第370話 全国高校自転車競技会 第9ステージ⑥

 何かがおかしい。そんなことがあるのか。

 天野は、モトバイクの掲示したタイム差に驚きを隠せなかった。

 追走グループに差を詰められた。

 椿ヶ鼻の上りに入れば、タイム差は開くことはあっても、縮まることは無いと思っていた。

 総合上位勢の乗るバイクに比べて、天野の乗るバイクは2㎏以上軽いだろう。

 ユースの王者である黒川、全日本選抜を圧勝した植原、光速スプリンターの青山。個々が最強のロードレーサーだが、上りで自分が彼らに劣るとは、天野は決して思ってはいなかった。実力が互角なのであれば、軽い方が有利なはずだ。

 差をつけすぎたか。

 天野が気になったのは、後続の連中に対して差が広がりすぎたため、協力して天野を追ってきているのではないかという事だ。

 永田のゼッケン番号は、既にホワイトボードには書かれていない。

 今朝のスタート時点で、永田は天野より30秒以上遅れていたため、総合優勝のためには天野に勝つことが必須条件だった。この距離で、このタイム差では、天野より総合タイムで上回っていた冬希、植原、黒川はともかく、永田の総合優勝は現実的ではなくなっていた。

 総合優勝の可能性がなくなった選手が、レースで何をしようと考えるか、天野には想像もつかなかった。

 諦めて、完走を目指して無難にレースを終えるだろうか。

 何かしらの爪痕を残そうとするだろうか。

「レースでは、見聞きし経験してきたものが終盤での走りに具現化される」

 去年の全日本選手権の終了後、当時のエースであった坂東輝幸が天野に言った言葉だ。

 天野には、その言葉が理解できなかった。

 国体で優勝した時にも、まだわからなかった。

 それがわからなかったのは、目の前になんらかの目標を持ち、走り続けていたからだったのではないかと、思い始めていた。

 勝つ、という目標が断たれた時、レースの中で何をするか。それこそが自分自身を具現化するということなのかもしれない。

 全日本選手権の時、パンクした坂東に天野は自分のホイールを差し出した。

 坂東は走り去り、天野は自分のレースは終わったと思った。しかしそのあとに追いついてきたサポートカーに、リタイアを告げるのではなく、ホイールを受け取って走り続けることを選んだ。

 あの時の自分は、完走を目指すのではなく、間違いなく坂東たちに追いつこうと、全力でペダルを踏んでいた。

 あの走りが、自分の在り様を具現化したものなのだとしたら、今のこの状況で、どういった走りをするべきであろうか。

 冬希、植原、黒川は、どういった走りを見せるのだろうか。

 天野は、目を閉じて余計な考えを振り払った。

 他の選手のことを考えるのは、自分の走りではないと思い定めた。

 焦らず、自分のペースを守ること。

 予定より、ずいぶんと脚を使わされていた。

 ここで焦ってペースを上げると、急な上りでピタッと脚が止まる危険性もある。

 そうなれば、35秒などというタイム差は、あってないようなものだ。

 自分のペースで上る。

 勝とうが負けようが、踏み続ける。全日本選手権の時と同じで、それが自分の在り様なのだ。

 大丈夫だ。ペダリングはまだしっかりしている。

 天野は、焦る気持ちを殺しながら、坂を上っていった。


 整復した左肩の痛みが、激しさを増していた。

 レース中に落車して脱臼したことは、初めてではない。その時は、大会の救護テントにつれていかれ、そこで整復してもらった。そして2週間は激痛が続いた。

 ロードバイクの左のレバーはフロントのギアの切り替えであり、勾配がきつい区間に入ってからは、軽い方のインナーに入れっぱなしでも問題はない。よく使うのは、リアの変速で使う右の方だ。その点については、脱臼したのが左で運がよかった、と植原は思った。

 落車からリスタートした時は、痛みこそあったものの、この程度ならまだ走れる、という感覚だった。今は、ゴールまで走り切れるかどうかも怪しい。

 ここまで、健常な時でも平気ではいられないようなペースで飛ばしてきた。各チームのアシストが、ここでレースを終える覚悟を決めているような、そんな気迫の走りだった。

 植原自身も、追走をするのにかなり無理をした。

 普通にダンシングをすると左手に痛みが走るので、右に重心を傾けた。その結果、右手の感覚はなくなってきて、バランスを悪い走りをしたためか、背中にも痛みが出始めた。

 満身創痍だ。

 ゴールまで残り3㎞。

 果てしなく遠い。

「天野は、どれほど先にいるんだろうか」

「タイム差からして200mぐらいだろう」

 植原は、独り言のつもりだったが、冬希が返答してきた。

 道は曲がりくねっており、天野の背中は見えない。

 植原は、静かに目を閉じた。

 涙がまぶたの間からこぼれてくる。

 痛みでも、悔しさでもない。

 自分のレースの終わりを感じたのだ。

 瞼の裏に、永田の姿が焼き付いていた。

 あれも一つの終わり方だ。

 このステージの始まる前に永田は、総合タイムで冬希から1分以上遅れていた。このステージだけで逆転するのは難しかっただろう。

 しかし、ただ終わるのではなく、力をみせて、終わっていった。

 登坂力などという、自転車に特化した力ではない。

 それは、人間としての力なのだと植原は強く感じた。

 その姿を見て、わずかながら、嫉妬を覚えた。

「青山冬希」

 植原は、覚悟を決めた。

 冬希は、驚いたように植原を見返した。

「落車に巻き込んでしまって、申し訳なかった」

「それはもういいって、お前もある意味巻き込まれたクチだろう」

 逃げていた選手の落車があり、それによりリズムを崩して落車したのは確かだ。だが植原が言いたいのは、そういう事ではなかった。

「僕の落車に巻き込まれて、君が天野から遅れて負けるというのは、僕の矜持が許さない」

 もう長くは走れない。

「ついて来い」

 植原は、ダンシングで加速した。

 左手の痛みは限界を超えている。右手には感覚がない。もうどちらの腕も同じようなものだ。

 歯を食いしばる。

 力を振り絞る。

「見ていろ、雛姫」

 目尻から涙が切れていく。

 冬希と黒川のペダルの音が聞こえてきている。

 命が燃えている。

 気力が流れ出続けている。

 体と心にある、あらゆるもの燃料にして、ペダルを踏んでいく。

 青春というものがあるのであれば、それこそ今、苛烈に燃えているであろう。

 ふと、ろうそくの火が消えるように、力が終わった。

 脚と呼吸が限界に達し、植原は力を失ったように擁壁にもたれかかった。

 左肩が壁にぶつかり、うっ、と声が出た。

 冬希、そして黒川が植原を抜いていく。

 振り向くな。

 植原は心の中で強く言った。ここで振り向くのは、男ではない。

「勝てよ」

 激坂に、勢いをつけて、冬希を発射できた。

 この男が勝つことでしか、自分がは救われることは、ないのだ。

 涙で滲んだ光景。総合リーダーの証である黄色いジャージ、そしてゼッケン1番の後姿。

 勝利を託すのに、これほど頼もしい男がいるだろうか。

 そう思った瞬間、植原は、笑いがこぼれた。

「そうか、僕は負けたのか」

 空に続くような坂道を、二人が走り去っていった。

 植原は、道の先に続く空を見上げ、力の入らない右手でボトルを取り、水を一口飲んだ。

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