第354話 全国高校自転車競技会 第6ステージ③
佐賀は、メイン集団をスローペースでコントロールしていた。
可能な限り混戦に持ち込もうというのだ。
佐賀のキャプテンである坂東裕理は、武雄から平良潤への仕掛けの計画を聞いた時、その場で許可をした。武雄のプランは、それほど良くできていた。だが、武雄だけではなくチーム全体で状況を準備する必要があると考えた。
武雄は、平良潤のロードバイクのリアディレイラーを破壊すると言ってきた。リアディレイラーとは、ロードバイクの後輪のギアの変速機だ。ここに前輪を激突させることで、リアディレイラーとフレームをつなぐディレイラーハンガーを壊し、リアディレイラーを落としてしまおうというプランだった。
リアディレイラーは、中をチェーンが通っており、厳密には脱落することは無いが、少なくとも走行不能にしてしまうことは可能になる。
ディレイラーを壊したところで、各チームが1台ずつ用意しているスペアバイクに乗り換えられてしまえば、復帰されてしまう。少なくとも、タイムアウトで失格させることはできなくなる。
スペアバイクは、運営が複数台走らせているサポートカーに積載されている。
今回の武雄の提示してきたプランの要はそこにあった。
各チームのスペアバイクは、6台の車に8台ずつ搭載されているが、えびの高原の下りは道が狭く、基本的に運営はモトバイクで先導、補給、パンク時に交換するホイールの交換を行う予定となっていた。サポートカーは、迂回してゴール手前10㎞で再合流する段取りとなっていた。
一応、運営が用意した軽自動車のサポートカーがメイン集団の後ろを追走し、負傷者の治療や回収を行い、若干だが運営が用意したロードバイクも2台ほど用意されてはいた。
しかし、それを千葉の選手が使えない理由があった。
ペダルと、ビンディングシューズに装着されたクリートの種類の問題だった。
千葉の神崎高校は、チーム全員がスピードプレイというペダルと、それを装着できるクリートを使用していたが、ニュートラルが用意したロードバイクのペダルは、SPD-SLと呼ばれるもので、スピードプレイ用の神崎高校の選手のビンディングシューズでは、ペダルを使用することが出来なかった。
ニュートラルカーが合流する前に、バイク交換が必要なほどの故障が発生した場合、神崎高校の選手たちは、タイムアウトにより失格となる可能性が高いのだ。
リアディレイラーを壊すというやり方は、裕理の兄である坂東輝幸が後輩である武雄や鳥栖、そして当然裕理にも話したことがあった。ただ、基本的にはバイク交換で済んでしまうので、あまり使うタイミングは無いだろうとも話していた。今回はその点をクリアできるということだ。
武雄は、仕掛けるポイントをコース図で示してきた。
下りの途中では、お互いに怪我をする可能性が大きくなってしまう。
そもそも、相手に怪我をさせなくても、運営からペナルティを課される危険は少なくない。相手に怪我をさせてしまえば、失格は免れないだろう。メンバーが減れば、当然不利になる。現状で武雄を失うことはできない。
接触によってバイクを破損する。
タイミングが悪く、スペアバイクを搭載したサポートカーがなかなか来れない。
運営が用意したサポートカーはペダルの種類が合わない。
落としどころとしてはこのあたりが最適であろうと裕理も考えていた。
サポートカーが間に合っても、潤は、タイムアウトを逃れるためにかなりの労力を強いられるだろう。それは、じわじわと後から効いてくるはずであった。
水野と天野には、今回の作戦は伝えていない。伝える必要もないと思っていた。
動くな、とだけ言ってある。
知っているのは3年生だけだった。
手を汚すのは、自分たちだけでいいと思っていた。
えびの高原の下りで、東京は仕掛けてくる。そう冬希と潤は言っていた。
伊佐にもその理屈はわかった。
恐らく、48都道府県の代表チームの中で、1番下りに長けた選手たちをそろえていたのが東京だったからだ。
彼らは、毎週のように近隣の県に出向き、あらゆる上りと下りを練習してきているという。
だが、技術だけではどうにもならない事もある。
この日、えびの高原の下りは、5m先も見えない程の深い霧に包まれていた。
「冬希先輩、なんか凄いですねこの霧」
「うーん、霧というより、雲が山腹にぶちあたってるという感じかな」
冬希の言う通り、霧にしては、何か煙のように揺らいでいるような動きをしている。その点は、利根川の近くにある学校周辺によく発生する霧と違っている。
冬希は、リラックスして暢気に構えている。下りで東京に仕掛けられる心配がなくなったからか。
少し霧が晴れてきたが、東京はまだ仕掛けることが出来なかった。
鹿が出たのだ。
先頭のモトバイクが、手を上下させペースを落とせと指示をしてきた。
鹿が道路上に出ており、衝突の恐れがあるので、注意しろという事だった。
心無い観光客によって餌が与えられ、平気で道路に出てくる個体もいるらしい。そういった鹿たちは、車との事故によって命を落としていくのだという。
柊は、目を輝かせている。
「えびの高原って鹿がいるんだな」
「柊先輩、千葉県って鹿に似たキョンって外来生物が大繁殖しているらしいですよ」
