第364話 裕理の秘策

 第8ステージのレースを終えた夜、チームのメンバーがホテルで体を休めている間に、潤は一人、監督である神崎の部屋を訪れていた。

「遠路お疲れ様です」

「いやいや、君たちに比べたら、理事会の会議なんて昼寝をしているようなもんだよ」

 本気とも冗談ともとれる。いつもの神崎だ。

 潤は、これまでの各ステージのプランと実際の展開や結果を、細かく説明していった。

 予測と違っていたものは、違っていたと正直に話した。

 神崎は、黙って潤の話を聞いていた。第8ステージの件も、対応に問題がなかったと言った。

「いやあ、君に任せていたら間違いはないね。このチームに監督なんて要らないんじゃないかな」

「いえ、僕なんて……」

「高校の自転車ロードレースは、プロのレースと違って、無線機が使えるわけじゃないからね。逐一指示が飛ばせるわけじゃない。結局は、現場で走っている選手たちの判断力が重要になってくるんだ。その際に、レース前に監督が言っていた言葉なんて、足枷にしかならない。そういった意味では、うちのチームの個々の選手の判断力は、全国でも類を見ないと、私は思っているよ」

「しかし、逆転された東京の植原は、死に物狂いで向かってくると思います。佐賀についても、何を仕掛けてくるか全く予想がつきません」

「それについては、どう対策を取るのがいいと思うんだい」

「どんな状況にも対応できるように身構えておくことだと思います」

「うん、それでいいと思うよ」

 突き放されていると感じていたが、その言葉に潤は、少し安堵した。

 神崎は、相変わらず軽薄そうな笑みを浮かべているが、その言葉はもう少し深いところからきているように潤は感じていた。冬希はずっと前からそう感じていたのかもしれない。

 潤は、冬希たちの前では、悠然と構えているように見せている。それは、自分が決める以外に手段がないからだ。だが、神崎を目の前にすると、どこか頼ろうとしている自分がいた。そんなところさえも、神崎は見透かしているように思えた。

「スポーツというのは、ルールが複雑になれば、戦い方も複雑になってくるんだ。色々と作戦を考えるのは、楽しいかい?」

 楽しいかなど、考えたこともなかった。勝つために必要なことだったのだ。

 今更ながら、考えてみた。

「楽しい、のかもしれません」

「うん、だとしたら、やっぱりその楽しさは、大人が奪うべきではないと思うんだよね。走るのも力だし、考えるのも力だと思うんだ」

「良いのですか?」

「ここまで戦ってこれたのは、間違いなく君の力だよ。その手柄を奪う事は出来ないなぁ。最後まで、やり切ってみるといいよ。キャプテンとしてね」

「自分なりに、戦い切ってみます」

 今まで実感することは無かったが、自分の中にも闘志というものがあるのだとわかった気がした。

「それはそうと、もう一度今日のレースについて教えてくれないかな、最後のスプリント凄かったね。スプリンターの神髄を見たよ」

 目の前の神崎は、いち自転車ロードレースファンに戻っていた。いつもの軽薄そうな神崎だ。

 潤は、少し考えるのを休んで、神崎とともにレースのハイライト映像を見ながら解説をすることにした。


 レースは、ステージを追うごとに複雑さを増していた。

 もはや、全体の状況を把握することは困難となっている。

「まさか、有馬がチームにすり寄るとはな。おかげで冬希に余計なタイム差を開かれてしまった」

 佐賀のキャプテン坂東裕理は不機嫌そうにぼやいた。

 有馬はチーム内で孤立する、という想定が崩れた。だが、天野は裕理を責める気など無かった。

 佐賀は、裕理の意思が強く出ているチームであり、裕理は作戦を立てる際に、いろいろな想定を行ったうえで作戦を立てている。その中には、有馬の事もあり、総合の相手は冬希、植原、黒川であると限定したり、黒川のチームのアシストで役に立つのは、多田だけだというものもあった。

