第369話 全国高校自転車競技会 第9ステージ⑤
バイク交換は終わった。
元々、天野のフロントディレイラーのギアは、インナーに入らないように調整した上で、スタートしていた。斫石峠までは、重めのギアでも上れるという判断だった。
勾配の厳しい椿ヶ鼻の上りの前に、サポートカーに変速の不調を訴え、運営のメカニックスタッフに確認をしてもらった。
すぐには治らないため、時間をかけてでも調整するか、バイクチェンジかの提案を受け、バイクチェンジを選択した。
そのやり取りの間に、後続の冬希らに差を詰められたが、抜かれることは無く、椿ヶ鼻の上りに入ることが出来た。
「天野、俺はこの辺までが限界だ。当初の予定より、早めに働かされたからな」
牽引する水野のペースが落ち始めていた。天野もそろそろだろうと感じていた。
「ありがとう。すまなかった」
牽き終えた水野は、軽く手を上げると、そのまま下がっていった。
実際に乗ってみると、軽量ロードはすべてが快適とは言えなかった。やや勾配が緩やかな部分では、あまり前に進まないという印象だ。ただ、勾配がきつくても、殆どそれを感じさせない程、軽快に上れた。
残り7㎞、最初の勾配の厳しいところに来た。
千秋と柊の姿が見えた。
千秋が先頭で、柊はその後ろにピッタリと付いている。
先頭交代は行われていないようで、ずっと千秋が前を走っている。柊は、前で待ち構えて、冬希のアシストをする作戦なのだろう。ここで柊が脚を使う理由がない。
千秋は苦しそうだ。この勾配が苦しいというより、ここに至るまでの過程で、かなり脚を使ってしまったという事だろう。逃げ集団から水野が外れ、柊も先頭交代に協力してくれない。
天野は、一気に二人を抜きにかかった。
「うおっ」
柊が声を上げた。千秋が振り返る。
一気に抜き去った。
千秋が追いすがろうとし、柊は静観しようとする。
天野は、千秋を無視し、激坂を上っていった。
千秋も、すぐに諦めた。
単独先頭に立った。だが、このあと少し勾配が緩やかになる。軽量ロードバイクの苦手な区間だ。
スタート前の作戦では、水野にはその先のあたりまで牽引してもらうはずだった。
まだまだ苦しい状況は続く。
天野は後ろを振り返った。既に千秋と柊は見えなくなっていた。
モトバイクのホワイトボードに、第3グループと記載されていた冬希らが、追走グループと表記されるようになったのは、前方の4人が散り散りになった為だったと冬希は気づいた。
先頭が天野になった。
差は開きつつあり、先ほどまでは30秒程度の差だったものが、既に40秒差にまで広がっていた。
このままゴールすれば、天野が総合リーダーになる。
東京の麻生は、1㎞ほど牽引した後に、グループから離れていった。
今は夏井が牽引している。
追走グループが、ほとんど歩いているようなスピードの水野に追いつき、抜き去った。
その際に見た水野が、恨めしげな表情をしていたのは、きっと気のせいだろう。
間もなく、前方から下がってきた柊がグループに合流した。
「おい、冬希。あの佐賀の天野って奴、凄いスピードで上っていったぞ。浮いてるみたいだった」
「千秋はどうしたんですか?」
「多少は前で粘ってたみたいだけど、すぐに千切られてったよ。あんな上りする奴、初めて見たよ、ただ、なんか変だったなぁ」
「どうしたんです?」
「自転車に、ゼッケンナンバー書いたプレートが付いてなかった」
「スペアバイクか」
「あと、前のギアが1枚しかなかったと思う」
「ああ……」
冬希は、去年の夏ごろに、去年の佐賀のエースである坂東輝幸と、ロードバイクのタイプによる走りの違いについて話したことがあった。
あまり多くの種類のバイクに乗ったことがなかったため、軽ければ軽いほど速く走れるという前提で冬希は話していたのだが、坂東が否定したのだ。
弟の裕理と、どこまで軽量のロードバイクが作れるか実験してみた坂東は、フロントギアを1枚にすることで、フロントディレイラーも不要な、超軽量バイクを作ることに成功したそうなのだが、平坦では踏んでも踏んでも進まない代物になってしまい、とてもレースでは使えなかった、と笑っていた。
冬希は、そのバイクについて説明した。
「そういうバイクを佐賀が持っているという事は、知ってはいました。ですが、限定的な状況でそれを実践に使ってくるとは、思ってもみませんでした」
「それは気付かんだろうよ」
黒川は笑った。植原は黙って聞いている。
