第379話 全国高校自転車競技会 第10ステージ③ 裕理の奇策
逃げていた茨城県の『逃げ屋』牧山が集団に戻ってきた。
前輪がパンクし、逃げ集団から遅れた結果、脚を使って逃げ集団に追いつくより、メイン集団に戻る方を選んだ。
逃げている選手は10名になった。
千葉からすれば、逃げている選手たちの逃げ切り勝利の可能性は、殆どなくなったと言っていい。
「潤先輩、牧山選手は逃げることを諦めたのでしょうか」
「それはないな、伊佐。牧山はまだメイン集団の前方に居続けている。隙あらばアタックをかける気だろう。あと、摂っている補給食によっても、相手の動きを予測することが出来る。固形のものではなく、吸収の早い液状系のものを摂っているという事は、いつでも仕掛けられる状態にしたい、という意思があるからだ。しかも、牧山が獲っていたものはカフェリンを多く含むものだ。大人しく完走を目指す男の行動ではない」
伊佐は唖然とした。相手選手の補給食の種類まで、考えたことなどなかった。
逃げ集団とのタイム差は、5分にまで広がった。これは逃げている選手たちが健闘している、というより、メイン集団が決定的にまとまりをなくしている点が原因だった。
業を煮やした愛知のキャプテン山賀が、千葉のところまでやってきた。
「平良兄、総合成績上位として千葉にもメイン集団のコントロールに参加してもらいたい」
「山賀、総合成績上位というのであれば、まず佐賀に話をするのが筋だろう」
「それはそうなのだが、奴らは集団の後方に下がってしまっていて、あそこまで文句を言いに行くのもな」
山賀は苦笑した。
佐賀は、総合リーダーである天野も含め、メイン集団の最後尾あたりに位置している。異色なイエロージャージが後方に見える。
「福岡と俺たちも、今日のステージ優勝を目指すチームとして、集団のコントロールに乗り出そうとはしているのだが、なにぶん福岡と2チームでということになると、どちらも自チームの温存を意識し始めて、前との差を詰められんのだ」
「わかった。今日はうちも冬希でステージ優勝を狙うからな。誰でもいいか?」
「平良弟は小柄すぎる。牽引してもらっても、前に誰も走っていないのと同じだ。竹内かそこの若いのにしてくれ」
山賀と目が合った。伊佐としても、山賀ほどの名門のトップ選手から指名されたのなら、高揚を抑えきれない。
「潤先輩、俺が行きます」
「頼めるか、伊佐」
「待ってくれ。今日のステージを狙うのは宮崎も同じだ。そっちにも話をしに行く。それからでいい。伊佐と言ったな。その後で頼めるか」
「はい。山賀さん」
宮崎は、集団の中ほどで、ガードレール沿いを走っている。トラック競技をメインでやってきたらしい南は、集団での走行に不慣れだという噂もあった。
山賀は、伊佐たちから離れ、宮崎の有馬の方へバイクを寄せていった。
「待てと言われました。すぐに追いかけたい、という感じではないのですね」
「伊佐、佐賀の天野は、仕掛けるとしたらどのあたりが最適だと思う?」
「周回コースに入る前、残り15㎞あたりでしょうか」
「ああ、だいたい僕も同じ考えだ」
全日本選手権や国体で、高い巡行能力を見せた天野だが、逃げ切れるほど踏み続けられるのは、恐らくそれぐらいだろう」
「平坦の周回コースなど、少人数で逃げるより、集団で追いかける方が楽だと思うだろう」
「違うのですか?」
「周回コースは、文字通り短い距離で一周する特質上、急なコーナーが多くなる。追いかける集団に不利にな面も多い」
「なるほど」
「今逃げている選手たち10人は力不足だ。これが20人になっても脅威になりえないほど、絶対的なスピードが足りない」
「はい」
「逃げとの差が広がり始めたので、多少は焦っているが、福岡や愛知がそこまで急いで差を詰めようとしないのは、だらだらと逃げる10人を、ギリギリまで捕まえたくないからだ。逃げている相手は弱ければ弱いほど、スプリンター系チームにとっては、捕まえるタイミングを計算しやすい。周回コースに入るどころか、大博通りのスプリントまで泳がせたいと思っているだろう」
「それは佐賀が許さないでしょうね」
「佐賀もそうだが、茨城の牧山も容認できないだろう。牧山にとっての理想は、逃げ集団がつかまった瞬間に、カウンターアタックを決めることだろうからな」
