくれないか。どういう人生を歩んだら、日本一の自転車の選手になれるのかを」

「自分の話などでいいのですか?」

「ああ、良い冥途の土産になる」

「わかりました」

「ああ、本当に今日は良い日だ」

 本当にうれしそうだ。

「中学生の頃、同じ学年に好きな女の子がいまして……」

 冬希は語り始めた。

 長い、長い話になる。

 だが、いいだろう。時間はいくらでもあるのだ。 

 面白い話かどうかは分からない。

 だが、聞いてくれる限りは語り続けようと冬希は思った。

 好きな女の子と同じ高校に行くために自転車競技を始めたら光速スプリンターと呼ばれるようになっていた、という話を。


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