第387話 全国高校自転車競技会 第10ステージ 表彰式前
表彰式のため、手早く着替えた。
準備と言っても、それほどやることがあるわけではない。すぐに出られる状態になった。
時間がない中で冬希は、竹内から来客を告げられた。
神崎高校吹奏楽部の部長だった。
冬希は、むしろ喜んで応対に出た。
草香江の交差点での、彼らの演奏は、確実に冬希の疲労を軽減してくれた。
気持ちも切り替えられ、思考もクリアになった。
今日の結果は、彼らの応援の力も影響したと、冬希は心の底から思っていた。
「去年の部長から、自分たちの応援した全国大会で、神崎高校の選手が優勝するという、本当に貴重な経験をさせてもらった。今年は、去年行けなかった部員たちが、是非同じ経験をしたいと、練習にも熱が入っていたんだ」
興奮して話す部長に、慇懃に対応しながら、冬希は彼の背後にいる部員たちの中にいるはずの、真理の姿を探した。
応援が力になったという意味で言えば、彼女の存在は、今日の結果に最も大きな影響を与えたと言える。
会って何を話す、という考えがあるわけでもなかったが、とにかく顔が見たかった。
「部長、すまないが表彰式の時間がある。冬希も、そろそろ」
潤に促され、冬希は部長に一礼して表彰される選手の集合場所へと向かった。
表彰台につながる花道の入り口に向かって歩いていると、途中、意外な人物が冬希を待っていた。
「青山さん」
南龍鳳だった。戦っている時は、自分より二回りほど大きく見えた体が、今は小さく見える。
「今日の最後のスプリントの時、すみませんでした」
南は、深々と頭を下げた。
突然の謝罪に驚きはしたが、それよりも、南もスプリント賞の表彰を受ける立場であるはずだった。
「歩きながら話そう」
冬希は、頭を下げたままの南を促して、入賞者の集合場所へ歩き始めた。
「こっちは、直接ぶつかったわけでもないし、ぶつかるつもりもなかったんじゃないか?」
「はい、ぶつかるかもしれない、とは思いましたが」
「黒川さんのところには行ったのか?」
「いえ、まだです」
冬希は意外に思った。黒川に言われて謝りに来たのかと思ったのだ。
思ったより、素直で純朴な人間なのかもしれない。
「南選手」
「呼び捨てでお願いします」
「その方が気が楽なら、そうさせてもらおう、南」
「はい」
「もう終わったことだ。気にするのはやめよう」
「いえ、そういうわけにはいきません、青山さん。俺はあの時、あなたに負けると思ったのです」
「俺に負けると思ったのか」
「はい」
「俺は、その時も含め、君に勝てると思った瞬間は一度もなかった。追いつけないかもしれない、とずっと思っていたよ。勝ちたいとは思っていたんだけど」
南は、言葉を失った。
だが、冬希にはわかった。
慣れないヒルクライムや、連日のステージレースで疲労が蓄積していた。
疲労が溜まれば、逆に眠れなくなったり、不安で気持ちが後ろ向きになる。
冬希も、一時的にそういった状況に陥っていた。
それを救ってくれた存在が、冬希にはいた。
「気持ちはわかるよ、南。スプリンターというのは、後ろから抜かれることを極端に嫌うからな」
「俺の心の弱さが、青山さんや黒川さん、さらには後ろを走っていた多くの人を危険に晒しました。これは許されることではないと思います」
「結果的に誰も怪我をしなかった。それでいいと俺は思っている」
「俺は、自分が情けないのです」
南の表情が、深刻さを増した。
「そう自分を責めることはない」
「いえ、青山さん。俺がロードを始めたのは、逃げることが目的だったのです。俺は、競輪選手である親父の影響で自転車を始めました。3歳で初めてペダルのついた自転車に乗り、その年に未就学児のクラスで優勝しました。そこから親父に付き合ってトレーニングを行うようになり、中学3年まで毎日欠かさずハードなトレーニングを続けてきました」
「すごいな」
