第371話 全国高校自転車競技会 第9ステージ⑦

 追走グループから、植原のゼッケン番号が消えた。

 2nd 1、351 +27

 冬希と黒川が残った。

 千秋も、並ぶ間もなく二人に抜き去られた、ということだろう。

 既に3番手以降の表示はない。たまに、リタイアした人間がDNFの欄に書き出される程度だ。

 それにしてもどういうことか。さらに差が縮まっている。

 後方で、何が起こっているか、天野には全く理解できなかった。一つ確かなのは、こちらは脚を使い切ったわけでもない、軽量ロードの特性を生かして、ハイペースを維持しているにも関わらず、差を詰められている、ということだけだ。

 様々なグループが作られ、無くなっていく中で、ひとり宙に浮いたような形で走ってきた。

 自分のペースが本当に速いのかどうかも、わからなくなってきていた。

 早々にアシストの水野を使ってしまったのが、痛かった。

 プレッシャーと孤独の中で、歯を食いしばりながら走ってきた。焦ってペースを上げようとする心を、理性で無理やり押さえつけた。

 今朝のスタート時点での、冬希とのタイム差は23秒遅れ。

 明日の最終ステージが、集団ゴールが濃厚な平坦ステージとなっているので、ほとんど今日のステージで決着がつくと言っていい。

 ただ、今日終了時点で、23秒差を1秒でも逆転すれば勝ち、というような単純な話でもない。

 相手はあの光速スプリンターだ。

 明日、ゴールスプリントで3位以内に入り、ボーナスタイムで逆転される可能性は十分ある。

 佐賀大和高校の選手の中に、青山冬希に対抗しうるスプリンターなど居はしない。

 プロトン全体で見ても、宮崎の南龍鳳ぐらいであろうが、今日の1つ目の小石川峠の上りから遅れ始め、グルペットに入っている体たらくだ。制限時間内にゴールして明日スタートラインに並ぶ可能性は、極めて低いだろう。

 安全圏としては、今日終了時点で10秒以上離す、ということになる。

 今日のステージも、当然フィニッシュ順位によるボーナスタイムはある。

 1位-10秒

 2位-6秒

 3位-4秒

 逆転プラス安全圏までの10秒で、33秒離してゴールするには、ステージ優勝でのボーナスタイムの獲得はもちろん、さらに23秒は離して勝たなければならない。

 さらに、冬希がこのステージで2位や3位に入った場合、冬希自身もボーナスタイムを獲得するため、天野はさらにそれぞれ6秒、4秒とタイム差を稼ぐ必要がある。

 自分は、何と戦っているのか、と思い始めている自分がいた。

 前を見ても、後ろを見ても、敵など見えはしない。

 ただ、パワーメーターと、モトバイクが教えてくれるタイム差だけが、自分は戦っているという現実に、意識を引き戻してくれた。

 二つのものと戦っている、と天野は思っていた。

 一つは、冬希と黒川だ。

 だが、二人に追いつかれぬよう、目一杯の力で逃げればいい、という単純なものでもない。

 ヒルクライムというものは、ペース配分を間違えて、途中で力を使い切ってしまえば、ビタッと脚が止まってしまう。

 下りであれば、ペダルを踏まなくても進むし、平坦でも、足の重さを利用した踏み方をすれば、力を使い果たしたとて、まったく進まないということは無い。しかし、上りは重力に逆らってペダルを踏まなければならず、脚の力が枯渇してしまえば、前に進むことなどできないのだ。

 そうならないために、天野が戦っている二つ目の敵が、自分自身の心の弱さだった。

 天野は、冬希を追う立場だ。

 冬希は、総合タイム1位で、総合リーダージャージを着用している。

 にもかかわらず、このステージ中に天野は冬希より27秒のタイム差をつけたことにより、事実上冬希から追われる立場になっていた。

 馬鹿げた話だ、と天野は思う。

 実際に総合リーダージャージを着用する、という栄誉にあずかることなく、気が付けば、追われるもののプレッシャーだけを受けている。

 だが、これが自転車ロードレースなのだ。

 総合優勝が目の前に転がっている。そう思えば思う程、頭がおかしくなりそうな重圧が襲ってくる。そして、勝利がとてつもなく遠くにあるように思えてくるのだ。

 天野は、幾度もそうしてきたように、心を無にして、ペダルを踏み続けた。


 黒川は、冬希と先頭交代しつつ椿ヶ鼻を上り続けていた。

 幸いなことに、ある程度の速度域を保ちながら走り続けているため、ドラフティング効果を得られている。

 千葉の選手間の話では、先頭を走る天野は、限界までに軽量化されたバイクに乗り換え、上りでアドバンテージを得ているという事。しかし、そこまで差は無いだろう、と黒川は思っていた。無論細かい計算しての話ではない。

 黒川が冬希に話したのは、全く別の事だった。

「千秋の奴、ずいぶんあっさりと引き下がったな」

 少し前に、千秋を抜いた。往生際が悪い男、という印象を持っていたため、あっさりと抜かれていったことに、少々拍子抜けした。

「彼は山岳賞目当てですからね。我々の中に植原が居ないのを確認して、安心して下がっていったのでしょう」

 植原と千秋は、山岳ポイントで並んでいたということだ。

 千秋は序盤の小石川峠で山岳ポイントを獲得し、植原をリードしたが、椿ヶ鼻のゴール順次第では、植原に逆転される可能性もあった。

 明日は平坦レースで、山岳ポイントは設定されていない。

 千秋にとっては、今日負ければ、明日はないのだ。

 ユースのJプレミアツアーでも、山岳賞やスプリント賞などは存在したが、黒川はそのあたりについて、あまり深く考えたことは無かった。

 すべてのレースで、自分が勝つという事を考えていたので、他の選手が何を目的としているか、気にならなかったのだ。

 天野は、淀みのない、見事なまでの一定ペースで逃げ続けている。

 面白みがない、と言えばそれまでだが、強い自制心がなければ成しえないことだということは、黒川にもわかっていた。

 自分たちとて、ハイペースでここまで登ってきたが、ずっと風を受けながら走ってきたわけではないので、天野よりは脚に余裕があるはずだ。

 冬希との勝負を、可能な限り有利な状況で、明日の最終決戦に持ち込むため、どのあたりで仕掛けるべきか。自分の余力を感じながら、感覚を研ぎ澄ませてた。

 冬希は、多様なアシストたちに囲まれている。黒川にも、多田がいる。ユースの中でも最高のアシストだろう。平坦も牽ければ、山岳も上れる。万事、多田に任せておけば問題はないのだ。

 黒川は、一段ペースを上げた。冬希の脚の具合を確かめるためだ。

 事も無げについてくる。シッティングのままだ。

 黒川自身、調子は悪くない。冬希と走っていることで、苦しさが紛れているのか、ユースで走っていた時より、ずっと楽に上っている気がした。去年は、単独先頭で上るレースが多かった。

 前を走るモトバイクが、ホワイトボードの準備を始めた。

 黒川と冬希の視線が集まる。

 ホワイトボードが掲出された。

 黒川は驚愕のあまり目を見開き、冬希は沈痛は面持ちで目を伏せた。

 血の気が引いていく。

『DNF 352』

 何かの間違いではないか。

 自分自身のバイクのゼッケン番号も見直す。

 間違いない。

 それは、多田が今大会を棄権した事を意味していた。

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