第372話 全国高校自転車競技会 第9ステージ⑧

 黒川は、手を挙げ、原因を確認するため、モトバイクに近づいた。

 冬希は、この間に仕掛けたりせず、静かに見守っている。

 モトバイクに乗る運営の説明では、制限時間ギリギリのグルペットの中にいたところ、グルペットのペースにもついていけなくなり、単独走行になった。そして、制限時間内でのゴールを諦め、バイクを降りることを決めたようだ、という内容が無線で流れてきたとのことだった。

 グルペットは、集団から千切れた選手たちが集まり、制限時間内のゴールを目指す集団だ。いくら力を使い果たしたとて、多田がそんなグルペットから遅れるとは考えにくい。

 グルペットの中で、何かが起こったのだろう。

 冬希が、心配そうに黒川を見ている事に気が付いた。

「多田がリタイアした。明日はあいつなしで走らなきゃならん」

「はい」

「青山、悪いが今日、決着をつけるぞ」

 黒川は、加速した。

 決着を急がなければならない。多田はもういない。明日の勝負はないのだ。

 冬希も、食らいついてくる。

 黒川の感覚では、アタックを駆けるにはまだ早い。だが、実力以上の走りをしなければ、この男とは勝負にはならないだろう。それほどの男なのだ。

 冬希に出会った、12月の全日本選抜の時のことを思い出す。暴力沙汰を起しそうになった時、仲裁に入ったのが青山だった。

 黒川は子供のころから腕っぷしが強く、そのことを隠そうともしなかったので、周囲からは敬遠されていた。気に入らないことをいう奴が居れば、力づくで黙らせるようなことも、当たり前にやってきた。

 冬希に興味を持ったのは、この男が、まったく強そうに見えなかったからだ。

 光速スプリンターと呼ばれる高校自転車界の強豪選手であるにもかかわらず、まったく笠に着たりせず、柔道で鍛えられた体感や腕力の強さを持ち、チンピラ程度なら片手でひねることが出来るであろう強さを持ちながら、それを自分からひけらかすこともなく、謙虚な態度を崩さなかった。

 それは黒川にとって、まったく知らない種類の強さと言ってよかった。

 力を持てば、誇示するしたくなる。自分を含め、人間というのはそういうものだ、と黒川は思っていた。その認識を改めざるを得ない、自然体な冬希の在り様に、黒川は人としての魅力のようなものを感じていた。

 これは、どれほどの男だろうか。底が見えない。

 どうすれば、この男の本質を知ることが出来るのだろうか。

 馬鹿げた話だ、と黒川は思った。どうすれば、などと言ってはいるが、結局冬希と戦えるものは自転車しかなく、自分に出来る事と言えば、自転車ロードレースしかないのだ。

 この男の事を知りたくなった、ただそれだけの話なのかもしれない。

 しかし、Jプレミアツアーで2年にして総合優勝を遂げてしまい、代り映えしないメンバーで、もう一年走り、連覇を目指す、などというより、ずっと前向きな目標を見つけたように、黒川には思えた。それは、灰色の視界に射した、一筋の光ようにも見えた。

 ユースチーム離脱を決めた時、チームメイト達は、強力なライバルがいなくなり、喜んだのではないか、監督も、前向きに送り出した。素行に問題がある黒川を放出できることが嬉しかったのだろうと思った。

 多田は、黙ってついてきた。もともと、ユースで活躍してコンチネンタルチームに昇格したいという気持ちも持っていなかった。ただ、黒川が行くところには、いつもついてきてくれた。

 多田は、チームメイトから、黒川と一緒に出ていく理由を聞かれた時に

「友達だからだ」

 とだけ言ったのだと、別のチームメイトが教えてくれた。

 その言葉を聞いた黒川は、多くのことを考えた。

 友達というのは、様々な形はあるのかもしれないが、少なくとも黒川と多田について言えば、一方的に多田が自分を犠牲にしてくれていた、という気がする。

 黒川が迷えば多田は助言し、牽引し、ボトルや補給食も、全て持ってきてくれていた。

 特に、今大会では驚くべきことに、それを9ステージもやってきたのだ。たった一人でだ。

 多田が居ない時、どう走っていただろうか、と思った。

 全てのレースで、ゴールギリギリまでアシストしてくれていたわけではなかった。上りの途中で千切れる時は、そこからゴールまでは黒川一人で走った、そんなことなど幾らでもあったの筈だった。しかし、黒川はその時にどう走っていたか、もう思い出せなくなかった。

