第373話 全国高校自転車競技会 第9ステージ⑨

 号砲は、冬希に天野のステージ優勝を告げるとともに、音が、つまりはフィニッシュラインがそこまで遠くないことも教えてくれた。

 右手に風車、正面には小屋のようなものが見える三叉路を過ぎてからは、むしろ下り基調だ。

 冬希は、わずかに残っていた、とっておきの脚を使った。後ろで、黒川がわずかに遅れる気配がした。

 残り200mの標識。

 下り勾配。ペダルを踏まなくても進む。その間にわずかに息を整える。

 黒川。並びかけてくる。しかしここまで来れば平坦のゴール前と同じだ。

 冬希は下りスプリントを開始した。一気に突き放す。

 既にフィニッシュラインのゲートは見えている。ゴールが、さらにその先100m先にあるかのように、冬希は踏み続けたままフィニッシュラインを通過した。

 運営のスタッフらが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 冬希は、ゲートの先に続く上り坂に差し掛かった勢いで減速した。

 苦しさに、もう耐えられない。

 冬希はバイクを道の横にある斜面に、ほとんど放り投げるように立てかけると、地面に大の字になった。

 背中に固いものが当たる。サイクルコンピュータだ。背中に当たる感触が気になり、自転車の方に放り投げた。

 へえ、へえという情けない声が出た。声を出すと、苦しさが幾分誤魔化される気がしたのだ。早く苦しさよ去れ、と思いながら、荒い呼吸を繰り返した。

 運営のスタッフが、冷たいペットボトルの水を差しだしてくれた。

 冬希は、それを受け取り、蓋を獲ると口には運ばず、顔、そして首のあたりにかけた。体を冷やすときは、内側からではなく、外側から冷やさなければならない。

 呼吸が少しだけ楽になり、冬希は体を起こした。

 ゆっくりした足取りで、黒川が歩み寄ってきた。伸ばされた手を冬希が握ると、一気に引き起こされた。どこにそんな力を残していたのか、信じられない。

「魂が振るえるような勝負であった」

「震えるどころか、昇天するかと思いましたよ」

「死地、死域ともいうらしい。生と死の間にある。足を踏み入れてみて、己の限界が少しだけ鮮明になったという気がする。お前の死域と俺の死域がぶつかり、お前が勝ったということだ」

「黒川さん。一回の勝負にそれほど意味があるのでしょうか。タイミングによっての調子や、その時の感情、どれほど体が仕上がっているかなど、同じような勝負を何回かやったとして、常に同じ結果になるとは思えないのです」

「勝たなければならない勝負に勝てるか。それによってその男の強さがわかると俺は思う。2度目がない勝負など、いくらでもあるのだからな」

 歓声が上がった。冬希が視線を向ける。

 天野が佐賀大和の部員らしき仲間から、祝福を受けていた。

 場内放送では、天野が総合タイムで逆転し、総合リーダーとなったということを告げていた。

「黒川さんと、結構なハイペースで飛ばしていたと思うのですが。それこそ普段では出せないほどの」

「軽量ロードの力だけでどうか、というものでもなかったのだろう」

「最後は、500mぐらい下りでした。しかし差が詰まりませんでした」

「ああ、追いつくどころか、そこまでタイム差を縮めることもできなかった。あの男も並の選手ではなかったという事だな」

 少しずつ、選手たちがゴールし始めた。

 千秋がゴールし、柊がフィニッシュライン向こう側に見えていた。植原も永田も姿が見えない。

「全てを出し切れた。お前に負けたおかげで、視界が開けた。チームで走るという事も、わかった気がする。色々と考えてみたいということが増えた。多田とも多くの事を語ってみたい」

