第368話 全国高校自転車競技会 第9ステージ④

 単独となった。

 単独となってしまった、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 本当にこれでよかったのか、という自問自答を繰り返しながら、天野は斫石峠の下りを駆け続けた。

 落車が発生したタイミングで、総合タイム上位の永田が既にアタックをしていた。

 永田は、冬希たちの落車に気づくすべはなく、冬希たちを待つことは不可能だった。

 しかし、そのまま永田を行かせてしまえば、天野どころか、植原や冬希も逆転して総合優勝してしまう可能性があった。

 落車発生時にはすでに、レースは動いていたのだ。

 そういった場合、落車に巻き込まれた総合リーダーを待たなければならないという不文律は、適用されないはずだ。

 何度目かの同じ結論に達した後、天野は、迷いや不安を心の中から追い出した。

 斫石峠を下り終えると、ホワイトボードを持った係員を乗せたモトバイクと、永田が何か話しているのが目に入った。

 天野は、永田に追いついた。

「天野さん、青山さんが落車に巻き込まれたそうです」

「わかっている。私はその横を通ってきたんだ」

「待った方がいいのでしょうか」

 たわけたことを言うな、という言葉が天野の喉元まで出かかった。

 永田がアタックをかけ、前に行っていなければ、天野が冬希たちを置き去りにすることもなかったのだ。

 しかし結局のところ、永田を追うという結論を出したのは、天野自身なのだ。ペースを落として待つ機会はいくらでもあった。永田を責めるのは筋が違うのだ。

「待ちたければ待つと良い。だがもう後続は追ってきている」

 それ以上の会話は無用と、天野は走り出した。

 永田は、天野にはついてこずに、ペースを落とすことにしたようだ。

 永田についていたモトバイクは、そのまま天野の前を走ることになった。

 ホワイトボードに新たにタイム差を書き出して見せてきた。

 先頭集団、これは水野や千秋、平良柊達のことだろう。第2集団は恐らく天野自身と永田で、そして第3集団。ここに冬希や植原のゼッケン番号が書かれている。もうタイム差は2分とない。

 もういっそのこと吸収されるか、と思ったが、中途半端というのが一番何も生み出さないという事は、天野にもわかっていた。

 単独でも、このまま前の千秋、柊、水野グループに追いつき、抜いてステージ優勝を狙うべきだ。

 天野の行動は、多少の議論を呼ぶことになるかもしれない。だが、それもこのステージで冬希を総合タイムで逆転しなければ、冬希が事実上の総合優勝を決めてしまう。

 単独走行は得意な方だった。

 昨年の全日本選手権でも、佐賀県代表として坂東輝幸の後を追って、ゴール前までに単独で先頭集団に追いついて見せた。

 この平坦は良いかもしれない。だが、椿ヶ鼻に上り始めた時に、その時に使うべき脚を今使ってしまうことになるかもしれない。

 何故こうなったのか。

 植原や冬希、黒川と共に椿ヶ鼻の上りに入るときにアタックし、引き離すとともにステージ優勝のボーナスタイムで総合首位を獲得し、最終ステージに臨むという、堅実なミッションだった。

 彼ら3人と違う戦略を、半ば強制されたために、レース展開が読めなくなってしまった。

 もう、上り始めの時にどの程度の脚を残しておけばいいのか、どの程度のタイム差を開いておけばいいのかも、見えなくなっていた。

 こんなところで脚を使わされれば、追いつかれた時にはひとたまりもないう。分の悪い賭けだ、という気もする。

 前方に、バイクにまたがって止まっている選手がいた。

 見間違いようがない、佐賀大和のサイクルジャージ。

 水野だ。

「おい、天野。抜け出すのが早すぎるぞ。上り始めてのアタックじゃないかったのか」

「水野、待っていてくれたのか。助かった」

「質問に答えろ。これはどういう動きだ」

「総合上位勢が落車で、そろって足止めを食らっていた。永田が飛び出していたので、私は追うしかなかったんだ」

「そんなことになっていたのかよ。モトバイクのタイム表示で、お前が単独になっていたから、待っていたんだ」

 当初の計画から、レース展開が変わったことを察知し、待っていてくれた。このあたりの水野の柔軟さが、天野には有難かった。

「全力で牽いてくれ。後続がすごい勢いで追ってきている」

「わかったよ。でも俺も、ここまで逃げてきてるんだから、あまり期待するなよ」

「そっちは、3人で走ってきたんだろう」

「それはそうなんだけどよ、千秋と平良柊さんだっけ、あの二人は体がちっこいから、全然風よけにならないんだよ。一番後ろを走ってても、先頭を牽いてるみたいに風が当たるのな」

