第390話 好きな女の子と同じ高校に行きたかった

 夕方というにはまだ少し早い時間帯、冬希と真理は、普段は決して通らない方向へ歩いていた。

 どこへ行くのか、とは真理は聞いてこなかった。

 冬希も、ある程度の方向ぐらいは考えていたが、具体的に目的地を決めているわけではなかった。

 ただ、冬希は自分の残した結果により、真理が距離を感じ始めているという事に対して、話をする必要があるとだけ、思っていた。

 歩きながら話していたことは、特に意味のない事だった。

 内容のない話をしながらも、冬希は自分の話すべきことを整理していた。

「パスポート?持ってないけど。冬希君は海外に行く予定があるの?」

「無いんだけど、一緒に大会に出た人が、作っておいた方がいいって」

「そういえば、3年になると吹奏楽部の選ばれた何人が、ヨーロッパの方に1週間ぐらい行けるらしいから、私も作って置こうかな」

「ヨーロッパのどこ?」

「チェコだって」

「へえ、チェコって音楽が盛んなのか。オーストリアとかも有名だもんね」

「お、冬希君、よく知ってるね。音楽と言えば、ウイーンだね」

 こうも自然に話していると、中学の頃を思い出す。

 クラスも違って、話すことも少なくなった時期。

 話が出来た。ただそれだけで、一つ幸せだと思っていた。

「楽器は、自分で買ったりする必要はないの?」

「うん、学校の吹奏楽部のを使わせてもらってるよ。自分の楽器持ってる人も何人かいるけどね」

「ああいうのって高いんだろうなあ」

「ファゴットは中古でも50万はするみたいだよ。おこずかいじゃちょっと買えないよね」

 冬希は、真理の言葉にどきっとした。

 ロードバイクは、高ければ数百万円もする。冬希が寺崎輪業の店主から、借りているのか貰ったのかあいまいな状態のビアンキも、40万~50万はするという。ちょっと乱暴に扱った場面もあったような気がした。

「すごい、こんなところがあったんだね」

 真理が感嘆の声を上げた。

 二人は、柏たなか北公園へ来ていた。

 左手に高速道路、右手にはつくばエクスブレスの鉄橋が見える。

 眼下には、広大な田畑が広がっていた。

「冬希君は、ここによく来るの?」

「いや、来たのは初めてだね。ただ、向こう側からこの公園は良く見えてたから」

 冬希は、田畑の向こうにある土手を指さした。

 土手の向こう側には、利根川が流れている。

 公園も丘の上にあるようなものだが、田畑だけは低い位置にあった。

「そこにあるのは、利根川じゃないの?」

「遊水地というらしい。利根川が氾濫した時に、被害を抑えるために水を一時的に逃がすための。実際に、目の前の田んぼや道が見えなくなるくらい、ちゃぽちゃぽに水がたまったこともあるみたいだよ」

 江戸時代、遊水地は地元の農民に与えられ、租税も免除された。

 農民にとっては、作れば作った分だけ豊かになれる貴重な田んぼであったため、大雨が降った時などに備え、死に物狂いで治水を行っていたらしい。自分達で治水を行わせることを狙って、幕府は税を免除していたという事だ。

 結局、明治時代になると、これらの遊水地も税が徴収される対象となったようだ。

 この利根川の話は、勝海舟の談話をまとめた本に載っていたと、冬希は昨年、船津に教えてもらった。

「風が気持ちいいね」

 広大な空が見渡せるベンチに座り、真理は目を細めた。

 ここに連れてきて、本当に良かったと冬希は思った。

「さっきの、手が届かない人、って話なんだけど」

 冬希は、歩きながら考えていた、真理に伝えたい言葉をポツリポツリと話し始めた。

「中学の頃の俺ってどんな印象だったか覚えてる?」

「うーん、絶対に他の子のことを悪く言わない人」

 意外な答えに冬希は苦笑した。悪い気はしない。

「もっと外見的な、雰囲気とか」

「優しそうな人かなあ」

「そっか」

 話の切り出しをちょっとだけ間違えた気がした。パッとしない、とか暗いとか、という答えが返ってくると思っていたのだ。

「中学の頃、自分なんかに何ができるのか、という気持ちで一杯だったんだよ」

「どうして?」

「特別に頭が良かったわけでもないし、部活で活躍していたわけでもない。運動神経が良かったということもなかった」

「別に、普通じゃないかな」

 真理は首を傾げた。

「体育祭や、球技大会で活躍する人たちもいたし、文化祭じゃ、普段嫌な奴が、中学生なのにステージでバンドの演奏やって、ひどく輝いて見えたんだ。いじめとか平気でやる奴なのに」