 黒川は、冬希に背を向けて走り去っていった。

 明日、黒川は走らないつもりかもしれない、と理由もなく冬希は思った。

 黒川が居なくなるのを待っていたのか、すぐに柊がやってきた。

「冬希、だいじょうぶか」

「見ての通り、虫の息ですよ、柊先輩」

「虫のくせに偉そうだな、殿様バッタか」

 トノサマバッタは、別に偉そうにしているから、そういう名前になったのではないはずだが、それを口にする元気は冬希にはなかった。

「結果は、どうなったんだ」

「負けましたよ」

「負けたことはわかってるんだよ。タイム差はどうなってるんだ」

「まだ確認していません」

「呆れたやつだな。確認してきてやるよ」

 だが、柊が確認に行く前に、潤がやってきた。

「26秒。今日のステージの天野と冬希のタイム差だ」

 潤は、さらっと言った。その表情には、喜びも絶望もない。どういう状況なのか読めなかった。

「えっと、どういう計算になるんでしたっけ」

「単純にタイム差だけなら、天野に3秒差で逆転されたことになる。これにステージ1位の天野のボーナスタイムが10秒、冬希が2位だとしたらボーナスタイム6秒で、ボーナスタイムだけで4秒差が加算される。総合タイム7秒遅れになる」

「大きく離されはしませんでしたが、微妙なタイム差ですね」

「明日の最終ステージ結果次第でまだ十分逆転は可能だ。明日は平坦のスプリントステージで、総合タイムが同タイム扱いとなる集団でのゴールの可能性が高い。冬希がステージ優勝して、天野が4位以下なら、ボーナスタイムによる逆転で総合優勝が可能だ。冬希がステージ優勝しても、天野が3位以内の入れば、天野にもボーナスタイムが入るので、その場合は天野が総合優勝だ。ただ、天野はスプリンターというわけではないという点ではうちが有利だ

「天野の3位以内を狙う場合、佐賀は何か手を打ってくるでしょうね」

 冬希は考え込んだ。柊はあっけらかんとしている。

「第8ステージみたいに、集団スプリントでもタイム差をつければいいだろ。なんとかなるんじゃねえか」

 第8ステージでは、冬希はそれが出来るというところを見せてしまった。佐賀は何かしら対策をしてくるだろう。そういう意味では、手の内を明かしてしまった部分は否めない。

 徐々にあたりは暗くなり始め、ゴールゲートの電光掲示板に表示された時計は、タイムアウトの時間が迫っていることを示していた。

 永田は既にフィニッシュラインを通過し、植原もかなり遅れながらも、チームメイト達と共にフィニッシュラインを通過し、冬希を安心させた。

 千葉で言えば、竹内と伊佐は既にゴールしている。

 一般道を使用してのラインレースは、道路規制の時間にも制限があるため、先頭がゴールしたタイムの11%が足切り基準となる。

 天野が2時間36分でゴールしたため、制限タイムは天野がゴールしてから18分と設定された。

 タイムアウトまで残り30秒を切った時、10名ほどの集団がやってきた。

 冬希は戻ってきた選手たちの顔を見た。

 見覚えがある。有馬、それに体の大きな男、南龍鳳もいる。

 制限時間内にゴールした。

 その後、残り4~5名も滑り込んだ。これ以降は失格、明日の最終ステージにスタートラインに並ぶことはできない。

「おい、南が残っちまったじゃないか。明日どうするんだ」

 柊が溜息交じりに言った。

「冬希は、南とは決着をつける必要があるということだ。そういう巡り合わせなのだろう」

 潤が笑みを浮かべながら言った、気休めではなく、本気でそう思っているようだ。

「宿運というものかもしれませんね」

 竹内が言った。冬希にとっては竹内が居なければ、南と戦っても勝機などない。

 しかし南がタイムアウトにならなかった事で、明日の最低条件である、ステージ優勝の難易度が格段に上がったというのは、間違いない事だ。明日のコースには、南を置き去りにできるような上り坂は、設定されていない。

