第352話 全国高校自転車競技会 第6ステージ①

 第6ステージは、垂水からえびの高原を上って、下りた先にある加治木がゴールとなっている、中級山岳コースという扱いになっていた。

 スタート地点は港になっており、海は透き通って、時折かなりの速さで泳ぐエイが通り過ぎていく姿が見えた。

 千葉の1年生スプリンター伊佐雄二は、三つ上の兄がおり、学力の面で極めて優秀で、都内の大学の医学部に自宅から通っている。

 兄が子供のころから優秀だった半面、弟は幼少から落ち着きがなく、3歳で入った兄と同じ体操教室も、2か月と続かずやめることになった。同じ学年の子供たちと同じようにすることが出来なかった。準備運動どころか、ずっと座っていることすらできなかったのだ。

 兄のおさがりの自転車で、国内のプロチームが主催する自転車レースの6歳以下の部に出場し、優勝したのはその3か月後だった。

 伊佐は、その頃のことはよく覚えていなかったが、自転車に乗り始めて、いろいろなところへ行ったりすることにより、兄曰く

「感覚統合により、脳が適切に処理できるようになったんだろう」

 ということだった。

 小学校低学年の頃、親や先生にどんなに叱られてもできなかったことが、ある時期から、急に理解できるようになった。今までの自分は何だったのか、と思うようなことも、多くあった。

 兄は、よく親から弟を庇っていた。

「叱っても意味はないよ。放っておいても、雄二はすぐにできるようになるよ」

 伊佐は、兄がただ自分に優しいだけだと思っていたが、もしかしたらそのころからすでに何かわかっていたのかもしれないと思ったが、今日までそのことについて確認したことはなかった。

 過去の自分について、恥じることが多いと思う反面、今の自分についてはそこまで振り返る余裕がなかった。まだまだ分からないことが多すぎたのだ。

 レースがスタートした直後、いつも逃げていた牧山や、水野といった選手たちが、一切動こうとしなかった。スタートからペースがそれほど上がっておらず、逃げるには絶好のチャンスであるにもかかわらずだ。

 集団は横に広がってはいるが、アタックを阻害するために蓋をしている、という感じではなかった。むしろ、総合上位のチームたちは、誰かがアタックをかけて逃げを決めてくれるのを待っている気配すらあった。

 茨城の牧山は、一昨日の逃げでの疲労が抜けきれず、動けていないのかもしれない。今日は集団の前方では一切姿を見ていない。ステージ1勝して、今大会の仕事を終えたという事なのか。

 ただ、佐賀の水野は、スプリントポイント賞争いで、宮崎の南龍鳳と争っており、えびの高原への上りの前に設定してある中間スプリントポイントは、何が何でも取りに行かなければならない立場のはずだった。

 伊佐は、国体の時は、自宅の住所がある東京代表として出場していた。その際に、チームのエースであった植原から

「今までと変わった動きをするチームがあったら、警戒する必要がある」

 と教えられていた。

「伊佐、ちょっといいかな」

「はい、冬希先輩」

「佐賀の隊列がいつもと変わっている。序盤は鳥栖選手、武雄選手、天野選手という並びだったのに、今日は武雄選手が一番後ろに下がっている」

 伊佐は、冬希の言うとおりだと思った。武雄がいたポジションには、今は水野が収まっている。

「はい、佐賀の動きがいつもと違うのは気になっていました。逃げが決まった後も変わらないようだったら、俺からも報告を上げようと思っていました」

「武雄選手の動きに注意してくれ」

「はい、わかりました」

 三重と岡山から一人ずつ逃げが出て、メイン集団は総合リーダージャージを着用する植原の東京がコントロールを開始した。

 伊佐は、武雄の動きに不自然な点を見つけた。アイウェアを着用していて視線はわからなかったが、千葉の隊列の中から冬希や柊、竹内が下がっていっても何の反応もなかったが、潤が下がった時だけ、武雄もメイン集団の後方に下がっていった。

 メイン集団が落ち着いたタイミングでは、補給を受け取りに行ったり、知り合いと雑談をしに集団内を移動したりするのは珍しくないので、注意していなければわからなかったことだ。

 隊列が横に広がり、佐賀のチームと距離が出来たタイミングで、伊佐は思い切って潤に言った。

「潤先輩、佐賀の武雄っていう選手の動きが変です。先輩をマークしているように見えます」

「伊佐、君が気にすべきは、冬希を総合優勝させるという点だ」

「はあ」

「僕がどうなろうと、冬希が勝てればそれでいい。そのためには、僕の事なんか気にしている暇はないはずだ」

 潤は、表情を全く変えずに言った。

「潤先輩は目標にされています。佐賀は、武雄選手は必ず動いてきますよ」

 潤は、さりげない声で言った。

「わかっているよ、伊佐。僕はずっと、その時を待っていたんだ」

 潤の声は相変わらず淡々としてた。

 伊佐は、その言葉の意味をしばらく理解できない程だった。

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