「山下君のことだ」

「名前を挙げるんじゃない」

「あはは」

 真理は無邪気に笑っている。

 そういった連中を羨ましく感じると共に、冬希の心の中を、少しずつだが、惨めさが蝕んでいった。

「本当だったら、惰性で続けた部活と、頑張って勉強してもあまり上積みが見られない成績を残しつつ、自分の学力でいける高校を受験して、また同じような生活を送っていくことになっていたんだと思う」

「そんなこと」

「わかるんだ」

 冬希は、真理の言葉を遮った。

「どうして?」

「ずっと必死だったから。手を抜いているわけでもなく、余裕があるわけでもないのに、本当に必死に毎日生きて、それでもあれ以上の生活が送れなかったから」

 後から思えば、もっとやりようがあったかも知れない、などと言えるのかも知れない。だが、あの頃は間違いなくあれが、自分の全力だった。

 好きな相手に、自分の弱さを話すのは辛い。だが、話すと決めたのだ。

「特に目標もなく、中学3年間終わるんだろうと思っていた。そんな頃、ふと志望校を聞いたの、覚えてる?」

「おぼろげには」

「それが、始まりだったんだよ」

 1日1日を必死に生きて、何かを求めるなど、そんな心の余裕もなかった中、真理が神崎高校を目指すといった時、それが一筋の光のようなものに見えた。

「一緒の学校に通えたらいいなって」

 真理は最早何も言わず、話を聞いている。

「中学3年のあの日のさりげない一言が、俺をここまで連れてきてくれたんだ」

 今のこの状況は、自分が目指して手に入れたというのとは、ちょっと違う気がしていたのだ。

 自転車ロードレースで頂点に立ちたいという願望があったわけではない。

 だが、始まってみれば、植原や天野といった男たちと、死力を尽くして戦っていた。

 南や立花とは、スプリンターとしての矜持を賭けた死闘だった。

 少なくとも、中学時代に心の底に抑え込んでいた卑屈さからは、解放された気がした。

「だから、ありがとう。俺に道を示してくれて」

「私は、なにもしてないよ」

「今、いっしょにいてくれている。それが、俺が本当に欲しかったものだから」

 真理は、はっとした表情で冬希を見返した。

「君がいたから、俺はここまで戦ってこれたんだ」

 真理は、目を見開いたまま、ぽろぽろと涙を零していた。

「手の届かない場所なんてところには、俺は居ないんだ。ずっと君と共にあったんだ」

 言えた。冬希は思った。

 若干、恥ずかしいことを言っている。

 だが、本当に伝えなければならないことは、照れや恥ずかしさ、拒絶されるこわさを乗り越えなければ、きっと伝えられない。

 大切なものを手に入れるため、そして手に入れた大切なものを守るために、必要なことなのだと思い定めていた。

 涙を流している真理に、冬希はそれ以上かける言葉が見つからなかった。

 泣かれるとは思っていなかった。

 想像の範囲外だったと言った方が正しいだろう。

 気持ちを伝える言葉は考えていた。しかしその先に、何もできない自分が居た。

「泣いちゃった」

 驚いたような表情のまま、流れる涙をぬぐいもせず、真理は言った。

「帰ってお母さんになんて言おう」

「えっ」

 冬希は、一瞬真理が何を言っているのか理解できなかった。

「多分、目が腫れちゃうと思うから」

「あ、ああ。ごめん」

 冬希は狼狽した。自分の娘が、目を腫らして帰ってきたら、それは心配するだろう。

「うそ。ごめん。今の照れ隠し。そんなに動揺するとは思わなかった」

 真理は、ハンカチを取り出して涙を拭きながら、笑った。

 公園では、散歩に来た赤ちゃんを連れが、ちらほらと見え始めていた。

「冬希君、そろそろ行こうか」

「つくばエクスプレスの高架をたどっていけば、駅にたどり着けるはず」

 二人はベンチから立ち上がると、歩き始めた。

「あ、見て。池があるよ」

「遊歩道があるね。近道になるかな」

 いつもと変わらない会話。

 だが先ほどと違い、真理の表情には、わずかにあった憂いが拭い去ったようにきれいに消えているように見えた。

 真理が向けてくる笑顔が、今までで、一番輝いているように見えた。

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