「惰性で続けてきただけです。ですが、日南大附属高校の自転車競技部の顧問から声をかけられた時、ロードを始めれば、もう親父と一緒にトラック競技のハードな練習をしなくて済むかもしれない、と思ったのです。トレーニングの日々から逃れられるかも、と思うと、もう毎日繰り返してきたことが、苦しくて仕方なくなりました」
そういうものかもしれない、と冬希は思った。
いくつもの選択肢がある中から、自分で選んだのであれば、途中でやめるという選択肢もあったのだろう。しかし、やるかやらないかを決める判断ができる年齢に達する前に始めたことであれば、途中でやめるという判断も存在しないのだろう。
「ロードが好きで始めた人たちからすると、本当につまらない理由で始めたものだと、恥いるばかりです」
「始めた理由で言えば、俺も他人のことは言えないな、南」
「そうなのですか?」
「好きな女の子と同じ学校に通いたい。ただそれだけの理由だった」
「まさか」
「本当さ。学力では入れなかったから、スポーツ推薦での入学を目指したんだ。軽蔑するか?」
「いえ、そんなことは」
「別に隠してもいない。言いふらすようなことでもないがな」
「自分より、前向きな理由だと思います。それに・・・・・・」
「それに?」
「その話を聞いて、少し青山さんのことを誤解していた気がします。有名な進学校だし、子供の頃からやってきたエリートだと思っていました」
「南、俺が言いたいのは、始めた理由などどうでいもいいのではないかということだ。どんな理由でも、やっているうちに好きになったり、結果を残せれば、ロードに乗り始めたきっかけなど、関係ないと、俺は思っている」
半ば自分に言い聞かせている言葉だ。
そのことを心にとめておかなければ、自分など、と卑屈な気持ちが湧き上がってくる事もある。
勝てば勝つほど、肚が据わっている、ということが重要だとわかってきた。
「そう、思い定められる時が来るのでしょうか」
「来なくてもいいんだ、南。来た方が、気持ちが幾分は楽だ、というだけの事だ」
南は静かにうなずいた。
表彰を受ける選手たちが待機するためのテントが見えてきた。
「きっかけはともかく、青山さんはここまで継続してこれたのは、何故なのですか?」
南の言葉に、冬希はすぐに言葉を返せなかった。
なぜだろう、と考え、すぐには答えが出なかったのだ。
ただ、ロードを始めたきっかけの話をした時と同様、中学2年で初めて会った時の、真理の顔が思い浮かんだ。
「南、すまないが、先に行っててくれるか」
「構いませんが、表彰はステージ優勝した青山さんからですよ」
「直ぐ行くと、伝えておいてくれ」
あまり遠くへは行けなかったが、冬希は目の届く範囲で、真理の姿を探した。
どこへ行ったのか。
先ほど、吹奏楽部の部長に会った時に、真理はどうしたのかと聞くべきだった。携帯があるので迷子になって困ってることはないだろうが。
会いたい、と思ったが、真理を探す術を、冬希は持たなかった。
諦め、表彰者用のテントに入った。
「来たか」
テントの3人掛けのベンチの中央に座った黒川が、鷹揚に言った。
いつもの、近づきがたい空気をまとっている。
それぞれ、間隔をあけて、総合2位の天野優一、山岳賞の千秋秀正、スプリント賞の南龍鳳が、黙って座っている。総合3位の黒川も含め、にこやかに会話を楽しむような人物は、一人もいないのだ。当然、この4人の間に会話などあるはずがない。
「青山さん……」
新人賞の永田隼が、泣きそうな顔でこちらを見てきた。
この気まずい空間で、表彰式が始まるのを待たなければならなかった永田に、冬希は心から同情した。
「酷い面子だろう」
テントの中の雰囲気を悪化させているであろう筆頭ともいえる男の言葉に、冬希は小さくため息をついた。
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