「だけど、これで、集団で走っていたらそのうちに追いつく、という考えは捨てなきゃだなぁ」
柊は言ったが、今の追走グループの中には、既にそういう考えを持っているものは居ないだろう。
「というか、このグループもペース速すぎだろ、俺はこんなスピードで牽けないぞ」
「柊先輩は、前にいてくれただけで、十分仕事をしてくれました。無理せずに下がってください」
「ええ?いやまあ、少しぐらい牽くけど」
黒川と永田が苦笑いをしている。冬希は、柊のこういうところが好きなのだった。
夏井もかなりのハイペースで牽引してくれた。続いて柊が先頭に立った。
「柊先輩、勾配が緩やかになったら、下がってください」
「そうさせてもらうわ」
坂東の話が本当なら、勾配が緩やかなところならば、集団で走っている方にアドバンテージがある。そこで差を詰めていくしかない。
勾配の厳しい区間を抜けた。
「おまえら、がんばれよ」
柊が千切れると、先頭に立ったのは、永田だった。
「ついてきてください」
永田、植原、黒川、冬希の4人になった。もう各チームの総合エースしか、残っていない。
残り距離は5㎞弱。
永田の牽引は強力だった。
空気を切り裂き、3人を引っ張る。尋常な走りではない。
冬希は、植原と黒川を抜いて、永田の後ろまで上がっていった。
「永田君、そろそろ交代しよう」
冬希が言った、しかし永田は首を横に振った。
「青山さん、牽かせてください」
そう言った永田に、冬希は言葉が返せなかった。
断固たる決意を持った目。去年まで一緒に走っていた先輩で、同じような目をした人がいた、冬希は知っていた。
「青山さん、うちの学校は、俺も含め今年3人の1年生がいるんです。来年のエース候補だと言われました」
愛知は、プロローグで優勝した山賀、スプリンターの赤井、そして永田の他に、長谷川、玉置という1年生が居た。
「3人の中では、俺が一番走れていて、なぜ俺が総合エースじゃないのかって、不満でした。植原さんや黒川さんとも十分戦えると自負していたんです。でも、実際に走ってみると、まったく戦える実力じゃありませんでした」
「そんなことはないだろう」
「現に、総合上位に残っているではないか」
冬希、そしていつの間にか上がってきていた黒川も言った。
永田はうつむいた。
「第4ステージで、俺は総合争いから脱落するはずでした。そして、他の二人と山賀さんや赤井さんのサポートとして完走を目指す、そうやってこの大会を終えるはずだったんです。でも、第4ステージで、青山さんが、再び俺を引っ張り上げて、ゴールまで連れて行ってくれました」
そんなこともあったか、と冬希は思った。
「あの場で、俺が総合争いに残された意味、というものを、ずっと考え続けました。青山さんは気まぐれで俺を引っ張ってくれたのかもしれません。でも、俺はずっと意味を考え続けたんです」
永田は、ボトルの水を飲み、三叉路の道路脇に立っている運営スタッフの足元に投げ捨てた。
さらに一段ペースが上がった。永田の後ろで、吸い出されるように冬希のペダルも軽くなった気がした。
「今、その意味がようやく分かった気がします。あの時のことは、今日につながっていたんだ」
恐ろしいほどの気迫だった。空気が振るえるとはこのことか。
永田の姿を見て、黒川が笑った。
「すべてを言葉にしなければ、気が済まんか。永田」
ボワイトボードが出される。
山岳に特化したはずの天野との差は、だが開いてはいなかった。40秒差。
「本当は、天野さんのところまで追いつきたかったです。でも、今の俺にはその力はない。せめて、どれぐらい力が足りないか、知って終わりたい」
呆れるほどに強い男だ。
永田の呼吸が変わった。呼吸というより、息を吸って、吐いているだけという動きだ。酸素を肺に取り込めている、という感覚はもうないだろう。
限界はとうに超えている。
がくん、とペースが落ちた。
冬希、黒川、植原が、永田をかわしていく。
「恐ろしい男だ。来年には、とんでもない選手になっているだろう」
黒川は言ったが、冬希はその言葉に、どれほどの意味があるかわからなかった。
モトバイクがホワイトボードを出した。
天野とのタイム差は35秒に縮まっていた。
坂の下に消えていく、永田の口が、わずかに動くのが見えた。
「やっと、恩を返せた」
冬希には、永田がそう言ったように見えた。
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