第363話 全国高校自転車競技会 第8ステージ②

 有馬が、南の発射台をやる。レース前に神崎高校は全く想定していなかった事態だ。

 先行して逃げ切るつもりだったが、がっぷり四つに組んで戦うことになってしまった。

 冬希は一瞬怯んだが、やることは一緒だと思い定めた。竹内のリードアウトのあとは、全力で踏むだけだ。

 あっという間に、南が前に出た。蹴り出しのパワーが違いすぎる。

 冬希も遅れまいと、必死に加速する。

 周囲のタイヤの音がどんどん遠くなっていく。

 だが、まったく南との差は縮まらない。

 体が重い。前に進まない。例えるなら、プールの中で歩いているような感覚だ。

 南が少しずつ離れていく。必死でもがいているが、差は縮まらない。

 南がマンホールのふたを避けるように、少しだけ進路を変えた。南と冬希が近くなった。

 ふと、少しだけ体が軽くなったように感じた。

「あ、ちょっとだけ軽くなった」

 冬希は理解した。体が重く感じたのは、空気抵抗だ。

 冬希とて、数多くのスプリントを経験してきた。空気抵抗を受けながらスプリントするなど、いつものことであるはずだ。だが今日は、信じられないほど前に進まない。

 スタート前に調べた情報では、ゴール前の直線は向かい風ではなかった。むしろ、少し追い風だったはずだ。

 つまりは、今まで走ったことがないスピードで、スプリントをやらされている、という事なのかもしれない。スピードが早ければ、それだけ空気抵抗も大きくなるからだ。

 冬希は、サイクルコンピュータのスピードの数値を見ないようにした。それを見た瞬間、恐怖のあまり、踏めなくなるかもしれない。

 南の背中を見ていた。

 先頭で風を押しのけながら走っているこの男は、どれほどの化け物なのだろうか。

 南の斜め後ろで、ある程度は空気抵抗が軽減されているとはいえ、呼吸も脚の筋肉も、時間とともに限界が近づている。

 何もしなければ、走っているだけで息は上がり、脚を使い果たしてしまう。

 冬希は、徐々に自分が追い詰められているのを感じていた。


「有馬さん、あんたの言うとおりだった」

 普段なら、50mも本気で踏めば、あとは惰性で突き放せていた。だが、今は踏み続けているにもかかわらず、青山冬希は殆ど離れない。

 いや、厳密にいえば少しずつ離れているのかもしれない、しかし、20m走って10㎝差が広がるとか、そんなレベルだ。

 レース前のミーティングに、有馬は顔を出した。大会が始まってから、初めての事だ。

 前日の第7ステージで、乾坤一擲の逃げを決めたが、最後の山岳の上り始めでもう吸収されていた。それについて、とやかく言うつもりはなかった。南自身、制限時間内にゴールできるかどうかギリギリのところだったのだ。有馬の事を気にする余裕はなかった。

 ミーティングに顔を出した有馬は、負け犬のような目をしているのかと思っていたが、その眼光はむしろ鋭さを増しているように見えた。

 だから、南は有馬の話を聞こうと思ったのだ。

 平坦で少し追い風のスプリント。集団の前の方から仕掛けなければ、青山冬希には勝てない、と言った。

 それだけ聞けば、ただの自分に対する負け惜しみだと、南は思っただろう。しかし有馬は、南を先頭まで引っ張る役割を、自分がやるといった。

 理由を問うた南に、有馬は、戦い方を変えるだけだ、と言った。

 同世代に生きる身としてこれ以上、植原博昭や青山冬希を台頭させるわけにはいかない、ということらしい。

 南は、馬鹿げている、と思った。

 嫉妬、というより妄執と言っていいだろう。

 それと同時に、有馬の顔を見て本気を感じ取った南は、一緒に戦ってみるのも良いと思った。

 結果、有馬の予想通り青山冬希は、集団前方からスパートし、南自身も有馬のリードアウトにより、その冬希よりわずかに前を走っている。

 冬希との距離が、わずかに近くなった。自分のドラフティング効果かと思ったが、それにしても尋常な能力でついてこれるものではない。

 南が自転車のレースに出たのは、3歳の時だった。

 やっと補助輪なしで乗れるようになったと思ったら、父親に未就学児限定のレースに出された。

 最年長で6歳、小さいながらロードバイクに乗っている子供もいた。

 直線で折り返すだけの、500m程度のレースだったが、南は、折り返し地点まで一番遠い、スタートラインの端っこからスタートし、圧勝した。

 こんなものか、と思った。

 それから、競輪選手として日本中を飛び回る父が、帰ってくるたびに、南は練習に駆り出された。レースも勝ち続け、小学生の部で優勝したのを契機に出るのを止めた。出れば勝つ。面白いと思ったことは無かった。

