第360話 全国高校自転車競技会 第7ステージ③
サイクルコンピュータの警告音がうるさいと思った。心拍数が設定された最大値を超えているということだ。
余計な設定をしてしまった、と植原は思った。
心拍数もパワーもスピードも、数値にはもはや意味はない。残り距離だけを表示してくれればいいのだ。
呼吸はずっと苦しい。唾液を飲み込むことすら、一度でもやってしまえば倒れてしまいそうだ。口から流れ落ちるに任せていた。
近江、森田が牽引していた時からずっとオーバーペースだったのかもしれない。だが、いったん始まってしまった流れは止めることはできない。
アシスト4人に牽引され、その力に突き動かされている。彼らの働きを無駄にしないため、今自分は走っているのだと植原は感じていた。
残り1kmのゲートを通過した。夏井の牽引が終わってまだ5分と経っていないはずだが、もう1時間近く走っているように感じていた。
後方からバイクが近づいてきた。後ろのグループが接近してきたという事だ。
誰か、天野か。振り返る。
バイクが避けた後に見えたのは、3人の姿だった。天野、冬希、黒川。
天野が下がり、冬希が先頭に立った。そしてすぐに黒川に替わる。
植原は我が目を疑った。この3人が協調することなどあるのか。共通で倒さなければならない敵は冬希なのではないのか。
かぶりを振って、甘い考えを追い出した。全員、総合を争う敵なのだ。
気持ちが切れそうになる。だが、ここで脚が止まれば地獄だ。
黒川、ユースチームの最強選手だ。
天野、国体少年男子ロードの総合優勝者。
そして青山冬希、光速スプリンターと呼ばれ、昨年の全国高校自転車競技会では1年生ながらに上級生たちを倒し続け、同学年のすべての自転車ロード選手の目標となった男。
それほどの男たちが力を合わせ、この慶安大付属のエースである植原博昭を倒しに来ているのだ。これほど心がふるえるシチュエーションがあるだろうか。
ふと、力が戻った。呼吸の苦しさも薄れていった。
自覚する限界の先にある境地。前エースである露崎は、死地、と呼んでいた。そこに足を踏み入れたということか。
「なんだ、まだ余裕があったんじゃないか」
声にならない。
植原は、サドルから腰を浮かせると、ダンシングで加速した。
後ろのグループは、黒川が先頭に立っていた。直後に天野、冬希が続く。もう先頭交代はしていない。その隊列のまま唸りを上げて突っ込んでくる。
そう来なくては。全員まとめて打ち倒して見せる。今までないほど高揚していた。
ペダリングは力を取り戻していた。誰にも負ける気がしない。
残り150m、通常であれば冬希のスプリントがここから始まる。来るか、光速スプリンター。
後ろを振り向く。
天野、そして冬希が踏み止めたのが見えた。
その瞬間、視界が暗転した。だめだ、まだ黒川がいる。安堵するのは早い。
叫び声をあげながら、黒川が追ってくる
呼吸の苦しさが一気に戻ってくる。脚も動かない。
なぜ体が言う事をきかないのか。悔しさで涙が出てきた。
「博昭くん!」
植原が顔を上げた。ゴールの向こうに雛姫が居た。泣きそうな顔をしている。
気が付けば、雄叫びを上げた。
理屈ではない。魂が叫んでいた。
ひと踏み、ふた踏み、そしてみたび踏むと同時に植原はフィニッシュラインを通過していた。
倒れそうになる。慶安大付属の部員の一人が体を支え、もう一人が後ろから押した。
横を、ハンドルを叩きながら黒川。そして天野、冬希の順で追い越していった。
下を向いたまま、咳き込んだ。呼吸が荒く、どれだけ経っても楽にならない。いっそこのまま気を失った方が楽なのではないかと思うほどだった。
倒れ込みたい。しかし、強くハンドルを握りすぎた指が硬直し、離れない。
その手が、ふと暖かいもので包み込まれた。
顔を上げると、雛姫が居た。植原の指を、一本一本優しく剥がしていく。
ようやく、指がハンドルから解放され、植原は二人の部員から抱えられるようにしてアスファルトの上に仰向きに寝かされた。少しずつ、呼吸は楽になってきた気がした。
「勝ったのか」
空を見上げ、そう呟いた。
他の事は、何も考えたくなかった。
ふと、宮之浦岳にかかった雲が、見えなくなっていることに気が付いた。風向きが変わった。追い風になっていたのだ。
勝てるときというのは、そういうものなのか。
呼吸の苦しさはもうない。走った後の心地よさと勝ったことへの喜びに満たされていた。
「雛姫」
「なに、博昭くん」
「慶安大付属のエースに恥じない走りを、出来たかな」
「うん、かっこよかったよ」