「体がきつすぎて、一人で歩けない。竹内手伝って」

「わかりました」

 竹内が冬希に肩を貸してくれた。

 伊佐は、自分のバイクと竹内のバイクを片手ずつで支えている。

「しかたねぇな。お前のバイクは俺が持って行ってやるよ」

 柊が、道の脇に雑に置かれた冬希のバイクを取りに向かった。

「柊先輩」

「なんだ、礼なら明日勝ってからでいいぞ」

「バイクの近くにサイコンも落ちてると思うので、ちゃんと拾っておいてくださいね」

「なんで偉そうなんだよ!」

 文句を言いながらも、律儀に草むらを探し、サイクルコンピュータを拾ってくれた。

 殆どの選手は自走で、待機所や、表彰式が行われるステージが設置された公園まで下っていったが、疲労が著しかったり、負傷している選手は、マイクロバスでの輸送も行われていた。

 竹内に支えられながら、冬希もマイクロバスに向かおうとしていたが、竹内に救護所に寄るようにお願いをした。

 氷嚢で肩を冷やしている植原がいた。東京代表、慶安大付属のチームメイトも全員いる。

「君は何故、僕より重症そうなんだ」

 竹内に支えられた冬希を見て、植原は笑った。それを見た冬希は、少し安心した。

「とりあえず、明日に望みをつないだと言っていい状況だ」

 冬希は言った。植原が引っ張り上げてくれたおかげなのは間違いないが、感謝の気持ちを伝えるのは、失礼に当たると思った。植原はともかく、彼のチームメイトは、決して冬希のために走ったわけではないのだ。

「明日は走れそうか、植原」

「痛み止めを飲めば、1ステージぐらいは大丈夫だろう。序盤少し走ってみて様子を見るつもりだ」

「序盤は、そこまで激しい展開にはならないだろう」

「君がそう思っているのなら、彼らはあえて仕掛けてくるかもしれないな、青山」

 自分よりも植原の方が、今のプロトン全体の事が見えているのかもしれない。

 運営のサポートカーに自転車を乗せてもらった潤と柊、それに伊佐もやってきた。

 表彰式が始まるので、対象の選手は早めに下るように、と場内放送が繰り返している。

「柊先輩、今日俺はなんか表彰対象でしたっけ」

「なんもないよ、すっからかんだ。ばかやろう」

 笑いが起こった。冬希も笑った。

 総合リーダーの座は失った。

 だが佐賀もすべての手札を使い切ったのだ。

 冬希の心の中に不思議と、分が悪い、という気持ちはなかった。


■第9ステージ

1:天野 優一(佐賀)411番 0.00

2:青山 冬希(千葉)1番 +0.26

3:黒川 真吾(山口)351番 +0.26

4:千秋 秀正(静岡)221番 +1.12

5:平良 柊(千葉)4番 +01.18

6:永田 隼(愛知)235番 +2.24


■総合

1:天野 優一(佐賀)411番 0.00

2:青山 冬希(千葉)1番 +0.07

3:黒川 真吾(山口)351番 +0.24

4:永田 隼(愛知)235番 +3.02

5:植原 博昭(東京)131番 +8.11

6:三浦 新也(神奈川)141番 +10.39


■山岳賞

1:千秋 秀正(静岡)221番 25pt

2:植原 博昭(東京)131番 16pt

3:青山 冬希(千葉)1番 13pt

3:天野 優一(佐賀)411番 13pt

5:黒川 真吾(山口)351番 10pt

5:平良 柊(千葉)4番 10pt


■スプリント賞

1:南 龍鳳(宮崎)455番 205pt

2:水野 良晴(佐賀)415番 167p

3:立花 道之(福岡)401番 154pt

4:赤井 小虎(愛知)246番 145p

5:青山 冬希(千葉)1番 100pt


■新人賞

1:永田 隼(愛知)235番 0.00

2:竹内 健(千葉)5番 +11.36

3:村岡一行(鹿児島)465番 +40.22

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