 レースに出るのをやめても、父のトレーニングは続いた。

 胃の中のものをすべて吐き出すほど、過酷な練習が続いた。

 やめてやる、といつも考え続けていた。自転車が、そこまで苦しんでやる必要があるものだとは、南には到底思えなかったのだ。

 高校受験の前に南は、もう自転車には乗らないと、父に言った。受験に備えて、と母には言い含めてあった。

 父は、いいだろう、とだけ言った。

 高校に入り、レースの誘いがあった。

 正確には、入試の日に自分の名前と顔を見た教師が、自転車競技部に入るか、と訊いてきた。受験に有利になればいいと思い、入学出来れば、と答えた。

 どういう力が働いたのか、南は日南大付属に合格し、軽い気持ちで参加した自転車競技部で、走っていのだ。

 同じ年代に敵など居なかった。

 南はペダルを踏み続ける。重いギアをひたすらパワーで踏み続ける。ケイデンスは早くないが、どんどん立花、赤井、水野らの後続の姿が小さくなっていく。本気を出せばこんなものだ。

 だが、青山冬希は離れない。

 なんだこいつは、気持ち悪い。

 南は全力で踏んだ。踏み続けた。

 青山冬希は離れない。

 むしろ、少しずつ差が縮まりだした。

 なぜあんな細い腕や足で、自分と同じ強さで踏めるのか。平坦での速さはパワーだ。

 どういう理屈で自分が追いつかれているのか、南には全く分からなかった。

 1踏み毎に距離が近づいてきた。ゴールまで50m。

 小さな悲鳴にも似た声が出た。なぜこの男は離れない。ここまで踏んでなでついてこれる。

 後ろから追われる、これは南にとって初めての体験だった。

 子供のころからレースの時は、ゴール前100mまではウォーミングアップで、ゴール前だけがレースだった。南自身を後ろから追いついてくるような選手はいなかった。

 南は、ずっと全力で踏み続けた。

 恐怖にも似た感情で、冬希から逃げ続けた。

 歯を食いしばり、必死に耐えていた。


 冬希は、南の斜め後方あたりにいる時から、踏む力を強くし、尚且つケイデンスも上げていった。

 フィニッシュラインまで踏み続けられないかもしれないが、あとは惰性でゴールになだれ込むしかない。

 南の横に出る。

 一気に空気の壁がぶつかってきた。

 怯んで突っ伏した。

 少し空気抵抗が軽くなった気がした。

 体を低くした姿勢のまま、全力で踏み続けた。

 脚も、呼吸も一気に苦しくなった。

 だが、仕方ない。今から、やめるわけにもいかない。

 南のスプリントを見た時、冬希は潤に

「ああいう勝ち方は、俺にはできません」

 と言った。

 今の感想は、

「思ったよりついていけている」

 というものだった。そのことが、少しだけ冬希の苦しさを楽にしてくれた。

 並びかけた。フィニッシュラインが見えた。下を向き、全力でハンドルを投げた。


 南は、全力でハンドルを投げた。

 子供のころから父に練習させられていたハンドル投げだ。

 圧勝しかしてこなかった南には、これが何の意味があるのかわからなかった。

 生まれて初めて、レースでハンドル投げをやった。

 ハンドルを投げなければならないところまで、追い詰められたのだ。

 臀部が後輪にあたるスレスレまで、全力でハンドルを投げた。

 体の位置は、自分より冬希の方が前にあった。

 冬希もハンドルを投げていた。

 腕は冬希の方が長い。だが、自分の方が遠くに投げていた自信はあった。

 ゴール後、道の脇の植え込みに頭を突っ込み、胃の中のものを吐き出した。

 何年ぶりの感覚だろうか。

 殆ど水しか出てこなかった。

 ようやく3位以降の選手たちがゴールしてきた。

 当然だ、と南は思った。自分が全力で踏み続ければ、他の選手たちなど、止まっているようなものだ。

 だとすれば、あの青山冬希という男は何だったのか。

「勝ったか」

 冷たく突き放したように、有馬が言った。

「わかんねえよ」

「写真判定の結果が出た。あとでスリット写真を見ておけ」

 有馬は、宮崎のタープテントの方に去っていった。

 南は、報道学部連の記者やカメラマンに囲まれた。

「どけっ」

 南は、彼らを押しのけ、大会本部前に張り出されたスリット写真を見に行った。

 わずか1センチ程度、南の前輪の先が、冬希の前輪より先にゴールしていた。

 写真には、南の体の方が長く、冬希の体の方が短く写っていた。

 競輪選手を父に持つ南は、その意味を知っていた。

