第361話 最強のスプリンター
「頭だけで考えてはいけない。時には、自分の経験から来る直感や本能を信じることも必要なんだ」
神崎高校の1年先輩の船津は、潤にそう言った。
潤には、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。自分の能力は、自分が一番知っている。それを超えてペダルを踏んだ時、どうなってしまうかは、恐怖でしかなかった。
昨年の国体の3日目、天野を追わなければ勝利はないことはわかっていた。しかし追って追いつくとは思えなかった。万が一追いつけたとしても、同じグループには植原がいた。フィニッシュライン前で抜かれた可能性が高かったと思う。
可能性。潤は心の中で繰り返した。全ては可能性なのだ。
国体で潤と同じく、天野を追えなかった植原は、今日のステージで自分の限界を超えて踏み切った。植原も光るものを持っている男だったのだろう。自分にはできないことをやってのけた。
「明日の第8ステージ、冬希でゴールスプリントを狙う。ステージ優勝でボーナスタイムを貯めておく」
ホテルの貸し会議室には、神崎高校の選手全員が揃っていた。監督の神崎は、理事長としての仕事があり、学校と千葉県庁を往復している。
「潤先輩、明日は大した勾配もない、平坦ステージですよ。冬希先輩は南龍鳳に勝てていません。勝てる可能性は高くないと思うのですが」
「俺は行けますよ。負けっぱなしは良くないですしね」
答えたのは順ではなく、冬希だった。
「しかし冬希先輩。ここで無理に勝負に出なくても、確実に2位のボーナスタイムを獲って明後日以降に賭けた方が確実です」
「スプリンターには、立花や赤井だっている。決して軽視していい相手ではないし、あいつらにだって楽に勝てたりはしないよ」
「しかしあの人たちには今まで」
「もういい伊佐。可能性は所詮可能性なんだ。全国高校自転車競技会の総合優勝は、逃げずに戦って勝って手に入れたほうが気持ちいいとは思わないか」
「そんな曖昧な理由で……」
竹内が立ち上がり、まだ反対しようとする伊佐の肩に手を置いた。
「伊佐、去年は俺たちはいなかったが、船津先輩がこの大会で総合優勝したんだ」
「だからこそ俺たちがそれを引き継いで」
「俺たちがやるべきは、船津先輩が獲った全国高校自転車競技会の総合優勝という地位を、より価値の高いものにすることなんだと俺は思う」
竹内は真面目だ、と潤は思った。
「後悔のないように、背を見せずに戦い続けよう。何もなければこれで解散とする。委細は明日の朝のミーティングで話すことにしよう。今日はご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」
柊、冬希、伊佐、竹内が立ち上がった。
「竹内だけ残ってくれ」
「はい」
他の3人は、会議室の入り口から出ていく。
「このホテル、大浴場があるらしいんだ。柊先輩と行くけど、伊佐も一緒にどう?」
「いいですけど、湯船で泳いではいけないんですよ」
「柊先輩と一緒にしないでもらいたいなぁ」
「俺も泳がないよ!」
扉が閉まり、会議室には、潤と竹内だけが残った。
「竹内、スプリントで冬希のアシストをしてもらう時に君は、ゴール前まで引っ張る時もあれば、残り1km付近で離脱する時もある」
「はい、ペースによってゴール前まで牽引することができる時もありますし、他の速いトレインに冬希先輩が乗り換えることもありますから」
「そうだ。だが明日は、ゴール前200mまで、冬希を引っ張って貰いたい。先頭でだ」
「それは」
「その方法を、話し合っておきたいと思ったんだ」
竹内は目の前のペットボトルを手に取り、水を口に含んだ。
「いくつかお聞きしても?」
「ああ」
「まずは、先頭で、という理由をお聞かせ願いたいです」
「南龍鳳に勝つためにどうしても必要なのだ。明日のような完全な平坦では、南の爆発力のあるスプリントに勝てる高校生はいない。スプリンターとしての素養で冬希が劣るとは思わないが、ずっとピュアスプリンターとしてトレーニングを積んできたわけではない。二人の体重差は大きく、踏めるパワーにも差がある」
「俺は、冬希先輩が南に劣るとは思えません」
「二人の自転車ロードレーサーとしての差は、現在の二人の総合タイム差だと思ってもらえればいい。冬希がそういうものを無視して、最後の200mでだけ誰にも負けない体を作り上げることもできたのだということを頭の隅に置いておいてくれ」
「はい」
「話を戻そう。冬希を勝たせるには、南より可能な限り前で発射する必要があるのだ。南も冬希も、タイプとしては似た戦い方をする。圧倒的な瞬発力と最高速で、前にいる選手たちをゴール前までに捕らえる。後方から差し切るという勝ち方だ。だが、今のところ瞬発力もトップスピードも南はズバ抜けている。正面から戦っては勝ち目がない。なので、勝つために、早めに先頭に出て粘り込むという戦い方をする」
「なるほど」
「南は、後ろから差し切るしかできないという理由がある。問題はアシストの質なのだ」
竹内は、身を乗り出して話を聞いている。
「宮崎は、去年からずっと、有馬の総合狙いのアシストをするメンバーで固められていた。有馬以外の小玉、涌井、川波は山岳系のアシストだ」
「平坦向きの選手たちではないと?」
「総合狙いなら、平坦で牽引する選手も必要になる。だが東京もそうだが、スプリンターを抱えていないチームは、基本的には平坦ステージでスプリンターをリードアウトするような練習はしないし、そういった選手がメンバーにも含まれない。福岡や愛知はその逆だ」