体を起こして、後輩から受け取ったボトルの水を、頭から被った。気恥ずかしくなり、雛姫の顔が見れなくなったのだった。
植原と黒川は、近い位置でゴールしたが、同一グループとは認められず、2秒のタイム差がつけられた。黒川と天野、冬希の二人との間隔は、植原と黒川の間隔と同じ程度だったはずだが、こちらは同一タイムとされた。
「くそっ」
負けた悔しさを隠さない黒川に、冬希はそっと近づいた。
「すみません黒川さん、先頭交代あんまり回れなくて」
「いや、あれは植原を褒めるべきであろうよ」
「なかなか捕まりませんでした」
「捕まりそうで、捕まらなかった。捕まりそうだという事と、実際に捕まえるという事が、これほど大きく異なるという事を思い知らされたことは無かった」
残り150mの時点では、もう冬希に、植原を捕まえるだけの脚は残っていなかった。
「ゴール前は、凄い粘りでした」
「ああ、どこからあんな力が出てくるのか、という程のものだった。奴の叫びは、心が震えるようだった」
永田、そして潤もフィニッシュラインを通過してきた。
「植原が勝ったか」
潤が、冬希たちの元へやってきて言った。
「東京のアシストの働きは、凄まじいものがあった。実力以上のものが出ていた。それを引き出したのも、植原の力ということだろう」
「アシストがあれほどの働きをしたのであれば、エースもそれに応えなければならんか。俺はずっと一人で走ってきた。アシストの協力というのは、それはそれで結構な重圧なのだろうな」
潤の言葉に黒川が反応して言った。
冬希は心の中で、多田さんの存在はどこへ行ったのか、と思ったが、口には出さなかった。
「人は、押しつぶされそうな重圧の中でこそ、不思議な力を発揮することがある」
「日頃のトレーニングの成果だけで決まるわけではないというのか。平良」
「黒川、極限状態で、不意に出すことが出来る力も含めて、実力なのだ」
潤は、国体で敗れた後、自分に足りないものが何なのか、あれこれ考えていた。その挫折があったからこそ、今の潤があり、神崎高校があるということなのだろう。
黒川は、考えてみよう、と言い残してその場を離れていった。
「冬希、ボーナスタイムは黒川と天野に譲ったか」
「あまり脚が残ってなくて、先頭交代もあまり協力できなかったので」
天野と黒川で7割は回っていた。残り2割は冬希で、最後の1割ぐらいは永田だったが、永田は途中で千切れていったので仕方なかった。
「獲りに行ったほうが良かったでしょうか」
「いや、お前が獲らないと決めたのなら、それが正しいだろう。負い目を感じて勝負所に影響が出るよりはずっと良い」
潤は、レース中の冬希の判断になにか注文を付けることは無い。
「植原に逆転されましたし。これから厳しくなるかもしれないですね」
「厳しいのは、大会が始まる前からずっと厳しい。そこは大して変わらないよ」
潤は笑って言った。そうかもしれない。冬希も笑った。
「お前、負けたのかよ」
柊がゴールしてきて言った。ここから柊に罵られる時間が始まるのだ。
■第7ステージ
1:植原 博昭(東京)131番 0.00(-0.10)
2:黒川 真吾(山口)351番 +0.02(-0.06)
3:天野 優一(佐賀)411番 +0.02(-0.04)
4:青山 冬希(千葉)1番 +0.02
5:永田 隼(愛知)235番 +0.10
6:平良 潤(千葉)3番 +0.22
■総合
3:植原 博昭(東京)131番 0.00
1:青山 冬希(千葉)1番 ⁺0.05
2:黒川 真吾(山口)351番 +0.05
4:天野 優一(佐賀)411番 +0.13
5:永田 隼(愛知)235番 +0.51
6:有馬 豪志(宮崎)451番 +2.50
■山岳賞
1:千秋 秀正(静岡)221番 16pt
2:植原 博昭(東京)131番 16pt
3:牧山 保(茨城)81番 9pt
4:平良 柊(千葉)4番 8pt
5:青山 冬希(千葉)1番 7pt
6:平良 潤(千葉)3番 5pt
7:黒川 真吾(山口)351番 4pt
■スプリント賞
1:南 龍鳳(宮崎)455番 155pt
2:立花 道之(福岡)401番 134pt
3:水野 良晴(佐賀)415番 133p
4:赤井 小虎(愛知)246番 127p
5:青山 冬希(千葉)1番 68pt
■新人賞
1:永田 隼(愛知)235番 0.00
2:竹内 健(千葉)5番 +6.20
3:藤松 良太(栃木)341番 +25.33
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