第376話 荒木真理
ローラー台で長めのクーリングダウンを行った。
フィニッシュ後より、多少体は軽くなったが、まだ気怠さが抜けず、冬希はホテルのベッドで大の字になった。
ドアがノックされ、伊佐が扉を開けた。
「おい、飯に行くぞ」
柊が、ドアの前で言った。向こう側には潤もいるようだ。
伊佐、それに竹内も、冬希の方を振り返った。
「先に行って食っててくれ」
冬希は、ひらひらと手だけで合図をした。
「冬希先輩。夕食のチケットはテレビの前の置いておきます」
伊佐も竹内も、部屋から出ていった。必要以上に構わずに行ってくれるのは、正直なところとてもありがたかった。
「ここのビュッフェは美味いぞ。まあこれはクライマーの勘だがな」
クライマーは関係ないだろ、と頭の中だけで柊にツッコミを入れた。
少しでも眠ろうかと両眼を閉じた。
体は疲労の極致と言っていい状態だが、神経が高ぶっていて眠れない。疲れすぎて逆に眠れないこともあるのか。
ここまで疲れていて、さらに一睡もできないとなると、明日まともに走れるはずもない。
「困ったな」
口に出して言ってみた。物事を深刻に考え無くない時、冬希は時々そうする。
スマートフォンが振るえた。
くねくねと体をうねらせながら、なんとか手が届くところまで移動し、手に取った。
柊からのメッセージが届いていた。
美味いぞ、という一言に、空っぽのお皿の写真がついていた。
「何が美味かったかわからないじゃないか!」
スマートフォンを放り投げようとすると、もう一通のメッセージが届いていた。
文字はなく、可愛いねずみだかくまだかわからない白い顔の画像が届いていた。
ちいかわのスタンプだ。
思い人である荒木真理とやり取りする際、真理も冬希も、時々ちいかわのスタンプを使っていた。
ちいかわの絵には、
「!?」
とだけ付いている。恐らく、こちらの状況を心配してくれているのだろう。
真理は、どれだけ心配しているかを長文にしたためて送ってくるようなタイプではない。そこはありがたいところでもあった。
どう返事をするものか、冬希は考えた。
泣き言を直ぐに口にしたりはしないが、強がるほどの抵抗力も残ってはいない。
冬希は、二日酔いの『くりまんじゅう』というキャラクターのスタンプを選んで送った。無表情だが、顔色は悪い。まさに今の自分の状態を具現化した存在だ
苦しいとか、辛いとか、一度言葉にしてしまうと、今までギリギリのところで繋ぎとめてきた気持ちが、一気に切れてしまいそうな気がしていた。
そういう意味では、言葉にせずに状況や感情を伝える手段があるという事は、大いに助けとなっていた。
上手く伝わったかな、と思っていると、すぽん、という間の抜けた着信音がして、またスタンプが届いた。頭からかぶるパジャマを着たちいかわのスタンプだ。
すぽん、すぽん、と立て続けに6つ届いた。
『ちいかわちゃんが7つ集まると、神龍が現れて、願いを聞くだけ聞いてくれます』
冬希は声をあげて笑った。
「聞くだけ聞いてくれるって、聞く気がない時にいう奴じゃないか!」
目からわずかに涙がこぼれた。
すぽん、と音がして、7つ目のスタンプが届いた。
冬希は、たまらずに真理に電話をかけた。
「もしもし」
『冬希君?こんばんは』
「7つ集まったんだけど」
『じゃあ、願いを言うだけ言ってみてください』
冬希は言葉に詰まった。少しの間考えたが、願いは一つしか思い浮かばなかった。
「じゃあ、明日応援に来て」
『え、行くよ。吹奏楽部で行くって、冬希君も知ってるでしょ』
真理の笑い声が心地いい。
明日、真理たちが応援に来ることは当然、冬希も知っていた。だが、本当にそれ以外に、真理にやってほしいことなど思い浮かばなかったのだ。
「吹奏楽部は、自転車競技部の応援でしょ。俺個人の応援に来てくれるわけじゃないんじゃないかな」
『冬希君の応援がメインじゃないかな。総合優勝争いしてるし。わかんないけど』
「わかんないのか」
自分だけを応援してほしい。その聞き分けのない子供のような願いを、冬希は、言おうか言うまいか迷っていた。
『でも、少なくとも私は冬希君の応援をするつもりだよ。冬希君が優勝して喜んでいる姿を、私は見たいからね』
冬希は、言葉を失った。
愛という言葉を理解するには、早すぎるのだろう。しかし、優勝する姿が見たい、というのではなく、優勝して喜ぶ姿が見たい、という言葉に、自分が如何に大切に想われているか、という事が伝わってきて、心の奥の方に、温かい気持ちがこみ上げてきた。必死で抑えなければならない程に。
『どうしたの?』
心配げに真理は聞いてきた。
「勝つよ。自分で想像していたより、勝ちたかったんだなと、思っていたところだよ」
『うん、でも無理は駄目だよ。怪我もしないようにね』
「わかった」
『そして、一緒に帰ろう』
真理の、帰ろう、という言葉に、冬希は強く惹かれていた。
ずっと戦いに明け暮れていた。
植原、黒川、天野、そして南らとの戦いは、充実したものではあったかもしれないが、同時に冬希の精神をとてつもなく疲労させていた。
真理に会いたい、家に帰りたい、という気持ちは、日を追うごとに強くなっていたようだ。そしてようやく帰れる、という事実が、冬希の最後の闘志に火をつけた。
「うん、帰ろう」
冬希は言葉少なに言ったが、そこには強い意志が込められていた。
通話を終えた。真理は明日早朝から移動で起きるのも早いらしい。
どうせ帰れるなら、勝って帰ろう。
明日、真理たちがどのあたりにいるか聞くのを忘れていた。しかし、それを今更確認しようとは思わなかった。
きっとどこにいてもわかるだろう。
見つけ出せる。
そんな気がしていた。
明日、応援に来てください。
冬希は、あらためて真理にメッセージを送った。
『おやすい誤用だ』
「字、ちげえし!」
中学の頃、二人で過ごした時間が思い出された。
2年生の頃、同じ班になって、一緒に給食を食べた。
修学旅行のバスで、じゃんけんで負けて補助席になった隣に真理がいて、二人でずっとしりとりをしていた。
3年になり、別のクラスになって会う機会は激減したが、偶然同じになった委員会で会えた時間は宝物だった。
部活帰り、校門で偶然一緒になって、遠回りであったが、暗い夜道で他愛のない話をしながら帰った。
思えば、途方もなく遠くまで来てしまった。
彼女とのつながりが切れるのが怖かった、という理由だけで、同じ高校に通うために始めた自転車競技。
植原、黒川、天野、南。
そういう化け物たちと、なぜか日本一を賭けて戦っている。
どうしてこんなことになったのか。
この1年半ぐらいを思い返してみても、どうしてそんな状況になったのか、原因にまったく心当たりがなかった。
きっと助平な理由で、自転車ロードレースなどに手を出した報いなのだろう。
自然と笑みがこぼれた。
彼氏が全国優勝したってなったら、ちょっとは自慢できるだろうか。
真理は、そういう性格ではないかもしれない。
冬希が喜ぶ姿が見たいと言った。
彼女が見たいのなら、いくらでも喜んでみせたい。
それには、まず勝つことだ。
部屋の扉の向こう、廊下の方から柊の声が聞こえてきた。
その時、冬希は初めて自分のお腹が空いていることに気が付いた。
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