 それは決して特別なことではなく、あらゆることで、こうだ、という想定を行わなければ、作戦が絞り込めないのだ。

 今回は、有馬についての想定が外れた、ということになる。

 だが、それが現状に何か影響を与えたとは、天野は思っていなかった。

 千葉の、おそらく平良潤は、宮崎のスプリンター南を相手に、差し切るスプリントから、逃げ切るスプリントへ作戦を変えた。上手く冬希の脚を使わせずに集団の前でスプリントを開始できた。勝てればボーナスタイムで10秒だったが、負けた。だが、南と競い合うようにして行われたスプリントは、お互いの力を限界近くまで発揮させ、その結果、他のスプリンターに対してタイム差がついて、ボーナスタイムと同じ10秒を稼がれた。ということだ。

 つまりは南が居ても居なくても、広がるタイム差は10秒で違いなかったという事になる。

 想定も、それを元にたてた作戦も、意味をなさなくなってきている。

「俺たちが明日やることは変わらない」

「はい」

「東京も千葉も、優秀なアシストをそろえてはいる。東京は何でもできる奴が4人、千葉はルーラーが一人、クライマーが一人、スプリンターが二人、オールラウンダーが一人」

「青山冬希はスプリンターなのですか」

「少なくとも、兄貴はそう思っている。というかそういう前提でしか話をしてこない」

 裕理の兄、坂東輝幸は欧州にいるはずだが、頻繁に連絡は取り合っているようだ。性格は水と油だが、驚くほど仲は良い。

「どちらのチームにも、水野のような逃げに乗れるパンチャーはいない。明日は、そこに注文を付けるような戦いに持っていく」

 天野は、わざわざ聞き返しに行くようなことはしない。水野に前待ちをさせると言っているのは、明らかだ。

「それとだ天野、例のものが届いた。お前に使ってもらうものだ」

 裕理は、天野を部屋の奥に通した。そこには段ボールでの梱包を解かれた一台のロードバイクがあった。

「椿ヶ鼻の上りは、こいつを使ってもらう」

 細い、という印象を天野は持った。

「お前のいつも乗っているロードバイク、何㎏ぐらいだ」

「おそらくは、8㎏前後かと思います」

「まあ、大抵はそんなものだ。だが、こいつは俺と兄貴で究極の軽量化をやったらどうなるか、試しながら組んだ。最大まで軽量化して、何㎏ぐらいになると思う」

「7㎏切る、6㎏台まで削ることが出来ればすごいと思います」

「5.2kgだ。リムブレーキモデルなのに加え、コンポーネントもカーボン化できるところ鉄から替えた。ネジも余分な長さのところはすべて切った。留めるのに最低限の長さしかない」

「な……」

 天野は絶句した。WCIの公式ルールでは、6.8㎏が下限とされている。それに対して1.6㎏も軽い。全国高校自転車競技会では重量の下限に制限はない。

「こっちに来て持ち上げてみろ」

 天野は、ホイールまでついているそのバイクを持ち上げた。重量を感じさせないほど軽い。

「軽いです。信じられません」

「サイクルコンピュータをつければ、もう少し増えるがな」

 サドルも、網のようなものしかついていない。

「サドルの強度が心配なら、ずっとダンシングで乗ればいい。下りが皆無なら、ブレーキシューも外したいぐらいだ。ルールで許されるなら、ブレーキ自体外してもよかったんだがな」

 裕理は笑っているが、坂東兄弟なら、平気でブレーキを外してしまうだろうと天野は思った。

「明日は、これに乗ってスタートするのですね」

「いや、スタートから平坦区間は、お前のエアロロードで走れ」

「は?」

 裕理は、にやりと笑った。

「こいつは、オフィシャルのサポートカーに、スペアバイクとして載せておく。登りに入る直前に、バイクが壊れたと言って、サポートカーを呼んで交換させろ」

 天野は、言葉を失った。

「椿ヶ鼻の上りだけで、冬希や植原を千切る。そのための軽量スペアバイクだ」

 椿ヶ鼻は、実業団のレースも行われるほどの激坂で、平均勾配9%はある。植原はともかく、青山冬希には厳しすぎる上りだ。おまけに佐賀大和高校からは75㎞ほどしか離れておらず、年に数回は練習に行くコースであり、走り慣れている。おまけにこのバイクだ。

 修理不能なトラブルが発生した時のための予備として使用するはずのスペアバイクを、このような使い方をするとは。

 なんという周到さか。天野は本当に勝てるのではないかと思い始めていた。

「天野、ポジション合わせをするぞ」

 裕理は工具を取り出した。

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