第320話 始動

 年が明け、冬希は抜釘の手術を受けた。

 鎖骨の固定を行ってから4ヶ月後のことだ。

 最初は、サーファーのような風体で少し不安に感じた主治医も、手術を受けて一度も肩の痛みを感じずに、骨折前と同じ生活が続けられたことから、冬希は手術をしてくれたこの先生に全幅の信頼を寄せるようになっていた。

 褐色に日焼けし、大きく開いた胸元に金色のネックレスをつけたこの医者が、12月一杯でいなくなると知ると、冬希は1月予定だった抜釘の手術を12月に前倒せないかと相談したほどだ。

 ただ、返ってきたのは

「私も、できれば最後まで見届けたかったのですが」

 という優しい否定の言葉だった。

 サーファーのような主治医の代わりに担当になったのは、日曜の落語家による大喜利番組の司会のような、眼鏡をかけた青色い、ニコニコ笑ったような顔の医者だった。

 この先生により抜釘の手術が行われ、冬希は何の問題もなく退院することができた。

 鏡を見ると、不自然に盛り上がっていた右肩は、左肩と同じような高さに戻っていた。

 まだ傷口か完全に塞がってはいないため、当分はガーゼなどで覆われた状態ではあるが、縫合した箇所は、糸が自然に体内に吸収されるため、抜糸の必要はないと言われた。

 それ以上に冬希を心配にさせたのは、手術後の注意事項が一切なかった点だった。

 しばらくは安静に、だとか抜釘直後は骨が弱くなっているから無理するなとか、そういう話があるのかと思っていたが、傷口が傷んだら痛み止めを飲め、と言われただけで、何の制限事項も課せられなかった。

 結局冬希は、傷口が塞がるまでローラー台での練習も控えたものの、傷口が塞がってしまったその瞬間ぐらいには、レースに出場することになるのだった。


 神崎高校自転車競技部の監督兼、神崎高校の理事長である神崎秀文によってエントリーされていたのは、1月下旬の3時間エンデューロだった。

 距離が短いクリテリウムでは、集団がばらける前にゴールしてしまうため、集団スプリントになりやすく、落車に巻き込まれるリスクがあることからのチョイスだということだった。

 冬希としては骨折以降、ローラー台にしか乗って来なかったため、自分がどういう状態なのか全く把握していなかった。神崎からの、

「危ないから、フレンドリーパーク下総までは、僕が載せていくからね」

 という申し出も、冬希を一層不安にさせた。

 朝もまだ暗いうちから、冬希の家に迎えにきた神崎の車には、来年度神崎高校に入学予定の竹内の姿もあった。

 最初は、冬希のアシストとして一緒に出ると言ってきかなかったそうだが、

「一般の市民ロードレースでアシストつきで出たら、青山くんが顰蹙を買ってしまうから」

 と説得されたらしい。

 冬希のビアンキOltre XR4をテキパキとルーフキャリアに載せる竹内は、完全に冬希の付き人を自認しているかのようだった。

 現地に着くと、すでに90分のエンデューロが行われており、こちらは初心者向けのため、小学校低学年ぐらいの子供が、後ろに伴走の父親らしき選手を従えながら走っている姿もあった。

 90分エンデューロが終わり、3時間エンデューロの試走が始まった。

 計測チップの取り付け、空気圧の確認など、竹内が完璧にやってくれたので、冬希はボーッとしていただけだった。

「竹内くん、今回は怪我明けだからやってもらったけど、次回からはちゃんと自分でやるからね」

 冬希の言葉に、竹内は心底残念そうだった。

 試走のためにコースに出ると、神崎が危ないからといった意味がわかった。

「なんか、ふわふわする。大丈夫かこれ・・・」

 ずっとローラー台に固定された状態で自転車に乗り続けてきたため、バランスの取り方を忘れてしまっているかのような感覚に囚われた。

 固定ローラー台に乗っての練習では、当然転倒することもないため、左右のバランスの取る必要がない。しかし、実車で走ると当然そういうわけにもいかない。これが冬希の違和感の正体だった。

 試走は20分程度で打ち切られ、ウォーミングアップにもならないまま、ライダースミーティングが始まった。

 主催者からの注意で、公園自体がドクターヘリの発着場になっているため、近所で事故や急病人が出てドクターヘリが着陸するような場合はレースを中断するという話があったが、それが自分が原因でなければいいなと、本気で心配になった。

 冬希は、不安からスタートラインでは最後尾に並ぶことにした。集団の中でフラフラ走ったらそれこそ周りの選手たちの迷惑になる。

「青山先輩、リラックスしてください」

 竹内からそう声をかけられるほど、冬希の顔は強張っていたのだろう。

 号砲が鳴り響き、前方からペダルにクリートを嵌める音が聞こえ始めた。冬希の位置はまだ前方が動き出したことすらわからない。

 ようやくゆっくりと隊列が進み始め、冬希も最後方から走り始めた。

 バイクなどの先導もなく、ライダースミーティングで言われていた

「1周目はゆっくり」

 という指示に従って、前主たちが自主的にペースを落とした1周目が終わり、レースペースが一気に速くなった。

 最後方の冬希の周りの選手たちは、最初から優勝を目指したりはしていないのか、マイペースでゆっくり走り始めた。

 冬希は、落車にだけは巻き込まれないようにと、集団の隊列から自転車3台分ほどコース外側に避けた位置で走っていた。

 前方では一気にペースが上がったのがわかったが、冬希はまだ後方でモタモタしていた。

「青山先輩、集団から離されないように!」

 竹内の檄が飛ぶ。ただ、冬希は困惑していた。

「えっと、一気にペースを上げる時って、どのぐらいあげれば良いんだっけ?」

 ずっとローラー台で一定のペースでしか走ってこなかった冬希は、どの程度の出力で走れば、何時間ぐらい走り続けられるかという点は理解を深めることができたが、急なペースアップでどれぐらい力を使っていいのか、全くわからなくなっていた。

 冬希は完全に、急にペースアップした集団においていかれることになった。

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