 自分より、青山冬希の方が、ゴールラインを通過するときのスピードが速かったのだ。

 南は顔を真っ赤にし、宮崎のタープテントに駆け込んだ。

「クレイジーだよ有馬さん。あんたも青山冬希も、クレイジーだ」

「南、明日は1級山岳だ。タイムアウトになる選手も少なくないだろう。3勝したんだ。今日でやめて帰っても誰もお前を責めないが、どうする?」

「出るよ。出てやるよ。このままでは収まらねえよ」

「なら、ローラーに乗って置け。少しでも体の疲れをとっておけ」

 南は、ローラー台でクールダウンしている有馬の隣のローラーに自転車を設置し、大人しくペダルをこぎ始めた。

 小玉らがテントに入ってきた時、その異様さに絶句した。


 喉の奥から、血の味がした。肺が擦り切れたのではないかと思う程だ。

「へー、へー」

 声を出して呼吸した。そうして気を紛らわせなければ、そのまま酸欠で死んでしまうのではないかと不安になったからだ。

 ふらふらと自転車に乗ったまま、呼吸が整うまでうろうろしていた。

 次第に呼吸が整い始めた時、南が報道学部連の連中に囲まれた。

 ああ、負けたのか。と思った。

 自分では、ここまで南に張り合えたということで、満足したいところだった。だが、当初の計画の、ボーナスタイム10秒獲ってタイム差を逆転する、という目標は達成できなかった。

 竹内、そして潤がフィニッシュラインを通過してきた。

「お疲れ様です」

「お疲れさま」

 冬希は、二人に頭を下げた。

「すみません、負けました」

「いや、僕の作戦にも問題があった。有馬が南のアシストをする、ということを全く予想できていなかった。有馬ほどの男なら、南を集団の前方に引き上げることぐらいは、難なくやるだろう」

「仕方ありません。事前にその可能性を予測できなかったのは、俺も同じですから」

「そうだな。お互いに、自分を責めるのは止めよう」

「ボーナスタイムを6秒しか獲れなかったのは残念です」

「ああ、その点は気に病む必要はない。お前と南が、3位の立花につけたタイム差は4秒だ。メイン集団との間に、4秒のタイム差が認められた」

「まじっすか……」

「今年のスプリンターの中では、お前と南の二人だけ、次元が違うと言っていいだろう」

 今日は特別に速い、とは思っていたが、そんなことになっていたとは。思ってもみなかった。

 二人でゴールまで全力で踏んだら、そんなことになるのか。

「植原とは、総合成績で逆転した。だが今の植原は過去に例を見ないほど強い。明日の一級山岳は苦しいが、今日はゆっくり休んで作戦を立てよう。神崎先生も夜にはこちらに来られる」

 伊佐と柊もゴールしてきた。

「結果、どうでしたか?」

「勝てはしなかったがな。あとで映像で見るといい。後続を千切った二人のスプリンターの走りは、痛快だろう」

 潤は笑いながら言った。


■第8ステージ

1:南 龍鳳(宮崎)455番 0.00

2:青山 冬希(千葉)1番 +0.00

3:立花 道之(福岡)401番 +0.04

4:赤井 小虎(愛知)231番 +0.04

5:黒川 真吾(山口)351番 +0.04

6:水野 良晴(佐賀)415番 +0.04


■総合

1:青山 冬希(千葉)1番 0.00

3:植原 博昭(東京)131番 +0.05

2:黒川 真吾(山口)351番 +0.15

4:天野 優一(佐賀)411番 +0.23

5:永田 隼(愛知)235番 +1.01

6:有馬 豪志(宮崎)451番 +3.00


■山岳賞

1:千秋 秀正(静岡)221番 16pt

2:植原 博昭(東京)131番 16pt

3:牧山 保(茨城)81番 9pt

4:平良 柊(千葉)4番 8pt

5:青山 冬希(千葉)1番 7pt

6:平良 潤(千葉)3番 5pt

7:黒川 真吾(山口)351番 4pt


■スプリント賞

1:南 龍鳳(宮崎)455番 205pt

2:立花 道之(福岡)401番 154pt

3:水野 良晴(佐賀)415番 147p

4:赤井 小虎(愛知)246番 145p

5:青山 冬希(千葉)1番 98pt


■新人賞

1:永田 隼(愛知)235番 0.00

2:竹内 健(千葉)5番 +6.20

3:村岡一行(鹿児島)465番 +31.22

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