第377話 全国高校自転車競技会 第10ステージ

 スタート前の雰囲気は、これまでと違い穏やかに感じられた。

 山岳賞、スプリント賞、新人賞はほぼ確定し、平坦コースで最後は周回コースとなっている。ほとんどの選手は、目標が完走となっていたが、それは容易なステージだ。

 多くの選手達にとって、ようやく大会が終わるという、安堵の気持ちが多かっただろう。

 ヒリついた空気を出しているのは、この最終ステージを狙うスプリンター系チームと、総合優勝のかかっている佐賀、千葉、そしてかろうじて可能性があると言っていい、山口ぐらいだろう。

 千葉のキャプテンである潤は、スタート地点に向かう前に、総合エースである冬希と最後の詰めの話を行なっていた。

「やることは、いつもと変わらない。冬希は南を倒すことに注力してくれればいい」

「佐賀の動きは?」

「そっちは任せてもらっていい。冬希の目の届かない部分に気を配るのが、僕の仕事だ」

「わかりました。天野と裕理さんの相手はお任せします」

「南は、間違いなく今大会最強のスプリンターだ、片手間に相手をして勝てる相手ではない」

「佐賀は仕掛けてくるでしょうか」

「仕掛けては来るだろう。だが影響はない。佐賀の影響を考えなければならない事態というのは、今日のステージで、天野が南に先着するという事だ。その可能性は低い。僕が可能性が低いという事は、確率で言えば限りなく0に近いと思ってくれて」

「はい」

 こういう嘘を平気な顔でつけるようになった。

 天野が早めに仕掛けて全選手を出し抜く可能性は、大いにあった。だが冬希には南に集中してもらう必要があった。天野に対する対策がどうあれ、結局は冬希が南を倒してステージ優勝をしなければ、天野の順位に関係なく敗退が決まるのだ。

 今、潤がやらなければならないことは、冬希の気迫を沮喪させないことだ。

 肉体の疲労が極限に近かった昨夜、それに引きずられて気持ちも少し落ち込んでいるように見えた。人間とはそういう風にできている。

 今朝の冬希は、前向きな気持ちを取り戻しているように見えた。食事もいつも以上に摂れているようだった。この調子を維持してもらう必要がある。

「潤先輩にお任せします。俺は南を倒すことに注力します」

 潤は、冬希の方を叩くと、スタートラインに向かって行った。


 スタート地点は佐賀空港に近い。

 発着便はそれほど多くないため、普段から交通量はなく、道は長い直線となっている。

 冬希がスタートラインに向かうと、現地の高校生と思われる係員から、1台分空けられた通り道に誘導された。

 4賞ジャージでもない冬希が、スタートラインの前方に通される理由はないはずだが、断る理由もないので、気づかないふりをして前に行かせてもらうことにした。

 途中、見知っている顔に行き会った。

 愛知のメンバーが集まっている。

「青山さん、今日は俺は赤井先輩のアシストですよ」

「おい、永田。敵と仲良さそうに話すな。今日はそいつを何とかしないと勝ちは無いんだぞ」

 永田の横に赤井もいた。

 山賀もいる。冬希は軽く会釈した。山賀は軽く手を挙げてそれに応えた。

「今日はやっぱり、赤井でスプリント勝負か」

 冬希は言った。それ以外にないだろうが、これは半分赤井が言ったことに対する指摘に近かった。

「永田、赤井もだ。敵に作戦をばらすような事を言ってどうする」

 山賀が苦笑している。この最強の発射台がいる以上、赤井も注意すべき相手ではある。

 冬希は3人に挨拶をして、スタートラインの前方に向かった。

 植原の姿があった。左肩にはテーピングがしてあるのか、少しジャージが盛り上がって見えた。

 大丈夫なのか、と聞こうとしてやめた。大丈夫だと答えられるだろうし、そもそも大丈夫なはずがない。

「調子はどうだ、植原」

「今の僕にそれを聞くのか」

 植原は笑っていた。目の下に隈が出来ている。恐らく痛みで眠れなかったのだろう。それでもスタートラインに並んで冬希に笑顔を見せてくる。まさに鋼の精神力というべきか。

 顔色と表情が、不自然なほど一致しておらず、それが異様に冬希には見えた。

 強がっている。これ以上無理をさせられない。

 冬希は軽く手を挙げて挨拶だけし、メイン集団の先頭まで辿り着いた。

 総合リーダージャージに身を包んだ天野は、こちらを一切見ようとしない。

 スプリント賞ジャージを着用した南は、こちらを睨みつけていた。

 頬がこけ、目の周りは黒ずんで、眼光だけが鋭い。

 恐ろしいまでの気を放っている。そしてそれは空気の流れを伴うのかという程に冬希に向けられていた。

 冬希は正面からそれを受けた。

 一瞬、真理の顔が思い浮かんだ。応援するという言葉も。

 恐れるものは何もない。

 自転車ロードレースとは、お互いの気持ちの弱さを咎めあう戦いだ。

 今日まで冬希は、南に一度も勝ててはいなかった。

 しかし、負け癖がついてしまような苦手意識などはない。

 負けることには慣れていた。柔道ではずっと負け続けていたのだ。

 しかし、自転車に乗るようになって分かったことがある。

 勝負に負けることは、恥などではない。

 負け続けていても、己の中に蓄えられている何かはあるのだ。

 冬希は、己の気が充実していることを感じていた。

 すべては今日、この時のためにあったのだ。

 冬希は、南を見返した。今、喜びすら感じている。

 まもなく大会関係者によるブリーフィングが始まり、二人は、ほぼ同時にを外した。

 パレードランが終わり、アクチュアルスタート。

 一気に集団のペースが上がった。

 スタート直後に前方に位置していた選手たちが、ぽろぽろと零れるように後方へ脱落していく。

 彼らは、最後のステージでアタックを決めて、一花咲かせようとしていた連中で、アタックしようにも集団のペースが速くなりすぎて、アタックをかけることもできずに、力尽きて後方に下がっていったのだろう。

 集団前方は、単独でアタックをかけたい人間が、結果団子のような状態でペースを押し上げていた。それも長くは続かず、一人、また一人と力尽きて下がっていく。

 人数は格段に減っていき、散発的にアタックが行われるが、それをスプリンターを擁する福岡と愛知、それに総合リーダーの佐賀が追いかけて、潰していった。

 冬希は、違和感を感じていた。

 愛知、福岡の動きは、逃げ切りもありうる強力な選手のアタックを潰しに行こうとしている。しかし、佐賀は、到底逃げ切ることが不可能だろというような選手のアタックも、片っ端から潰していった。

 潤が冬希の方を振り返った。

 視線が合う。同じく違和感を感じているようだ。

「何があっても絶対に動くな」

 潤が、メンバー全員に聞こえるように言った。

 一瞬、伸びきっていた集団がまとまろうとした。

 絶妙のタイミングで、一人飛び出した。

 茨城の牧山だ。

 上手い、これは追いづらい。

 冬希も舌を巻くようなタイミングでのアタックだ。

 続いて一人飛び出した。

「馬鹿な」

 総合リーダージャージ。天野だ。

 牧山に追いつくと、そのまま二人でメイン集団を引き離しにかかった。

 怒号が飛び交う。

 メイン集団は混乱している。

 とっさに柊と伊佐が追いかけようとする。

「右斜め前方」

 二人とも足を止めて、潤の言った方を見た。冬希も見た。

 全員、潤が何を言わんとしたのか理解した。

 坂東裕理が、じっと息をひそめてこちらを動きを観察していた。

 こちらの動きを見極めようとしているようだった。

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