「らしいな。冬希は見たことあるのか?」
「ないですね。あと、印旛沼にカミツキガメも大繁殖してるらしいですよ」
「怖いよな。この間、柏ビレジ水辺公園に行ったら、でっかい亀がいて、カミツキガメだって思ったら、でっかいスッポンだったんだよ」
「それも怖いですね」
伊佐は、何でこの二人はこんなに暢気なんだろうと、理解できないでいた。
鹿の発生地点を過ぎた今、メイン集団は佐賀が先頭に出ている。この大会で初めての事だ。
佐賀に頭を押さえられていることにより、メイン集団はかなり遅いペースとなっており、上りで遅れたスプリンター系チームの一部もメイン集団に追いついてしまった。ひどくゴチャゴチャしてしまっていて、ほとんど身動きも取れない。
伊佐は、佐賀がゴール前で混戦となるように仕向けているのではないかと思うのだが、佐賀の武雄が千葉のチームが集結している地点のすぐ近くにいるため、うかつにそのことを口にできない。徐々に展開がまずい方向に向かってきているように思えるのだが、柊と冬希はどう考えてもそのことを気にしているようには見えない。
下りが緩やかになっても相変わらず佐賀のペースは遅く、メイン集団も前方から後方までの間隔はひどく詰まっていた。
不意に、佐賀がペースを上げた。切れ脚鋭い。
気が抜けた状態となっていたメイン集団は、一気に混乱した。
佐賀は、コースの右端を、トレインを組んで進んでいく。
反対側にいた千葉も、コースの左端の先頭を走っていた。
メイン集団は、二つの頭を持つ蛇のような隊列となった。佐賀側の頭のほうが、かなり前に出ている形にはなっていた。
佐賀は、武雄、鳥栖、水野、天野、裕理という隊列になっている。
遅れて千葉は、伊佐、柊、潤、冬希、竹内という順番だ。
武雄がチラチラとこちら側の隊列に視線を向けている。
何かを仕掛けてくる。
伊佐は、千葉の隊列から離れて、佐賀のトレインの、武雄の後ろのポジションを奪いに行った。武雄が動いた時に、一番対応しやすい位置だ。
武雄の真後ろは、鳥栖という選手で、平坦が得意な選手特有の、大きな体の選手だ。
体格ががっしりしていて、伊佐が押し込んだところで、ビクともしないだろう。鳥栖の隣に位置できれば、それでいいと伊佐は思っていた。
伊佐が佐賀のトレインによって行くと、意外にも鳥栖は後ろに下がり、伊佐は武雄の真後ろという、ベストポジションを手に入れた。
上手くいった、という気持ちとは裏腹に、何か違う、という心の奥の声が聞こえた。
武雄が動いた。
武雄の背中に集中していた伊佐は、一緒に動いた。
しまった、と思ったのは、武雄が、コースの右端を走るトレインのさらに右側に動き、それに釣られて動いてしまった後だった。
佐賀は、右側に1台分の隙間を開け、武雄と伊佐はそこの下がっていく。
伊佐は、千葉のトレインのほうに動きたくても、佐賀や、その後ろの選手たちが間に入っており、横に動くことが出来ない。
鳥栖が、急に千葉のトレイン側に切り込んでいった。
武雄に続き、鳥栖も佐賀の牽引を終えて、下がっていっているようにしか見えない自然な動きだ。
鳥栖は下がっていく。
千葉のトレインの方は一切見ない。だが、後ろに目がついているのではないかと思えるほど、正確に潤に向かっていた。
「危ない!」
伊佐は叫んだ。だが、混乱を極めた大人数のメイン集団の中では聞こえない。
武雄ではなかった。鳥栖だった。
伊佐は、まんまと釣られた自分の間抜けさに絶望した。
ダメだ。
不意に、鳥栖の巨体が大きく弾き飛ばされた。
伊佐は、何が起こったのか理解できなかった。
潤の後ろにいたはずの冬希が、潤と鳥栖の間に、体を入れていた。
二回りは体の細い冬希が、大柄な鳥栖を吹き飛ばしていた。
「すごい……」
鳥栖は、バランスを崩しかけたが、後方から怒号を受けながらもなんとか体勢を保った。
この混乱で一瞬集団に中切れが発生した隙に、伊佐は千葉のいる位置へ戻った。
直後、佐賀のスピードも弱まり、千葉も集団に飲み込まれていった。東京、愛知らが集団の前に出た。山口の多田と黒川も上がっていった。
冬希は、戻ってきた伊佐の方をチラリと見たが、何も言わずに潤のほうを向いた。
「潤先輩、俺はステージ優勝を狙ってきます。佐賀は今日はもう仕掛けてこないと思います」
「冬希、竹内を連れていけ」
潤が振り向くと、竹内が頷き、冬希を牽いて集団の前の方に上がっていった。
冬希も潤も、いま起こったことなどなど、何も無かったかのようだ。
伊佐はまだ、自分の心臓がバクバクいっているのを感じていた。
「潤先輩、大丈夫でしたか」
それ以外の言葉が出てこなかった。
「本気ではないと思う。ぶつけて落車させるという、そういう勢いではなかった」
「柊先輩の前に出ます」
「そうしてくれ」
竹内と冬希が上がっていったので、千葉のトレインでは伊佐が先頭に出て、柊と潤をある程度の位置でとどめる役割をする。
「伊佐、冬希はあんな選手とぶつかっても、ビクともしなかったな」
「はい」
「いやあ、いいものが見れた」
アイウェアの奥の目までは見えなかったが、少なくとも伊佐には、直前まで狙われていた人の声色には聞こえなかった。
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