第385話 全国高校自転車競技会 第10ステージ⑧ フィニッシュ
後方からとてつもない圧力を感じた。
直後にいるのではないかと、錯覚させるほど強大な存在感を、南は放っていた。
実際に真後ろにいるのは佐賀の天野であり、その存在が伊佐を縛り付けてもいた。
伊佐が動けば、天野の引っ張り上げてしまう。それは敵のアシストをするという事だ。
自分に何が出来るか、伊佐は必死で考えていた。だが、動かない以上の事は、考えつかなかった。
後方で気を放っている南に、意識を引っ張られないようにするのが精いっぱいだった。
伊佐と南は、同じ1年生ではあったが、今ならわかる。とても太刀打ちできる相手ではない。力の差がありすぎるのだ。
南のその丸太のような太腿は、ひと踏みで伊佐など千切ってしまうだろう。
伊佐は、意識して呼吸のスパンを長くした。
大きく吸って、大きく吐く。
気持ちが落ち着いてきた。
残り1㎞、ついに山賀が牽引を終えて下がった。
先頭には永田が立った。全力で牽いている。山賀と遜色ないスピードだ。
変わらぬハイペースに、グループが誰もが仕掛けられずにいる。
前には永田、赤井、立花。
後ろには天野、南、黒川、そして冬希。
自分は今、いい位置にいる。
体中に緊張が走る。
全国高校自転車競技会の最終ステージで、勝負できるポジションにいる。
勝負していいのだろうか。一瞬頭をよぎる。
「もういい、小玉さん。下がってくれ」
南龍鳳の声がして、伊佐は我に返った。
南がいる限り、自分では到底勝負できない。
残り300m。一気に、先頭を牽引する永田のペースが落ちた。
赤井。一瞬躊躇した。
立花、仕掛けた。
だが、それより早く動いた男。
横を通る風圧で、一瞬押され、次に、引き込まれそうになった。
南が動いた。
冬希、黒川もそれに続いた。
追わなければ。
だが後ろに天野がいる。
振り返った。
そこには、もう天野の姿はなかった。
南が動いた。
集団のペースが一瞬緩んだ。
一瞬の迷いもないスプリント。
それが冬希に、動くことを決断させた。
蹴り出しのタイミングとしては、残り300m地点は、かなり早いと言わざるを得ない。
だが、南が放っている気は尋常ではない。
このまま押し切られる、と冬希は思ったのだ。
空気を切り裂くような走り。
この南龍鳳という男に、一度もまだ勝てていない。
一瞬、妙な感覚に包まれた。
意外なほど、スピードに乗ったのだ。
南、そして黒川が作り出す空気の裂け目が見えた気がした。
早めの仕掛けも、南龍鳳にとっては、賭けでも何でもなかった。
幼少のころから父親に、400メートルを全力で踏む練習をさせられていたのだ。
しかし、どうということはない、と思っている頭とは裏腹に、体は思ったほど動いてはくれなかった。
引き千切る。そういう思いで踏み始めたにもかかわらず、後方から青山冬希が迫ってきた。
何なのだ、あんたは。
心の中で、声にならない叫びをあげた。
後ろから抜かれる。南のような、絶対的に瞬発力に自信を持っている男にとっては、それは自分の存在自体を否定されるに等しかった。
僅かずつではあるが、差を詰められている。
南にはわかった。フィニッシュラインまでに、確実に抜かれる速度差だ。
勝てない、そう思ってしまった。
そうなると、もう何も考えられなくなった。
そして、左側に鉄柵が見えた。
ぶつける必要もないし、落車させる必要もない。
ただ少し。ほんの少しだけ左に進路を向けるだけでいいのだ。
それだけで、青山冬希は進路を失い、脚を緩めなければならないだろう。
勝てる。
南は、冬希の迫っている左方向へ斜行した。
「うっ」
たまらず冬希が上体を引き起こした。
ふと、低い声がした。
「一気に力が失せたな、南。恐怖が透けて見えるぞ」
南は、はっとなった。
ペダルを緩めた冬希と南との隙間に、黒川が突っ込んできた。
冬希は、南が弾け飛ぶ姿を目にした。
黒川も体は大きい方ではあるが、そのさらに二回りほど大きな体格を持つ南を、完全に吹き飛ばしていた。
流石の黒川も、何の反動もなく、というわけにはいかず、よろけて鉄柵に当たるギリギリで踏みとどまった。
残り200m、何が突き抜けた。
「天野!!」
2車線分ほど横に弾かれた南の、さらに外側を、天野は完全に突き抜けた。
南に気をとられすぎていたか。
動いている気配すら、感じ取れなかった。
立花、そして赤井が追う。
天野は、3位以内でも総合優勝だ。
冬希は、下ハンドルを持ち直し、再びペダルを踏み始める。
体が沈む。
ペダルが軽い。
スプリンタースイッチで、ギアを上げる。
まだ軽い。
もう1段上げる。
いや、もう上がらない。
残り150m。天野との差が縮まらない。
天野がこれほどのスプリント力を持つ男とは。
見覚えがある位置に、見覚えがある距離標識。去年の全国高校自転車競技会第1ステージでスプリントを開始した位置だ。
体中の力が暴れているのを感じた。
それを両腕、両膝に集中させる。
左腕でハンドルを引き寄せ、左足で踏む。
右腕でハンドルを引き寄せ、右足で踏む。
持てるすべての力を、ひと踏み、ひと踏みに、爆発的に注ぎ込む。
周りの、全ての景色が意識から消えた。
自分の通るべき道。そしてフィニッシュライン。
途中、天野の存在を、わずかに感じた。
並ぶ間のなく抜いた。そしてあっという間に引き離した。
フィニッシュライン。
冬希は、先頭で突き抜けた。
気が付けば、ステージ自体は冬希の圧勝だった。
誘導する係員を目にした瞬間、冬希は集中が解け、我に返った。
大歓声が聞こえた。
慌てて振り向いた。
後続は横一線で、フィニッシュラインに雪崩れ込んできた。
立花、赤井、天野、そして伊佐もいる。黒川、南は少し遅れてゴールした。
伊佐。冬希のところまでやってきた。
しばらく呼吸を整え、言った。
「冬希先輩。ナイスアシストだったでしょ」
伊佐は、不敵な笑みを浮かべ、右手を差し出した。
冬希の位置からは、天野や伊佐が、どういう順で入線したのか見えなかった。
しかし伊佐の言葉で、冬希は、自分が総合優勝したのだと知った。
「まったくだ」
冬希は笑いながら、差し出された手を握った。
ゴール前のスロー映像が、巨大な液晶画面に映し出されていた。
三人の差は、それぞれ10㎝もないだろう。
だが、拡大されたタイヤの先の映像を見る限り、立花と伊佐は、確実に天野をかわしてゴールしていた。
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