 サイクルコンピュータから、心拍数が設定値を超えた警告音が鳴り始めた。

 黒川は、どういうわけか、どれほど全力で走っても心拍数が高くならない体質のようであった。実際、サイクルコンピュータが鳴ったのは、これが初めての事だ。

 黒川は、警告音を鳴らすサイクルコンピュータに目をやった。パワーや心拍数が、もう止めろ、と言っているようだった。

 黙って、ハンドルの向こう側にあるマウントからサイクルコンピュータを剝ぎ取った。落下防止のストラップごと引きちぎり、力任せに地面に叩きつけた。

「ここからは、こんなものは邪魔なだけだ」

 冬希が、唖然とした表情でこちらを見てきた。

 心に沸き上がっていた怯懦は追い出した。

 これが俺、黒川真吾という男のあるべき姿だ。

 心の底から、歓喜が湧き上がってくるのを感じた。


 サイクルコンピュータを地面に叩きつけた黒川を見て、自分はゴリラか何かを相手にしているのだろうか、と冬希は思った。

 急に体が軽くなったかのように、黒川がダンシングで加速する。

 数値に縛られなくなり、嬉々として走る黒川を、冬希は必死に追いかけた。

 追いつき、前に出る。

 黒川が、冬希と着けたがっている決着がどういうものなのか、冬希には想像もつかなかった。ただ、単純にフィニッシュラインを先に通過したほうが勝ち、というようなものではない事だけはわかった。

 黒川が前を牽いた分は、自分も牽かなければならない。そうしなければ、対等な力を示せない気がしていた。

 昨年、冬希は全国高校自転車競技会、全日本選手権、インターハイ、そして国体のブロック大会まで、数多くのレースに出てきた。黒川も同じく、年間を通してJプレミアツアーや全日本選抜を戦ってきただろう。同じく戦いずくめの日々だったのだとしても、黒川の方は、自分を見失わないための戦いだったのではないかと、冬希は思っていた。

 黒川の、大柄な背中を追っていると、一人で走っているより高い出力であっても、苦しさは感じなかった。

 この男が、自分の目標とする姿ではないだろうか、と冬希は考えていた。

 重量級スプリンターのような体躯でありながら、坂もこれほど上れる選手がどこにいるだろうか。

 怪我で走れなかった時期に、冬希は神崎から、持久力と爆発力の関連性について説かれた。持久力を鍛えれば、爆発力は衰え、爆発力を鍛えれば、持久力は失われていく。冬希の場合は、まだ持久力に伸びしろがあり、体を絞りつつ、持久力を身に着けるというものであった。体を絞れば、それだけペダルに乗せられる体重も減るため、爆発力は多少減るだろうという点は、指摘されていたことだった。

 目の前を走る黒川は、どちらも限界まで鍛えられており、持久力と爆発力のバランスもオールラウンダーとして最適なものとなっているように見えた。

 もしかしたら、黒川はどんな競技も、全国トップクラスの結果を残せるような男なのかもしれない。

 冬希は、脚を使わぬよう、軽めのギアでハイケイデンスで走ってきた。呼吸は苦しいが、黒川の後ろに入ったタイミングで、少しだけ息を整える、という事をやってきた。しかし、それも限界に達してきていた。ペースが速すぎて、追いつかなくなってきたのだ。

 最後にスパートをかけるために貯めていた、とっておきの脚を、少しずつ切り崩すように使い始めた。

 黒川の前に出る。

 サイクルコンピュータを見る。

 計算では、ゴールまでもつペースではない。つまり、今まで練習も含め、このようなペースで走りきれたことがないのだ。

 冬希は少し考えると、サイクルコンピュータを外し、丁寧に落下防止ストラップを外すと、背中のポケットに放り込んだ。

 黒川の言っていた意味が分かった。自分を限界を示し続けていたものがなくなり、信じがたいことに楽しいと感じ始めていた。

 限界というのは、その場その場によって変わるものであり、数値だけで判断できるものではなく、自分だけが知っていればいいものなのだ。

「いいぞ青山。俺は愉しい。限界というものは、生と死の間にあるものなのだな」

 黒川の表情は、狂気すら感じる。だが、自分もその領域に足を踏み入れようとしているのだ。

 冬希と黒川が入れ替わるスパンが短くなってきた。

 もう、呼吸を整えるなどということも、できなくなっていた。

 酸素が獲りこめているかどうかすらわからない。ただ横隔膜を動かし、空気を肺に取り込んでいるだけの状況であり、ちゃんと呼吸が出来ているのかもわからない。自分ではわからないのだが、ちゃんと呼吸できている、と信じるしかない。

 二人が横並びで走るようになっていた。

 冬希は、黒川という男に、失望されるような結果にだけはしたくないと思うようになっていた。つまりは認められたい、ということなのだろう。それには、完全な形で、理想のオールラウンダーの完成形のような男を倒さなければならない。

 苦しさについて、考えることを止めた。ただ、黒川の前輪の位置だけを見ながら走った。

 ゴールはまだ見えない。流石にもう無理か。

 ふと、山を見上げる。

 一瞬、空気が止まったように感じた。

 次の瞬間、炸裂音が山の中に響き渡る。

 それは、先頭の選手がフィニッシュラインを通過したことを知らせる、号砲だった。

 第9ステージ、天野がステージ優勝を決めたのだと、冬希は知ることになった。

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