 聞きなれた水野のぼやきが、天野にはうれしかった。

 

 多田が牽引を外れた。

 冬希を含んだ総合リーダーグループは、いったん3チームの協調体制が出来上がっていた。

 現在のリアルタイムでの総合リーダーは、天野という事になっている。

 3チームの目標は、天野を捕まえることで一致していたのだ。

 千秋、平良柊の先頭グループ、水野、天野の第2グループ、そして永田、次にこのグループとなっている。

 先頭グループは、水野がグループからドロップしてから、ペースが良くない。軽量の二人では、平坦区間では、山岳区間ほどはペースが上がらないようだ。

 それに対して、水野と合流した天野は、先頭との差を詰めながら、総合リーダーグループとの差を維持していた。

 総合リーダーグループは、ペースを落としていた永田を吸収した。永田はグループの最後尾に引っかかったような形だ。

 東京の近江、森田、千葉の伊佐、それに山口の多田は、牽引する役割を終え、既にグループから脱落していた。ローテーション、などというものではなく、個々が全力を出し切り、千切れていた。

 現在先頭を牽いているのは、竹内だ。

 再び水野、天野グループとの差が縮まり始めた。

 竹内、東京の麻生と夏井、植原、黒川、冬希、永田の順で、縦一列で進んでいる。

 黒川が、少し下がって冬希の横に並んだ。

「青山、これが協調というものなのだな。一緒に走っているだけでは協調とは言わない、と多田が言っていたが、その意味がようやくわかってきた」

「今は天野を追っていますが、黒川さんはもともとユースでは目標にされる側ばかりだったでしょうからね」

「こうやって協力しながら走るという事が、楽しいと思い始めているのかも知れん」

 黒川が、どういうレースを戦ってきたのか、冬希には想像もつかなかった。

「それにしても、いま先頭を牽いている男、あれは良い選手だな」

「そうでしょう。竹内です。中体連でもいいところまでいったようです」

 冬希は、自分が褒められる以上に嬉しくなった。チームメイトには多くの事を助けてもらった。もっと評価されてほしいという気持ちは、ずっと持ち続けていた。

「中体連でいいところ、ぐらいの走りではないな」

「自分のために、ではあまりやる気が出ないといっていました。誰かのために、というほうが力がだせるそうです」

「誰か、ではなくお前のために、であろうな」

 冬希は、言葉が出なかった。

「多田も、凄い走りをした」

「はい、このグループに勢いをつけてくれたのは、多田さんだと思います」

「あいつは、ずっと俺を助けてくれていた。あいつがどういうところで力を発揮するかなど、俺は気にかけたこともなかった」

「エースは、アシストしてくれた選手たちには、勝つことでしか報いることが出来ないと思います。黒川さんは多田さんに対して、その責務を果たし続けてきたのではないでしょうか」

「ああ、そうかもしれない。だが、あいつが俺に巻き込まれず、普通に自転車ロードレースの選手として進学していたら、どれほどのものになっていたのかと、俺は先ほどの多田の走りを見て、考えざるを得なかった」

 初めて会った頃の黒川は、己の力を誇示することにだけ執着しているようなところがあった。Jプレミアツアーで総合優勝するほどの力がありながら、どこか未成熟だった部分が、変わろうとしているのかもしれない。

 モトバイクが、ホワイトボードを掲示してきた。

 水野、天野グループとの差は、30秒近くにまで、一気に縮まっていた。

「お前のところの竹内、やはり凄い男だ」

「いえ、先頭グループと天野たちとのも広がっています」

 30秒程度であった第1グループと第2グループの差が、1分まで広がっていた。

「ふむ、天野たちが止まったか」

「まだ上り前です。脚を使い果たしたとは思えません。メカトラブルなどで、一時的に止まったと見るべきでしょう」

 追走の脚を緩めるべきではない、と冬希は考えていた。

「そうかもしれん。だが、思ったより早く追いつけそうだ」

 何故か冬希は、黒川の考えを首肯する気持ちにはなれなかった。

 竹内が牽引を終えて下がってきた。

 しゃべることが出来ない程、疲弊している。冬希の横を通る際、視線を合わせ少しだけ頭を下げた。

 冬希は、下がっていく竹内の背中を、ぽんぽんと叩いた。

 千葉も、ついにアシストを使い切った。

 東京のアシスト、麻生と夏井が牽引し、植原、黒川、冬希、永田の4名は、千秋と柊、そして水野と天野、2つのグループを追って、椿ヶ鼻の上りに入っていった。

 左手に大山ダムが見える。

 ゴールまで残り10㎞を切っていた。

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