「それならわかる気がします」
「宮崎のアシストは、ゴール前の高速でのポジション取りができるような選手がいないのだ。うちには竹内がいるからな。その優位性で勝ちに行こうというのが今回の作戦だ」
「そこはわかりました。ですがなぜ200mなのですか?冬希先輩のスプリントは150mがベストな筈ではないでしょうか」
「去年の国体のブロック大会まではそうだった。だが、それ以降は実のところデータがない。今回の大会も、本人も我々も150mだと思ってレースをしてきたが、実際のところちゃんと測ったことはないので、わからないんだ」
「では150mとしたほうが確実なのではないのですか」
「そこまで行くと、立花や赤井に前に出られる可能性がある。前に出られてしまえば、抜く手間が発生する。二人がヨレたりすれば、進路を塞がれる可能性もあり、タイムロスも無視できなくなる」
「確かに」
「まあ、我々が多少無理をしようというのだ、冬希にも50mぐらい頑張ってもらわなければ不公平というものだ」
潤は笑った。竹内はそれを不思議そうに見ている。
「本当に変わられました。国体の時は、もっと綿密にことを運ばれる方だと思っていました」
「どんなに綿密にことを運んだとしても、風向き一つで結果は大きく変わる。つまり、これだけ計算した、これだけ考えた、というのは結局のところ自己満足以上のものではないのだ」
「そうなのかも知れません。いや、そうなのでしょう」
「冬希と南、稀代のスプリンターの戦いが間近で見られるのだ。役得ではないか」
「冬希先輩は、今はオールラウンダーなのではないですか」
「それについてだが……」
潤は、竹内にどう説明するか、一瞬考えた。
「僕は、神崎先生に謝りに行ったことがあるんだ。冬希をオールラウンダーにするのは、僕が総合エースとして戦えないからだと思ったからだ。それが神崎先生に、冬希をオールラウンダーとしてトレーニングすることを強いているのではないかと思っていた」
「違ったのですか?」
「神崎先生は僕に、それとは別の話だから気にしなくていいよ、と言ったんだ」
「別の話?」
「神崎先生は優しい人だが、僕を慰めるための気休めに嘘をついたりする人ではないと思う。僕がエースを続けるか否かに関係なく、冬希のトレーニングの方針は決まっていたということになる」
「だとしたら、この大会は潤先輩がエースを降りたから、たまたまオールラウンダーとして育成していた冬希先輩に、白羽の矢が立ったということになります」
「流石だな、理解が早い。だとすると、冬希は何故オールラウンダーとしてのトレーニングを課されていたのか。何が目標なのか。僕はそれをずっと考えていた」
答えは出なかった。だが、昨日のステージで一つ思い浮かんだ仮説があった。
「昨日のステージで、冬希は黒川と天野に2位、3位を譲った。ゴール前でスプリントをすればボーナスタイムを獲得できた。僕が冬希だったら、ボーナスタイムを獲りに行っただろうし、他の誰だってそうだ。獲ろうと思えば獲れるものだから」
「先頭交代で多く回ってくれた二人に遠慮したという話ですが」
「一番スプリントに自信がある選手が、先頭交代に消極的だというのは、よくあることだ。遠慮する必要はなかった」
「冬希先輩らしいですけどね」
「ああ、僕もそれが悪いことだとは、どうしても思えないんだ。ただ竹内、これは善悪ではなく、気質の問題なのだ。スプリントではうまく他人の番手を使って立ち回るが、決められたメンバーで回ると、遠慮が出てしまう」
「つまり、スプリントの方が貪欲に戦えると」
「今大会でも、総合成績に対して十分貪欲に戦ってくれているを僕は思う。ただ、適性的にやはり冬希はスプリンターなのだということを言いたいのだ」
「もう大会は佳境です。今更そんな」
「そうだ、竹内。今更だ。だが先ほど言った、冬希がこの大会を目標に仕上げられていないとしたら、その目標はなんなのだろうかということなのだ」
自分が気づくようなことを、神崎が気づいていない、などということが、ありうるのだろうか。
神崎は、もっと先のこと、またはもっと壮大な目的を持って、冬希の自転車ロードレーサーとしての力をつけさせるトレーニングメニューを立てているのではないか。
「日本のコースでも、群馬サイクルスポーツセンターや、静岡の日本サイクルスポーツセンターでも、やはり厳しい勾配がコースに含まれている。海外のレースでは、平坦のレースでもコースに上りが含まれることが少なくない。神崎先生も、海外のコンチネンタルチームで走ってきた人だ。その辺りは熟知している」
「神崎先生は、冬希先輩を海外に行かせたいのでしょうか」
「そうは思わんが、海外に行っても通用する選手に育てておこう、ぐらいのことは思っているのかも知れないな」
竹内は、深く息を吐いた。
「冬希を、オールラウンダーなどとは思わないことだ。竹内。最強のスプリンターを連れていると思って走ってくれ」
「わかりました」
「とにかく、南より前でスプリントさせることだ」
二人は、誰がどこまで牽引するかを、どのぐらいからなら、ゴール直前まで竹内が牽引できるか、という前提から逆算することで、大まかなプランを立てて行った。
そして、明日の朝までに、みんなに説明できるまでに、潤が整理するのだ。
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