第321話 苦行と復帰レース

 冬希は動揺していた。自転車に乗り始めて、初めてという程に。

 バランスをとることに気をつけなければならないほど、体は思い通りに動かず、そんな冬希を置き去りにするかのように前方では激しいペースアップが行われていた。

 冬希が、野球場が見え始めるぐらいの位置にいる時に、先頭集団はすでに最後の坂を登ろうとしているのが見えた。

 今の自分は、あんなペースで走れるのだろうか。勝てるのだろうか。

 とりあえずペダルを踏んでいる、そんな状況が少しの間続いた。

 2周目、つまりアタック合戦が始まってから1周が終わると、流石に集団も散り散りになり始めていた。

 まだ最後方のあたりでモタモタしていた冬希は、目の前のグループの選手たちに視線が吸い込まれた。

 集団から千切れ、ペースも上がらないグループの中にありながら、中年の男性二人が楽しそうに談笑しながら走っていたのだ。

 冬希ははっとなった。

 彼らは、レースに出るということ自体を楽しんでいるのだ。勝つとか負けるとか、そういったものを目指しているのではなく、自分がどの程度頑張れたとか、次はどれぐらい頑張ろうとか。きっと彼らはあまり高い順位でゴールすることはないだろう。だが、きっと満足して帰るはずだ。

「やれる範囲でやってみるか」

 冬希はつぶやいた。

 元々、神崎からの指示は、落車しないように、ということだけだった。勝てとは言われなかった。休養明けの冬希に、少しずつレース勘を取り戻させようとしているのかも知れない。

 冬希は、サイクルコンピュータを見た。

 骨折してからのトレーニングで、冬希はサイクルコンピュータやバーチャルサイクリングアプリに表示される数値と向き合う時間が長くなっていた。

 どの程度のパワーなら何時間走り続けられるか、ここ数ヶ月のローラー台でのトレーニングで、それがわかってきた。

 4周もすると、体も温まってきた。バランスの取り方も、体が思い出してきた。

 冬希は、サイクルコンピュータのパワーを頼りに、3時間ぐらいなら、このぐらいのパワーで走り続けられる、という数値を維持しながら、一定ペースで走ることにした。

 レース自体は落車もなく平和に進んでいたが、万が一のことを考え、他の選手の後ろには入らずに、なるべくコースの真ん中から外側を走っていくことにした。

 いくつかの小集団を次々に抜いていく。特にペースを上げているということはない。冬希は平坦も登りも、同じ出力でペダルを踏み続けた。

 5周もするうちに周回遅れも出始め、もはやどの集団が同一周回で、どの集団が周回遅れなのか、冬希にはわからなくなっていた。

 冬希自身は他の選手の後ろで走ることを避けたが、それに対して他の選手たちは冬希の後ろに入り、ドラフティングを利用した。

 ただ、振り返るたび、冬希の後ろに連なっている集団は別のものに替わっていた。

 レースの半分でもある1時間半が経過した頃、冬希は今自分が何位なのか、何周目を走っているのかも、全くわからなくなっていた。

 ひたすらコースの真ん中より外側を、誰の後ろにつくこともなく、淡々と走り続けた。これはもう、レースに出ている意味があるのだろうか、というような気さえしてきた。

 ただ、みんなと一緒に走っているということが、嬉しかった。

 神崎から徐々にパワーを上げるように指示が来ていたローラー台のトレーニングは、辛くはあった。だが本当に大変だったのはトレーニングがキツいという点ではなく、トレーニングが長いということだった。

 冬希の自室には、テレビもなく、スマートフォンはトレーニングアプリが起動しっぱなしだったので、本当にただひたすらペダルを踏み続けるということを、3時間近く続ける羽目になった。

 冬休みに入り、真理と付き合うことになった後、関係性が大きく変わったという感じはしなかったが、よくビデオ通話で話すようになった。真理が長野に行っている間、会えなくはあったが、それが唯一の楽しみとなっていた。だが、その最大の障害が、神崎から課せられた、長時間のトレーニングメニューだった。

 冬希のトレーニングは、Stravaというアプリで毎日公開され、サボれば一発でバレてしまう。神崎にも見られていたことだろう。冬休みに入る前は、ただ真面目にこなしていた冬希だったが、冬休みに入ってから、公開されるトレーニングのタイトルが、

「ひたすら同じものを食べさせられている気分」

だとか

「どうにかして逃げられないものか」

だとか、だんだん苦悩に満ちたものになっていった。

 実際にレースで走り始めた時は、いろいろな違和感を感じはしていたが、徐々にそれも慣れ、むしろ体が軽く感じるようになった。

 2時間を経過したあたりだったろうか、冬希は先頭と思われる3人のグループに追いついた。序盤に脚を使いすぎたせいか、3人ともすでに苦しそうに見えた。

 冬希は、その3人に合流することなく、一気に抜き去った。彼らも、冬希に追い縋るようなことはしなかった。

 3時間のレースを終え、ゴールした時は、冬希は2位の選手に2周差を付けて優勝していた。

 この結果に一番驚いたのは冬希だった。

 ゴールした後に、あまりに場違いなレースに出てしまったかと心配した冬希は、主催者に計測タグを返すときに、

「一応、高校でそれなりに実績を残した者なので、今回はオープン参加ということで順位外でも・・・」

 と言ったが

「いえいえ、今日は実業団で走っているような選手も出てますから、気にしないでください‘」

 と言ってもらえた。そんな中でも、冬希の出した結果はかなり圧倒的なものだったのだ。

 勝てたのはよかった。だが、冬希は神崎に言わなければならないと思っていたことがあった。

 冬希が、自分のロードバイクを押して駐車場に戻ると、竹内が

「流石でした。お疲れ様です」

 と冬希の自転車を受け取り、ボトルなどを外して軽く手入れを開始した。

 冬希は、竹内に礼を言いつつ、ニコニコしている神崎に思い切って切り出した。

「あの・・・そろそろあの長時間のローラーの練習から解放してもらえないでしょうか」

 レースに勝ったとは思えない、絶望的な冬希の表情を見た神崎は、少し考えた風だったが、

「じゃあ、練習メニューを変えようか」

 と言い、冬希は心から安堵した。


 神崎は、冬希に対して心から感心していた。あんな練習メニューを3ヶ月も真面目にこなしていたのだから。

 神崎が、エースを任せる選手にこの練習メニューを出したのは、冬希が初めてではなかった。

 現在3年である船津や郷田の前の代の、2名のエースにこの冬の期間の練習を課した時は、初日で

「こんな練習やってられるか!」

 と突き返された。

 船津と郷田にも同様に冬季練習メニューを課したが、船津は予備校があり、郷田も母の病院に行く日があったため、毎日というわけにはいかなかった。週の半分もできていたら上出来だっただろう。

 よく文句も言わずに続けるものだ、と神崎は思っていた。

 最近は、アプリにアップされるトレーニングのタイトルに泣き言が並び始めたが、それでもなされるがままに1日3時間近くもローラー台に乗るという苦行を続けてきた。

 鎖骨を固定していた金具の抜釘も終わり、復帰したレースでは想像以上の結果も残した。

 次の段階に進むべきだと神崎は考えた。

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