潤の言うとおりだと、伊佐は思った。
逃げを捕まえた瞬間、目標を失ったメイン集団はお互いに牽制が始まり、ペースが緩む。その瞬間を牧山は狙うはずだ。
「天野と牧山を比較すると、天野の方がペースは上だ。牧山は、スピードが足りない分、早めに動いてメイン集団との差を広げる必要がある。それは茨城が、佐賀より先に動く必要があるという事だ」
「わかります」
「茨城はメイン集団を引っ張って逃げを捕まえに行くだろう。そうなったら、伊佐はすぐに下がってきてくれ。佐賀の動きに備える必要がある」
潤の牽制により、佐賀は序盤で仕掛けるのを諦めたようで、後方に下がっている。
「佐賀の中では水野が有力だが、鳥栖、武雄の二人も今大会の選手の中では平均以上の力を持っている。3年という意味では、後者は捨て身で来る可能性がある」
全国高校自転車競技会は、完走をするだけでその後の全日本選手権や国体の出場への最低限の資格を満たすという事もあり、完走自体を目指す選手も多い。
「3年生に限って言えば、完走目当てで走っているなどという意識は捨てることだ。彼らはそれよりもっと大切な、やり遂げるという事に主眼を置いてくるだろう。完走などという実績のために苦しい練習に耐えてきたのではない。燃え尽きなければ、高校3年間の自転車ロードレーサー生活を終えることなど出来ないのだ」
1年生の伊佐にとっては、あまりにも重い言葉だった。3年生である潤は、ずっと考え続けてきたのだろう。
「俺で、そんな人たちに対抗できるでしょうか」
「やるんだ。お前は神崎高校の、千葉県代表の選手なのだからな」
潤は、集団の後方を見た。相変わらず、総合リーダージャージが強い存在感を放っていた。
集団の前方では、茨城の緑色のジャージが集結しつつあった。
そして二人は、山賀が戻ってくるまで、思いのほか長い時間待たされることになった。
佐賀の5人の選手たちは、メイン集団の最後方で、ややばらばらに位置していた。
総合リーダーの証である、黄色いジャージを着た天野を中心に、いつでも再集結できる体制だ。
千葉の冬希と竹内は、二人でほぼ離れずに、佐賀と同じ後方に位置している。
にらみ合いのような状況が続いている。
前方に上がってペースアップをはかろうと煩く言ってくる水野を、裕理は抑えていた。
確かにペースアップをしてメイン集団をバラバラにすれば、冬希を置き去りにできる。
だが集団の前の方には平良潤が目を光らせているし、佐賀が前方にあがれば冬希たちも前方に上がってくるだろう。
裕理は、小さくため息をついた。
もしかしたら、自分が自転車ロードレースを始めたころから、こういう時が訪れる宿運だったのかもしれない。
平良潤を出し抜くには、奇襲ではなく奇策で対応するしかない。しかも、通常ではありえないようなことを行う必要がある。
裕理は、ふらふらと総合リーダージャージに近づいた。
「天野。ここからはお前たちは自分の判断で行け。チャンスは作ってやる」
こんなことであれば、もっと自分を鍛えておけばよかった。
衰えない程度には走り込んでいたものの、走力を上げることを怠っていたのは確かだ。
だが、実力的に取るに足らない自分が動くという意外性が、千葉の足元をすくう唯一の方法であるならば、練習不足が勝機を作ったとも言えなくはない。
次に裕理は、水野のところへ行った。
冬希たちから見て、水野の陰に隠れる位置に滑り込むようにポジショニングし、小声で話しかけた。
「水野、こっちを向け」
「はい?」
「俺が居ないことを、冬希に悟られるな。俺がここにいる体で、走りづづけろ。独り言を言うでも何でもいい」
「まさか」
「お前がうるさく言っていた、メイン集団をバラバラにする役割。俺がやってくる。俺が動いていることを勘付かせるな」
「……わかりました」
冬希から隠れた位置で、水野と裕理は少しずつポジションを上げた。水野はずっと裕理の方を向いている。
天野が手を挙げ、メイン集団後方のサポートカーを呼んだ。
冬希、竹内の視線が、総合リーダージャージを着た天野の動きに集中する。
裕理は姿勢を低くし、一気に水野のそばを離れた。
水野の顔はずっと、裕理が居たほうを向たままだった。
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