第357話 全国高校自転車競技会 第7ステージ レース前

 第7ステージの朝、東京代表の慶安大付属高校総合エース植原博昭は、ホテルの自室にあるソファに腰かけ、目を閉じていた。

 慶安大付属は、チームの伝統としてエースには個室が割り当てられている。前年のインターハイでエースを務めた露崎も一人だけ個室だった。

 マネージャーの沢村雛姫が部屋にやってきて、1枚の紙を渡してきた。何も言わなくてもわかる。第7ステージのレースプランだ。

 A4の紙には、補給食をどこで食べればいいか、ボトルの水に何kcalのエネルギーが入っており、どこまでに飲み干せばいいかなどが、事細かく記載されていた。選手たちはこれを頭に入れて、レースをスタートする。これらはすべて、マネージャーである雛姫の作成したものだ。

 昨年のインターハイの時に、フランスから帰ってきた露崎が、欧州のチームでは補給に関して厳密に管理されているという話をしていた。それを聞いた雛姫は関連書籍を読み漁り、各選手の能力やコンディション、消費カロリーなどのデータをもとに、練習時から計画を立てるようになっていた。

 雛姫はすごい、と植原は思った。

 東京の選手たちの体は、厳しく絞り上げられている。糖質を取りすぎるだけで、体が気怠くなるほどにだ。最適な状態で力を出し切れるのに、今や雛姫はチームにとって欠かせない存在となっていた。

 植原は、ふと戦いの事を雛姫に訊いてみようと思った。今までになかったことだ。

「千葉は、神崎高校は何故あそこまで強固なんだろうか」

 雛姫は、驚きながらも、すぐに話し始めた。

「青山くんは、勝てるところでしか勝負してないからじゃないかな。登りでは、他のチームと戦うというより、自分のペースで走ることを優先しているし、スプリントについても、今のところは宮崎の南くんと戦ってない。第8ステージ、第10ステージも平坦だけど、無理して出てこないんじゃないかな」

 雛姫の回答は、植原も何度も考えたことではあった。今度は質問を変えてみることにした。

「僕が、青山に勝つためには、どうしたらいいと思う?」

「青山くんより博昭くんが強いところで勝負することだと思う。今日のようなステージだと、勾配が足りなくて、今年のデータからだと青山くんでも上る計算になっちゃうんだ。スプリント勝負になると、今のところ上れる選手の中に、青山くんに勝てる選手はいないんだ」

 その答えも、植原の想像の範囲内だった。

「それはその通りだと思う」

「千葉は、アシストも作戦も、今のところ綻びがないから、そこから崩して……、あ、もしかして佐賀の選手が青山くんとぶつかったのって」

 雛姫が慌てて、自分の口をふさいだ。想像で発言することの危うさに気づいたのだろう。

「千葉のアシストを削っていくのは、当然の作戦だと思う。お互いにアシストは全員残しているけど、上れる選手、という意味ではうちは全員上れるのに対して、千葉は平良兄弟2人だけだからね」

「じゃあ、勾配のきつい第9ステージで」

「僕は、今戦わない者に、先の戦いなんてないと思っている」

 雛姫が口をつぐんだ。

 植原は、少しの間だけ目を閉じて、言葉を選ぶように言った。

「僕は、怖かったんだ。負けるのが怖かったんだよ」

「……」

「戦わないで逃げると、もう一度立ち上げることが出来ない気がする。その気持ちが僕を戦いの場に押し立てているんだ。怖くても……青山に負け続けるのが怖くても」

「青山くんに負けてるなんて」

「僕が戦いから逃げられないもう一つの理由を教えてあげようか」

「えっ」

「青山冬希に対する嫉妬だよ」

 植原は、言葉が止まらなくなっていた。堰き止めていた感情が流れ出て、止まらなくなっていた。

「昨年の大会から、ずっと彼は活躍していた。同じ1年生で、まるで体の出来が違う上級生たちを相手に、総合リーダージャージも着用した。インターハイでは、雲の上の存在だと言える露崎さんにも勝った。意識はしていたよ。ずっと気になる相手だった。でも、彼はスプリンターだからと、心のどこかで、ちょっと安心していたのかもしれない」

「うん」

「でも彼は今回、オールラウンダーとして僕の前に立ちふさがった。もう同じ舞台の上で戦っているんだ。逃げることは許されない」

「……」

「青山が勝つたびに、胸を掻き毟りたくなるような焦燥感に襲われる。それは耐え難い苦しみなんだ。友人が勝ってうれしいなどという、綺麗ごととは無縁な、僕の醜い本心だ」

 雛姫が息をのんだ。

「だから、僕は戦うよ。負けていいステージなんて、もう1つもないんだ」

「男の人って大変だね」

「大変で、幼稚で、どろどろした汚いものを抱えてるんだ」

「学校の、博昭くんのファンが聞いたらビックリだね」

 部屋をノックする音が聞こえた。

「植原先輩。ミーティングの時間です」

 1年生の近江の声だ。植原の後のエース候補として期待されている。

「わかった。すぐに行く」

 植原は、立ち上がった。本音を吐露したおかげか、すっきりした気持ちになっていた。

「聞いてくれてありがとう。決心がついた気がするよ」

「ううん、がんばってね」

「ああ、そろそろ冬希を止めるよ。これ以上あいつに勝たれると、僕の頭がおかしくなってしまいそうだからね」

 植原は笑った。雛姫も笑っていた。

 戦うと決め、初めて冬希が本当に身近に感じられるような気がした。

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